若獅子修行中②
「ここがお主の修行場所じゃ」
「ここが……」
リンゴは言葉を失った。
そこは崑萊山にある激しい風が吹きすさぶ険しい谷間であった。
「ここで自分は何を……?」
「この先にある泉の底にある水草を取りに行ってもらう。夕飯で使うから」
「なるほど、今日の夕飯のお使いですか……え?」
「ん?どうした?早く行け」
「いや、自分の聞き間違いかもしれないんで、もう一度確認しますが……夕飯に出す食材を取りに行くんですか?」
「あぁ、その通りだ」
「ええ……」
さっきまでの真剣な表情が嘘のようにリンゴは顔を崩し、不満を全力で露にした。
「なんじゃその顔は。強くなるために何でもやると言ったのは、嘘じゃったのか?」
「その言葉に嘘はありませんが、いくらなんでもただのお使いなんて……」
「ならばどんな修行なら良かったんじゃ?」
「それはもちろん鍛えたり、新しい技を会得したりとか、修行っぽい修行ですよ」
リンゴは拳を打ち込んだり、蹴りを振り抜いたりして、慧梵の意見が変わるようにアピールした……が。
「お主、本気でそんなことして本当に強くなれると思っておるのか?もしかしてバカなのか?お主」
「ええ……」
真っ正面から否定された、というかバカにされた。
「そこまで言われるような意見だと思わないんですけど……っていうか割と普通なことを言っただけの気も」
「確かにお主の意見は至極普通じゃ。実際やってみたら、それなりに成果が出るやもしれん」
「だったら……」
「で、そんな普通のことをやって、たった二週間であの玄允に並ぶ強さを得られると思うのか?」
「ッ!!?」
再びリンゴの脳裏にあの圧倒的な強さの業天馬の姿が甦ると、それだけで背筋が凍った。今の自分では想像であっても、奴に勝てるビジョンなど思い浮かべることなどできなかった。
「……とてもじゃないが、自分のやり方では奴との差を埋められる気がしません……」
「素人がそれなりに戦えるようにするならまだしも、お主のようなすでに一流の武道家を、それ以上に優れた才能を持った戦士に勝てるようにするには、とにかく時間が足りんし、そもそも時間をかけてどうにかなる問題でもない」
「つまり正攻法ではダメということですね……」
「うむ」
「……自分が間違っていました。もう決して慧梵様の言葉には決して逆らいません」
「ならば早く行くといい。ほれ、この袋の中に詰めて来い」
「はい」
慧梵に袋を渡されると、リンゴは懐に仕舞い、向こう岸に渡るための今にも崩れそうなボロい橋のもとへ……。
「この橋を渡るのか……ちょっと怖いな……」
「何を言っとるんじゃ。お主はこっち」
「え?」
慧梵が指を差す方向を見ると、橋と同じく向こう岸まで一本の綱が伸びていた……一本の綱が。
「え?もしかして、あの綱を渡って行くんですか?」
「もしかしなくともそうじゃ」
「それはさすがに……」
「儂の意見には逆らわないんじゃなかったのか?」
「うっ!?」
言質を取られているリンゴに選択肢はなかった。
「……わかりました。やればいいんでしょ、やれば」
半ば自棄になって、綱の前に立つと、横から見ていた時よりもずっと細く感じ、その先に見える霧のかかった谷底に思わず息を飲む。
「……本当にこの綱渡らなきゃダメなんですか?」
「だからダメなんだって、ごちゃごちゃ言っとらんで早く渡れ」
「他人事だと思って……!!」
ぶつくさと文句を言いながらも、リンゴは綱に足を乗っけると……。
「ん……!まぁ、バランス感覚の訓練もしているから落ち着いてやれば……」
そのまま一歩二歩と結構なスピードで進んで行った。
「さすが拳聖の一番弟子じゃな。初めてでこれだけ速く進める奴は早々おらん」
「そう言ってもらえると嬉しいですが……何、やってるんですか?」
慧梵は元始天尊を装着して、土で綱の横に丈夫そうな橋を作りながら、悠々と並走していた。
「儂の場合はこれが一番速くて、一番安全なんじゃよ」
「そうですか……」
「それより儂のことなど気にせずに綱と足元に注意した方がいいぞ。突然、風が吹いたりするからここ」
「そうで――」
ブオォォォォォッ!!
「――す!!?」
言ってる側から突風!風に人より恵まれた体格を煽られ、リンゴは綱から……。
「くっ!!」
ガシッ!!
落ちそうになったが、かろうじて手を伸ばし、綱を掴んだ。
「言わんこっちゃない。修行に身が入ってないから、そんな無様を晒すことになるんじゃ」
「その言葉、甘んじて受け入れ……ます!」
リンゴは腹筋を使い、足を上に、そしてそのまま綱に引っかけた。
「この修行はこうしてぶら下がりながら行ってもよろしいですか?」
「別に構わんよ。向こう岸に渡って、泉の底にある水草さえ取ってくればどんな方法でも好きにするといい」
「では……このまま進ませてもらいます」
そこからは速かった。綱を一見細く見えるがしっかり筋肉のついた腕で手繰り寄せて行くと、あっという間に対岸までたどり着いた。
「到着!……で、泉とやらはどこですか?」
霧で見えなかったが綱を渡り切った先は断崖絶壁で、泉どころか水溜まり一つ見当たらなかった。
「ここにないってことは、つまりそういうことじゃろ」
「この……!!」
元始天尊は楽しそうに人差し指を上に向けて、上下させ、リンゴの心を煽った。
「……ふぅ、わかりました……」
けれど、そんな挑発には乗るまいと、一度深呼吸をして、空気と共に精神を入れ替えると、リンゴは腕を伸ばし、反り立つ壁のような崖を登り始めた。
(崖登りも最近はやってなかったけど、ずっと修行の一環としてやってきた……ここまで険しいのは登ったことないけど。まぁ、なるようになるだろ)
リンゴはまた巧みに手足を操り、小さな取っ掛かりに指をかけ、綱渡りの時のようにどんどん進んでいく。自分でも驚くほど……。
(なんかやたらとペースが早いな。以前より手や足の置き所を見つけるのがうまくなったのか?それとも別に理由が……)
「フレー!フレー!リ・ン・ゴ!!頑張れ!頑張れ!リ・ン・ゴ!!」
(無視だ、無視……)
土を盛り上げて、まるでエレベーターのように背後を上昇していく元始天尊の声から耳を背け、リンゴは黙々と崖をよじ登っていった。そして……。
「今度こそ泉に……到着!!」
登り切ると、目の前には念願の泉があった。
「えーと、あれを取ってくればいいんですね?」
「うむ」
その泉はとても透き通っていて、底でゆらゆらと水草が揺れているのが上からでもよく見えた。
(クライミングの次はスイミングか……いい全身運動にはなるけど……いや、疑問は持たないって決めただろ、リンゴ!今は言われたことをやるだけだ!)
ザバアァァァァァァン!!
リンゴは上半身の服を投げ捨てると、間髪入れずに泉へと飛び込んでいった。
(例の如く、潜水だってやってきた!泳ぐのも肺活量にも自信がある!!)
長い足をしならせ動かすと、大きな推進力を生み出し、あっという間に水草の側に。
(ターゲット……採取!!)
リンゴは適当にそれを引っこ抜くと、反転し、水上に頭を向け、水を蹴り、上昇していく。
「ぷはっ!!ご所望のもの取って来ましたよ」
リンゴは泉から上がると、これ見よがしに水草を元始天尊に見せつけた。
「うむ。よくやった」
「それで次は何をすればいいんですか?」
「次?」
「ええ、言われた通りこうして水草をゲットできたんですから、次の修行は……」
「はぁ……」
リンゴの言葉に慧梵は大きなため息をついた。
「お主は継続は力なりという言葉を知らんのか?」
「もちろん知ってますけど……え?まさか……」
「そのまさかじゃ。お主にはこれから朝・昼・晩と一日三回獣然寺とここを往復して、水草を取って来てもらう」
「は!?いや、でも……!!」
「できないのか?」
「できるから言っているんです!今しがた見たでしょ?他の人にとっては険しい道のりかもしれませんが、自分は簡単に踏破できます。次はもっと簡単に来れるはずです」
「それは良かったな。次からも頼むぞ」
「慧梵様!」
「文句は言わない約束じゃろ?」
「くっ!?わかりました……!!」
リンゴは感情を押し殺して、袋に水草を詰めて背負うと、崖を下っていった。
(今は自分のやっていることに疑問しかないだろうが、いずれこの理不尽な仕打ちが必要だったと理解してくれるはずじゃ。きっと儂の想像していたよりも早く……)
リンゴが水草取りを始めて、三日経った頃、修行を言い渡された庭であの時のメンバーが集められていた。
「慧梵様、みんなを急に集めてどうしたんですか?」
「いや、せっかくだからお主の修行の成果をみんなに見てもらおうと思っての」
「修行って……結局、自分はずっとお使いしていただけなんですが……」
「まぁ、試してみればわかる。道鎮」
「はっ」
すでに造字聖人を装着している道鎮は命じられるがまま、あの時と同じように身の丈程もある筆で“縛”と書いた。
グルグルグルグル……ガシィン!!
そしてあの時と同じ墨のような黒い鎖を発生させ、リンゴを拘束する。
「では、その鎖から脱出してみせろ」
「そう言われても、そんな二、三日食材を運んだ程度でできるようになるわけな――」
バギイィッ!!バシャッ!バシャッ!バシャッ!!
「「「!!?」」」
「――いっ!!?」
リンゴの意に反して、鎖はいとも簡単に引き千切れ、黒い液体となって地面に零れ落ちた。
「これって一体……もしかして道鎮さん、手加減しました?」
「いや、前と同じになるように細心の注意を払ったつもりだ……」
「だったら、あのお使いで知らず知らずのうちにパワーアップしていたのか……?」
「違うわ」
「え?」
「むしろパワーダウンしていたのを、元に戻したんじゃよ」
「…………はい?」
何がなんだかわからずリンゴは首を傾げた。
「お主が寝てる間に、アンミツ殿にかつてのお主の戦いの映像を見せてもらった。儂はその映像の時よりも、お主が弱くなっているように感じられた」
「自分が弱く……」
「心当たりがあるんじゃないか?」
「……はい」
リンゴは卞士仁との戦いのことを思い出した。想定では倒せるはずの打撃を決めたのに、倒し切れなかったあの不本意な戦いを……。
「そうなってしまった理由がわかるか?」
「いえ、恥ずかしながら……」
「では、バンビやアンミツ殿を見てみろ」
「え?バンビとアンミツさんを……」
リンゴは反転して、二人を見下ろし、まじまじと観察した。
「なんだよ……気色悪いな……」
「改めて、顔を見合わせると、照れてしまいますね……」
「どうだ?わかったか?」
「全然……」
「では、お二人はリンゴの変化についておわかりになったか?」
「いや……」
「わたしもちょっと……特に変わったところなんてないと思いますが……」
「ずっと一緒にいたからこそわからぬか……では関敦、お主はわかるか?」
「リンゴ君の変わったところですか……」
関敦もリンゴをまじまじと観察……しなかった。そんな必要ないくらいに彼の目からは変化は明らかだった。
「再会した時に一番最初に思いましたけど、背伸びましたよね」
「え?背?」
「確かに言われてみると……」
「わたしと初めて会った時は同じくらいだったのに頭一つ分大きくなっている……」
「ジョーダン並みのサイズ感だな」
翠炎隊は改めてお互いを見合って、ようやくその文字通り大きな変化に気がついた。大柄と言って差し支えないリンゴの背は、いつの間にかさらにもう一段大きくなっていたのだ。
「自分のことながら……全く気がつかなかった。てっきりとっくに成長なんて止まったものだと思っていたのに……」
「お主がでかくなった理由はどうでもいい。大事なのは目に見えて大きくなったというのに、成長する前の感覚で身体を操縦していたということじゃ。腕や足が長くなれば、当然攻撃、防御共に適した間合いが変わり、強い打撃の打ち方が変化する。そこをアップデートできなければ……」
「当然、パワーダウン……」
慧梵は髭を揺らしながら、首を縦に動かした。
「うむ。それでもお主ほどの実力者なら、格下相手は問題なくこなせる。同等の相手でも違和感を感じながらも、誤魔化し通せる……しかし格上、しかも同じ聖王覇獣拳の使い手が相手となると話は別じゃ。お主自身が気づかないタイミングや間合いのズレを目敏く突いて、蹂躙してくる」
「考え自体は良くともそれを実現する動きのキレが貴様にはない」
「玄允のあの言葉はそういうことだったのか……」
「儂の見立てでは、身体能力では玄允とお主にほぼ差はない。なんだったら、部分的にはお主の方が勝っているくらいじゃ」
「けれど自分はそれを全く発揮できていなかった……」
「お主のポテンシャルを阻害していた身体のズレを解消するのが、あのお使いの目的じゃ。綱渡り、崖登り、水泳……どれも全身をくまなく使い、自然と大きくなった肉体の扱い方を教えてくれる。で、ズレの修正が終わってみれば、ご覧の通りよ」
足元に転がる黒いシミこそが、慧梵の言葉の正しさを何よりも雄弁に証明していた。
「なるほど……半信半疑でしたが、あのお使いは本当に自分にとって何よりも必要なことだったのですね」
「修行の目的を詳しく言わなかったのは、変に身体の動きを意識し過ぎると、逆にドツボに嵌まる可能性があったからじゃ。決して意地悪で黙っていたわけではない。お主を妙に煽ったのも、あくまで自然体で身体を動かして欲しいから、心を鬼にして……」
「いや、あれは心の底から楽しんでましたよね?」
「……とにかくこれで修行の第一段階、ボディーバランスの修正は完了じゃ」
(誤魔化した)
(つーことは、本当に楽しんでいたんだな)
(慧梵様……)
「猛華にいる強いジジイは性格に問題がないといけない決まりでもあるのか?それとも性格があれだからこそ強いのか?」
「キトロン……ついでにうちの師匠まで下げるのやめてくんない」
「とにかく!この修行はこれで終わり!次行くぞ!次!!」
誤魔化すように慧梵は強引に話を仕切り直した。
「えーと……それで次は何をすればいいんですか?」
「まずはまたあの泉の畔に行ってもらう」
「え?結局、またお使いですか?」
「いや、今回は儂も行く。そしてそのまま修行が完了するまで、寺には戻らん……」
「――ッ!!?」
慧梵の纏う雰囲気が一変した。その威圧感は業天馬と戦闘して来たあの時と同じだ。
「慧梵様……?」
「リンゴ……やめるなら今のうちじゃぞ。ここから先は地獄じゃ……!!」




