10.後悔
シリアス注意報発令中。
今でも、昨日のことのように思い出せる。
王宮で、泣きながら、マリーは悪くないのだと訴え続けるアリアを慰めていた時のことだ。
ひらり、とマリーゴールドの花びらが目の前に落ちてきた。
まるで大輪のように笑うマリーを思い出させるその美しい花びらは、その時ばかりは淑やかに、そして寂しげに私の目の前に落ちてきた。
マリーが昔、親しい者に手紙を送る時によく用いた、魔法で手紙をマリーゴールドの花びらに変化させて送る美しい魔法。最近はぱったりと止んでしまったその手紙。正しい受け取り人以外は開くことのできないそれに、何故か震える指先で解除の魔法をかけた。
かさり、かさりと開いた手紙は、数十枚にも及ぶ感謝と、贖罪の手紙だった。
私を初めとして、アリア、アレクセイ、王に王妃。屋敷の使用人たち、そして彼女の父に向けた物。
私宛の手紙以外を読むのはまずかろうと、宛先ごとに手紙を分けた後、目の前に座っているアリアに彼女の分の手紙を渡し、私自身も手紙を手に取った。
私宛の手紙は特に多く、読むのに時間がかかった。今までの思い出がずっと綴られていた。久々に穏やかな気持ちで文字を追っていた。
そして3枚目に私が取り掛かった頃だった。目の前でアリアが崩折れたのは。
「いや、いや、いやぁぁ!」
「どうした、アリア!」
「オ、オズワルド様、オズワルド様、う、そですよね、嘘って言ってください!」
先程の比ではないほどにボタボタと涙を流しながら、アリアはくしゃくしゃになった手紙を差し出してきた。
私宛の手紙は、噛み締めるようにゆっくりと読んでいたが、どうやら只事では無さそうなアリアの様子から、慌てて手紙に目を通した。
アリアと一緒に居れて、楽しかった。酷いことを沢山した、申し訳なかった。沢山の感謝と、謝罪の言葉が綴られていた。
ーーーそして、これを読むのは、私が死んだ時であるだろうと。
せかいから、いろが、ぬけおちた。
アリアに手紙を押し返し、震える手と浅くなる呼吸を無理やり押さえつけ、慌てて自分の手紙をめくった。
1枚目、2枚目、3枚目、4枚目。
(感謝の言葉…ちがう。4枚目、5枚目、6枚目…贖罪の言葉…心底どうでもいい。…なな、まいめ……)
7枚目に目を通した瞬間、胃の中身を吐き出しそうだった。
『どうか、幸せになって欲しい』
最後の文を読み終えた時、マリーにかけていた防御魔法が砕け散る感覚がした。本来なら絶対に砕けることのない魔法。そもそも、あの魔法に傷をつけることができるのもマリー以外にはいないはずだ。そんなマリーでさえ、最後に教鞭を取った時には、まだその域までは達していなかった。
防御魔法が砕かれるのは、魔法が耐え切れないほどの衝撃を喰らった時か、魔法をかけていた本人が防御魔法を何らかの事情で維持できなくなった時。そして、魔法がかけられていた対象が死んだ時のみ。
魔力が、爆発する。
(どうしてなんだ、マリー…。どうして、どうして!)
生まれてこの方、魔力制御をしくじった事の無かった私が、この時ばかりは我を失い、国を一つ、更地に帰すところだった。
あの時、私たちの目の前に、血だらけのマリーを抱えたアレクセイが転移してこなければ。
ダラリと力を失ったように抱えられたマリーを見て、どうにか魔力を抑え込んだ私は、その場から動くことができなかった。
身体の深いところが急激に冷えていくような感覚が、何処か他人事のように感じた。痛い、と。今まで感じたことの無かった類いの痛みが、心臓のあたりを突き刺したような。
「アリア、アリア。どうか頼む、シャルを、私の幼馴染を救ってやってくれッ!」
「そ、そんな、シャルさんっ!あ、アレクセイ殿下、剣を、剣を抜いてください!」
ゆっくりと震える手で、マリーの心臓からアレクセイが刺したのであろう自身の剣を抜き、それに駆け寄ったアリアが、泣きながら治癒魔法をかけ続ける。
しかし、その場の誰もが気が付いていた。もうマリーは助からないのだと。いくら聖女の治癒魔法でも、死人が生き返ることはない。治癒魔法とは、あくまで怪我や病気を治すもので、死人がもう一度息を吹き返すような魔法ではないのだ。
そしてもう、マリーはここには居ないのだと、誰もが気づいていた。それでも、2人とも、万が一の奇跡に縋りたかったのだろう。そして、止めなかった私も同じくして。
「…おねがい!お願いシャルさん!戻って、戻ってきてください!」
「頼む、頼むから!」
「……2人とも」
「そんな、嫌です!帰ってきて!帰ってきてください!」
「目を開けてくれ!」
「…アリア、アレクセイ、もう止めるんだ」
「でも!」
「しかし!」
「やめなさいと私は言った。同じ事を2度も言わせるな。…これ以上治療を続けても、今度はアリア、君の魔力が尽きる事になる。アレクセイも、君は今、重度の魔力枯渇症の症状が出ている。それ以上無理に体を動かすものではない」
「っ、でも、だって」
「…ほら、マリーを見ろ。随分と綺麗になったではないか。なぁ」
それでも首を振り続けるアリアに、マリーの心臓の部分にあった傷を埋めたのは君だと声をかける。
それを見ていたアレクセイは、アリアの翳していた手を、そっとマリーの上から退かすと、そのまま、ゆっくりと、うやうやしく、冷たくなってしまったであろうマリーを私に向かって差し出した。
マリーのダラリと力なく地に向かっている四肢は、恐ろしい程に青白く、美しいプラチナブロンドの髪は、所々、土で煤けて、血がとんでいる。着ている美しいドレスには、心臓から滲み出た血が染み込み、色を変えてしまっていた。
それでも、それでも。
とても穏やかな顔をして眠っているのだ。まるで、これで自分の役目は全て終わったのだとでも言うように。自分が死ぬ事で、一体どれほどの人間が悲しむのかも考えず。
それに対して、酷く、腹が立った。一体君は、自分の命をなんだと思っているのかと。少なくとも、この場にいる目の前の2人は、君の死を前にして、自分の命を顧みず、君を助けようと涙していると言うのに。
そして、何よりも自分に腹が立った。腹が立ったなどという生易しいものではない。今すぐに自分の身体を何度も何度も突き刺して、引き裂いた上で、一生消える事のない業火で焼き尽くしたい程に。
きっと、ずっと、彼女は1人何かを抱えて、ここまでやってきたというのに。私には、なんら相談も、素振りすら見せてはくれなかった。
(…いや、素振りすら見せられないほどに、私は信用されていなかったのかもしれないな)
彼女と過ごした今までの時間は、もしかしたら、私の思い上がりでできていたのかもしれない。あの笑顔も、私を呼ぶ声も。裾を遠慮がちに握る姿も。
もはや自分すら信じられず、そして、自分よりも余程信じられるマリーすら疑い始めた自分に、これ以上無い嫌悪感を抱いた。
しかし、それも押し殺し、ゆっくりと膝を曲げ、マリーを見て俯くアレクセイに視線を合わせる。そうでもしなければ、今すぐに気が狂いそうだったからだ。指先が震えるのを、押さえ込む。
「よくここまで、マリーを連れてきてくれたな。礼を言う。アレクセイ」
「……大変、申し訳ありませんでした、オズワルド様」
私に向かって深々と頭を下げたアレクセイは、どうぞ、貴方の気の済むように、と首を差し出した。
「…なぜ、謝る?」
一体、何に対して悪いと謝っているのか。アレクセイ達が、どこか、操られていたのは薄々分かっている。
それでも、殺してしまったであろうマリーでも無く、なぜ私に。
「貴方は、あなたは…。この世で、誰よりも、シャルの事を愛していましたから。彼女をこうして、死なせてしまった上で、貴方の前に差し出さなければいけない事を…私は、謝らずには、いられないのです…」
「……」
ポツリ、と。心の奥底。今まで揺れることのなかった水面に、一つの波紋が起きーーーー凍った。
アレクセイの手から、そっと、丁寧に、丁重に、マリーの身体を受け取る。
冷たい。どこも、かしこも。
そして、おもむろにその場に結界を張ると、アレクセイもアリアも弾き出した。2人が死なないように、調整はした。けれども気は失っただろう。
その隙に、何重にも結界を張る。誰も、壊せないように。誰も、立ち入らないように。誰も、音が聞こえないように。
狭い世界の中、自身とマリーしかいないように。
「…は、はは……愚か者。愚か者が。失ってから気付くなど」
なぜ、マリーを失った時、気が狂いそうだったのか。少し考えれば分かることだ。
アレクセイの言う通り、マリーの事を1人の女性として、愛していたのだろう。そして、失った今でもなお、愛している。
にも関わらず、ここまで、アレクセイに言われるまで気が付かなかった自分。恋をしていたのだと、愛しているのだと、今更ながらに宣いながら、マリーがこうして冷たくなるまで何も、何一つ、してやれなかった。
今、この姿がこれまで人を愛することがなかった、怪物と呼ばれた男の末路に相応しいのかもしれない。
滲んだ視界の中、ポタポタと、マリーの頬に涙が滴る。
ゆっくりとそれを擦ると、マリーの血と混ざって、広がった。なんて、やるせないのだろう。これでは、死のうにも、死に切れないではないかと。
「なぜ、何故なんだ。『幸せになって欲しい』などと…。今、私に残された幸せは、君の後を追う事なのに…」
どうにか魔力を練って、自分に突き立てようとも、その前に魔力が霧散する。
「教えてくれ、マリー…。なぜ、私などに祝福の魔法をかけた…」
マリーが死ぬ直前にかけたであろう祝福の魔法で、自らに向けた攻撃魔法が、ことごとく解かれ、無効化されてゆく。
「マリー、マリー、まりー…愛してるんだ、愛してるッ、すまない、好きだ、好きだ好きなんだ…だから、だから、どうかもう一度、私と会うために、目を開いてくれッ…」
永遠と続いた叫びは、誰の耳にも届かなかっただろう。
この日から、正しく、私の心は凍った。




