彼が出張先で
椿は今夜もまた彰浩からの着信を待つのに心の半分をつかいながら、かたわらいつものように動画サイトに時間を潰すうち、どうしても今の状況を打開するための方途を知りたくなるので、すぐと検索サイトに打ち込んではみるものの、現れるページは無論の事どれもこれも昨日一昨日とつづけて閲覧したものばかり。
それを椿は今宵もしみじみと読みながら、今日もまた同じ悩みに耽っているのは自分ばかりでないとの安心を得て、そっとページを閉じる頃にはちょっとは元気も出たものの、再び自分の事へ思いを馳せると共にすぐに不安がきざしてくる。
こんな小さな部屋にいるから鬱々してくるのだ。とそう決めつけて、ちょっと散歩をして気分を紛らそうと思いつくと、お気に入りの部屋着をぬぎすてながら、クローゼットを一瞥してすぐと見つけた無地のカットソーへ着替え、姿見へ寄ってその後ろに重ねてあったスキニーから黒をぬきとって足を通すと鍵だけを手にして、スマホは置いたままアパートを出た。
九州にある椿の実家は二階建てでささやかながら庭もあり、一階は居間とダイニングが別になっているほかに八畳の和室もあって、椿は家に居たころは部屋にいて落ち着かなくなると、よく母が居間のテーブルに洋裁の生地を広げ、ミシンを使うかたわら折々目を上げてテレビを楽しんでいるそのそばへと行って、二三質問をし、出来栄えを褒めて、自分もやってみようかなとふと思いつくままにその気持ちを漏らしたこともあったものの、すると母は喜んで勧めるでもなく、
「椿ちゃんみたいに忙しい身には大変よ、もっと暇が出来てからでも遅くないわよ」と、小気味よく働くミシンを止めて言った。
母親としては無論のこと、その頃娘がバレーボール部のセッターとして活躍していたことと、部活を引退したのちには時を移さず受験勉強へと勤しんで希望の進学を叶えることと、この二つを暗示して言ったに違いないのだけれども、椿はちょうど初めての彼氏が出来たばかりではあり、それについては母にさえまだ内緒にしていた。しかしこの頃週に一二度はきまって、部活との言い訳では筋の通らない時刻になってようやく帰宅する習慣になっていたので、母に忙しいと諷されるや否や思わずドキリとしてしまった。
それからしばらくして立ち上がり階段を上がって部屋へもどる頃には、しかしそれはもう忘れてしまい、リビングへ下りる前のぐずぐずした心持ちも、一度場所を移すとそのままそこへ置いて来てしまったかのように意外な早さですっきりしていた。
父や兄もいる際にはリビングのソファに座るのさえ時々気詰まりで、ちょっとのぞいて軽く心で舌打ちしつつダイニングへ行き、そこに座ったままひと時を過ごすこともあった。どうかすると和室の壁へ背を寄せかけて、白くひろがる障子越しに隣家の明かりを見定めながら胸をやわらげるうちふっと退屈を覚えると、そのまま歩いて行って障子を開け、ひんやりした硝子窓に額をあてて涼んだことも一人住まいの是非なさを知る今では好い思い出である。
椿は人通りの少ないわりに意外なほど車の往来するおもてを歩みながら、間を置いてぽっと光を放っている外灯に虫が群がっているのに郷里の風景を思い出すうち、明かりが幾分ぼやけているのに心づいて、またちょっと目が悪くなったかなと思った。
そして自然足もとをゆるめてなお見上げるうちそんな事はないと思い直し、裸眼の瞳をしばたたきながら、よし、外灯を七つ過ぎたら右に曲がろうと決めて、おのずととことこ足取り軽く進むうち初夏の夜の涼しさに身をまかせるままいつしか速度を落とし、夜になってさえ鳴きしきる鳥のさえずりに耳をうばわれつつ歩んでいると、知らぬ間にいくつかの外灯を通り越したらしく、すると椿はにわかに可笑しくなり、と同時にようやく吹っ切れたような心持ち。折よく先に見えた信号が青になるのを待ち向かいへと渡った。
部屋へと帰る道すがら、今度の些細な事件について想ってみると、自分がわがままなのか、それとも彰浩が冷たいのか、と考える程もなくそのどちらでもあるとの結論にまたしても落ち着いた。一方では我を折ってこっちから電話を掛けてもいいと思うそばからたちまち電話がほしいとの想いが鬱々と駆け巡る。
些細な事件というのは、今回彰浩が東京の本店に二週間出張するにつき、行った先から毎日連絡が欲しいとのことで、椿としては遠方へ行く恋人の無事を確認したいためもあり、わずかな日数とはいえ離れてしまうと、たちまち自分は寂しくなってしまうだろうことを予想してしまうので、出来る事なら彰浩の声を聞くためにも電話の方がよかったのだけれども、そこまでを求めたら鬱陶しく思われそうである。彰浩ならきっと察してくれるとの期待を込めて、あまり強くは言わずにいるうち出発を告げるメッセージが届いた。
それへきちんと返信したもののその後到着の知らせはなく、椿はその夜寝床へ入ってスマホをいじりながらついに諦めて眠りに落ちるまで来るはずの連絡を待っていたけれども、ぱっと目が覚めてすぐさま機器へ手を伸ばして確認しても、あれから時間が経ったばかりで彰浩からの連絡は無かった。
それから会社へ出勤し雑務に忙殺されるかたわらチラチラとスマホへ視線を送るうちお昼になると、今この時しかないとにわかに決意するままに廊下へでて歩みながら発信を押しかけたところへ、向こうから隣の課の同僚が二人並んで歩いてきて、こちらを認め、真っ白な首があらわになるほど髪を切り詰めた方の女性に、
「あら、工藤さん、この間の件どうだった」
そう問われて、椿は一瞬何の事だか分からず、その場へ立ち止まったまま首をかしげたものの、ふっと先週の書類の件だと心づき、大丈夫だったという旨を伝えてそのまま立ち去ろうとすると、
「工藤さんも一緒にお昼どう?」と誘われる。
そういえば以前都合がつかずにその誘いを断ったことがあり、今誘ってくれたのは勿論たまたま会ったゆえのお義理でもあろうが、先日の事は向こうの方でもきっと覚えているだろうし、重ねて断るのはどちらにとっても気まずく、それにまた今後にも差し障りが生じるかもしれない。と即座に推理を働かせるとともに、一方ではもっと仲良くしてみたいとの思いも湧いて来る。椿は今一度彰浩のことを想ってみて、すぐに電話を一旦諦める事にし、一度自分のデスクへ取って返し財布を手に戻って来ると、待っていた二人の微笑にたちまち安堵の吐息をついた。
三人は会社をおりて信号を渡った裏手にある女子にも入りやすい瀟洒な蕎麦屋のテーブルにつくと、初っ端から取り留めのない話で盛り上がり、会社へのちょっとした愚痴にすぐと場も和んで、上品な味わいを堪能しつつ一頻りはしゃぐうちに早くも時間となる頃には椿はちょっぴり名残惜しいような心持ち。すると同僚の方もそうだったとみえて、別れ際に、
「またご一緒しましょうね」と誘いの言葉を残して、互いに手を振りながら仲良く別れた。
自分の席へもどると椿は久々にすっきりしたような気持ちになって、午後も午前に変わらぬ雑務をこなし、一時間残業をしてようやっと解放されると共にスマホを見ると、心配なことにいまだ連絡がないので、寂しさとかすかな苛立ちをいだきながらも鞄へ戻し、窮屈な電車に心労をかかえた体をゆすられつつ吊革に身をあずけながら家路についた。
椿はやっとのことでアパートへ帰り着くと今すぐにもスマホを確かめたいその気持ちを抑えて服をぬぎすてるままに風呂場へ向かった。真夏さえ湯に浸かるほど好きではあるものの今夜ばかりはシャワーだけにしてそそくさと部屋へ立ち戻ると、椿はしたたる長い髪をタオルで巻いたなりで鞄へ手を突っ込み、しんとした画面を見つめる折からまたしても不安が兆すと共にぐっと勇気を奮って発信を押すと、なおしばらくは出ない。一度切って部屋を歩き回り、今一度掛け直すと今度はすぐにでた。
「もしもし、椿。どうした?」
「よかった。どうしたって、そっちは大丈夫? ずっと連絡ないから心配しちゃった」
「ありがとう、でもこっちは平気だよ。順調」という声のすぐ近くで、幾人もの若い女の声がする。それもすでに酔っ払っているらしく甲高いはしゃぎ声さえ交じっているので、椿にはそれが会社の女性とはにわかには信じられない。思わず、
「周りにいる人たちって会社の人?」と訊いていた。
「そうだよ」
「後ろで騒いでる女の人も?」たまらず重ねて訊ねると、
「女? 女の人もいるけど。これは会社の人じゃない」
「一緒に飲んでるの?」
「……そうだね」
「そっか、付き合いだもんね。そっかそっか、じゃあ楽しんでね。今日はもう切るね」と半ばやけになって早口にいいながらその通り切ってしまうと、沸々と苛立ちが湧き起こりそのままベッドへ駆けて枕へ突っ伏すうちもう悲しみに襲われる。椿は気づけば折り返しを心待ちにしている自分を見出して、すぐとその心から逃れようと髪をかわかすのに時間をかけるうちにも着信を待ち望む気持ちはどうにも抑えきれない。その日はそのまま虚しく時を過ごしながら到頭悩みつかれて眠ってしまった。
翌日は依然連絡のないままに悲しみと怒りのうちに日は暮れて、そして今日も夜になりどうにもいたたまれなくなるままに散歩へでた甲斐もあり、部屋へもどった椿はぐっと決意を固めた心でスマホを拾って静かに窓辺へむかいながら彰浩へかけた。しばらく呼出音が鳴るのに耳をすましながらひんやりした硝子窓に額をつけたところへ、
「もしもし」
「彰浩、ひとり?」今夜はしんとしている。
「うん。もう部屋に戻ってる」と答えた後に大きなあくびが鳴った。
「ねえ。好き」
「どうしたんだよいきなり。おれも椿が好きだよ」優しくあやすような口振りにちゃんと本心がききとれた。
「……嬉しい」とつぶやいたきり椿はしばし押し黙って、「もう切るね」と優しくいいながら相手の静止も構わずそっと電話を切ると、ベッドへ静かにすわって膝を抱き寄せた。
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