エピローグ:第一部
「ひでぇ有り様だな、こりゃ……」
ボロボロと崩れた建物、痩せ細った住人、カンシチは思い描いていたきらびやかな王都とは真逆な春陽の惨状に言葉を失った。
「あぁ……これが猛華全土に轟く灑の王都の現状とは……!」
カンシチの隣にいるセイも静かに憤っている。
「王宮周辺以外はこの様だ。治安維持部隊とかいう奴らと腐った役人達のせいだな」
「ッ!!」
「うおっ!?」
そんな彼らの前にいつも通り蘭景が音もなく参上する。セイはなんとか耐えたが、カンシチは毎度お馴染みの驚きの声を上げた。
「お、驚かすなよ……!」
「何度も言うが別に自分はそんなつもりはないんだがな。というか、さすがにそろそろ慣れてくれないか?」
「こんだけやって慣れてないんだから、無理だね……つーか、お前も春陽に来たんだな」
「自分は貴殿らよりも早くここに侵入している。三の門突破と宰相撃破の報が今言ったこの惨状の原因どもに届く前に急いでな」
「そいつらを逃がさないためか?」
蘭景はマスクで覆われた顔を縦に動かした。
「宰相諸葛楽……いや、蚩尤が惨状の発端なのは間違いない。しかし、奴だけではここまでひどいことにはならなかっただろう」
「その腐った奴らが私腹を肥やそうと、宰相の権威を振りかざして好き放題したってわけか」
「あぁ、自分の調べでは蚩尤の望む研究資金なんてのは実は大したことない。うまいことやりくりすれば民に負担を負わせる必要などなかった。実験台についても、死刑待ちの罪人あたりを宛がってやれば良かったんだ。なのに奴らは国を守る使命を忘れ……!」
蘭景は眉間にシワを寄せ、拳を握り、怒りを露にした。
「確かに役人どもがしっかりしてれば、おれ達もこんな苦労しなくて済んだのに……」
失望と呆れでカンシチはため息をついて、肩を落とした。
「気が抜ける気持ちもわかるが、過去形にするにはまだ早い。オレ達の戦いは……奴らとの因縁はまだ終わっていないのだからな……」
「……あぁ、わかってるよ……!」
セイに渇を入れられ、カンシチは背筋を伸ばし、表情を引き締め直す。
「まさか目の前で朱操を黄括なんかに連れていかれるとはな……」
今思い出してもムカつくのだろう、カンシチは自らの手のひらに拳を打ち付けた。
「オレ達が奴を止められていたら、蚩尤に逃げられることもなかった」
「あぁ、詰めが甘いなんてレベルじゃねぇ……!」
今度は自分への怒りを込めて、再びパンッ!と自分の手を殴る。
「それに奴が担いでいたものは……」
二人の脳裏に黄括の背中にあった布にくるまれた謎の物体の姿が浮かぶ。いや、謎でもなんでもない……二人はそれの正体にすでに目星がついていた。
「あの形……間違いなく弓だ」
「ただの弓ならあんなギリギリの状況で後生大事に抱えてはいないだろう。つまり……」
「特別な弓……そんな弓におれ達には一つだけ心当たりがある」
「無影覇光弓……奴らやはり手に入れていたか……」
「おれ達が愛羅津さんと一緒に手に入れようとしていた神遺物があんなくそ野郎の手に……!」
あの遺跡で蚩尤達が来なかったから、きっと自分達の手元にあったはずの宝物を思い、カンシチはさらに悔しさを滲ませた。
一方、セイは涼しい顔をしている。そのことに関しては彼は心配していないのだ。
「大丈夫だ、カンシチ。無影覇光弓についてはいずれオレ達の下にあっちから来る」
「あ?精神論か?それとも希望的観測?」
「ただの事実さ。いい道具は使い手を選ぶ……天下最強の弓がたどり着く場所なんて、一つしかないさ」
セイはカンシチの顔を見て、笑みを浮かべた。
コツンコツンと豪奢な王宮に足音が寂しく響く。本来は多くの人々が忙しなく動き回っているこの王宮に、今は二人の男だけしか、兄と弟だけしか残っていない。
弟は普段ならお付きの者に開けてもらう扉を自らの手で開いた。
王宮の中でも特に豪華絢爛な装飾が施された謁見の間の一番奥、玉座に兄はポツンと一人座っていた。
「久しぶりだな、炎よ」
「ご無沙汰しております、兄上……」
兄との再会に弟は笑み一つこぼさなかった。これがきっと兄とこうして話すことは最後になるとわかっていたから……。
「会うのは久しぶりだが……もしかしたらこうして二人っきりっていうのは、初めてかもしれんな」
「ええ……誰かしら私達に付き従っていましたから……」
兄の言葉を証明するように二人の間をすきま風が吹くと、姫炎はなんとも形容し難い切なさを感じた。
「このわたしとお前、この王宮で生を受けた」
「はい……」
「だからこの王宮だけは守ろうと頑張った。ここを建てた始祖、姫麗にも悪いしな」
「はい……」
「蚩尤の奴はここにお前らを誘い込んで、王宮ごと爆破させるなんてふざけた案も考えていたんだ。それをわたしが必死になって、止めたんだ」
「……良くやったと、褒めて欲しいのですか……?」
「…………どうだろうな」
姫山は自分でも何を求めて、そんな下らないことを口にしたかわからず自嘲した。
散々自分を蔑むと、姫山は再び真剣な面持ちを取り戻し、真っ直ぐと弟の目を見つめた。
「二つ……二つだけ願いを訊いて欲しい」
「……なんでしょうか?」
「我が幼い息子、姫陸には何の罪もない。命だけは助けてやって欲しい」
「…………」
姫炎は返事をしなかった、いや正確にはできなかった。自分の一存で国家の未来を左右する決断など、これから国を背負う者として軽々と口にできないと思ったのだ。
だが、一人の人間姫炎としては、彼個人の気持ちで言えば、答えは決まっている。できることなら……。
姫山も弟の気持ちがわかっているから、それ以上は問い詰めず、次の話に移行した。
「二つ目の願いだが…………」
「……兄上?」
言葉に詰まる兄を弟が心配そうな顔で見上げた。その顔が姫山には懐かしくて、誇らしくて……思わず笑みがこぼれる。
それが灑の国皇帝、姫山の最後の笑顔であった。
「炎、わたしのようにはなるなよ」
「!!?」
ガリッ!と何かを噛み砕く音が謁見の間にこだまする。その音を聞いて、姫炎は全てを察したが、すでに事態は手遅れだった。
「がはっ!!?」
「兄上!!?」
姫山は口から大量の血を吐き、頭から王冠を落とし、自分自身も玉座から転げ落ちる。
しかし、地面にぶつかる直前に駆け付けた弟、姫炎が兄の身体を受け止めた。
「兄上!まさか毒を……!?」
「……優しいお前のことだ……頭では国を歪めた責任を取らせるには……わたしの命を……処刑しかないとわかっていても……きっとできないだろう……だから、わたし自らの手で……」
「生きて……生きて償う道もあったのでは……!」
「民なら……そうかもしれない……だけど玉座についた者にはそれは許されない……だから……これでいいんだ……炎……」
「兄上!!」
兄は最後の力を振り絞り、涙目になっている弟の頬を撫でた。弟はそんな兄の血塗られた手をしっかりと掴む。
「世継ぎが生まれなかった焦りと負い目を……まんまと突かれた……また産まれた姫陸が可愛くて……蚩尤に何ももの申せなくなった……愚かだった……!」
「はい……!兄上は愚かです!しかし……しかし、私は兄上が重責に苦しんでいたことは重々理解しておりました……!なのに私は……!」
「自分を責めるな……全てはわたしが……お前の助けを拒絶したからだ……水と風……王家に相応しい立派な息子に恵まれたお前に下らない嫉妬をして……肩肘張らずに……あいつらに後を継がせる覚悟を決めていれば……」
「二人は私にはもったいないほど優秀な息子です……」
「二人にも……わたし達のようになるなと……伝え……」
スルリと兄の手が弟の手の中から滑り落ちた。
「兄上……?」
弟の声に兄が応えることは、もう二度とない。
灑の国皇帝姫山、自らの意志で黄泉へと旅立つ。
姫炎はしばらく兄の亡骸を抱きながら、沈黙していた。しかし、いつまでも悲しみに浸っているわけにはいかないと、兄を抱きながら立ち上がり、踵を返す。
先ほど自分で開けた扉は、いつの間にかいたおさげのメガネが開けていてくれた。とはいっても、従者達とは違い、腕を組んで扉に寄り掛かるという不遜極まりない態度だったが。
「一応、言っておく。姫陸は殺しておいた方がいい。火種は今のうちに潰しておくべきだ」
外に出ようとした瞬間、ジョーダンが新皇帝に囁いた。姫炎は立ち止まり、彼の方を向く。
「それは一般論だろ?お主自身はどう思っているんだ?」
ジョーダンは手のひらを上に上げ、とぼけた表情を見せる。
「さぁ?少し前だったら、絶対にそうすべきだと、人の上に立つ者として覚悟を見せろとあんたの胸ぐらを掴んでいただろうけど……」
「今は違うのか?」
「最終的に決断するのは皇帝の役目だ。その決断を、その後の行いで正しい選択にするのも、皇帝の仕事。全部あんた次第、好きにすればいいさ」
蚩尤との一応の決着をつけたことで憑き物が取れたジョーダンは穏やかな顔で、常人には耐え難い選択肢を丸投げした。
「なるほどな」
「で、あんたはどうするんだい?」
「さぁ?どうしようか?」
「えっ」
質問返しされた姫炎もきっと今までしたことないとぼけた顔をした。予想外の返事にジョーダンはきょとんと思考を止めた。
呆然とするジョーダンに満足したのか、姫炎はにこやかに部屋から出て行った。最後に……。
「私もできることなら、カウマの離島に生まれたかったよ」
そう言い残して……。
「姫炎の炎は敵を焼き尽くす地獄の業火ではなく、人を温め、導き、照らす篝火か……本当に……生まれる時代と場所を間違えたな……」
ジョーダンは謁見の間の天窓を見上げた。空はどこまでも澄み渡り、太陽が燦々輝いている。
こうして皇帝姫山は死に、彼の弟姫炎が新たな王となった。それは灑の国にとっての新たな、そして大きな一歩であった。
だが同時にそれは国内という枠を超えた新たな、大きな戦乱の始まりでもあったのだった……。