男性同士の逢引現場を盗み見たのがバレたのでとりあえず逃げます!
楽しんでいただけますように。
――ドンッ!――
「殺すぞ」
助けてくれ。誰か。
そう、誰も助けてはくれない。なぜならば、今ここにいるのは私と、目の前の男しかいないから。
そんな状況ではないのは重々承知しているのだけど思わず宙を仰ぐ。
あぁ、今日は月も星もないどんよりしたすてきな夜空ね。こうも光るものがない夜空もいっそ清々しいわね。月も星も己の美しさを少しでもと主張しないのだから……見習いたい……
私、ロレーナ・シュターデン人生最大のピンチです!
見知らぬ男の両腕に挟まれ私の両脚の間に男の膝が無理やりねじ込むように入れられている。背後にあるバルコニーの腰壁を乗り越えるのは無理そうだ。せめてもの抵抗として視線はと宙を仰いでいる。
抵抗むなしく、右手が顎にかかり正面を向くように矯正されてしまった。
溜息しか出ない。
あぁ、どうしてこんな事になってしまったのか……
少し時を戻そう――
⁑
今日は王宮で開かれる舞踏会に来ている。
理由はもちろん結婚相手を探しにだ。所謂婚活だ。
私、ロレーナ・シュターデンは貴族とは名ばかり、吹けば飛ぶような弱小男爵家の末っ子で今は十八歳になった。こんな男爵家には婚約の打診など来るはずもなく玉の輿狙って頑張れよと家族に送り出されてやってきた。
心の中で無理難題を吹っかけてきた家族を恨みながら煌びやかな会場の片隅に陣取る。
優雅な旋律の演奏を聴き流し人間観察に没頭する。こんな私にダンスの誘いはなく声を掛けてくれると言えばトレイを持った侍従達だ。スパークリングワインのグラスを受け取り一気に流し込む。
景気付けだ。緊張しすぎよりはほろ酔いくらいがいいだろう。飲まなきゃやっていられない時もある。
着飾った紳士淑女になんとかあいさつまわりをして覚えてもらえるように努める。
「初めまして、ロレーナ・シュターデンと申します」
「シュターデン?」
「たしか、湖の………」
シュターデン家が有名だったのは曽祖父の時代。領地にある湖から希少性のエメラルドが採掘されていたが今はその技術が失われて久しい。
スパークリングワインをサッと受け取ると飲み干す。
あいさつといってもこの繰り返しで全く手応えもない。玉の輿なんて夢のまた夢。大人しく自分の世界に帰って仕事をした方が堅実よね。
花のように色とりどりのドレス達に目がチカチカして、香水が混じり合った匂いは酔いそうね。
外の空気でも吸っていったん休憩しましょう。サイドテーブルにグラスを置いてバルコニーへ向かう。
さぁと頬を撫でる夜風は気持ち良い。ぐぐぐっと両腕を伸ばし深呼吸する。微かに漂う薔薇の香りに誘われ、辺りを見回すと庭園に降りられるようだ。
足元に注意し進むと薔薇の香りが濃くなり、目の前には様々な品種の薔薇が堪能できる素晴らしい庭園だった。
迷路の様な造りの、背丈より高い薔薇の壁が続いている。なんだかお伽話の国に迷い込んでしまったみたいとのんきにしていると。
「ちょ、ちょっと待ってよ……ダメだよこんな所で……」
「……限界だ。あきらめろ……」
ふぁ!?なんだか色めいた?会話が聞こえてきたぞと聞き耳を立てる。
「……んっ……ふ……っん……」
「……甘いか?……」
「……あ、甘すぎるよ……」
!?!?!?
も、もしやこれは!?グレタ姉様が言っていたボーイズラブ!?え!?小説の話じゃなかったの!?だって聞こえてくるの両方とも男性の声だよ!?
早鐘の胸に手を当て、見ちゃイケナイけど見たいと相反する欲求に苦悶する。結果、好奇心には勝てず声の方へそっと歩み寄る。
はやる気持ちをなんとか宥め、そっと、そっと。
迷路の曲がり角を利用して覗き込むと、肩までの栗色の髪をハーフアップにしたイケメンが生垣を背に尻餅をついて、薄い紫色のふわっと癖のある髪の後ろ姿イケメンが片膝をついて栗色イケメンの胸ぐらを掴んでいる。
はわわわ!?乙女には些か過激な光景に両手で顔を覆うがちゃっかり人差し指と中指の隙間から盗み見る。
これはもうボーイズラブですよね。艶っぽくて奇麗だと見惚れてしまう。なんだか呼吸が浅くなってきた。
あぁ、これ以上みたら鼻血がでそう。名残惜しいけど……いや、後ちょっとだけ見てもいいよね?と一歩踏み出した。
パキッ
!!!!!!やっちまったー!なんてベタな展開でしょう!!やっちまったー!!!!!!
途端に薄紫髪の後ろ姿イケメンがバッと振り向く。
顔面までイケメンだと思ったがそんな事を考えている場合ではない。
脱兎の如く駆け出す。
まずい、まずい!いろいろな意味でまずいよー!取り敢えず逃げるしない!会場に入りさえすれば紛れ込めるはずだ。そこまで逃れれば……
耳を澄ますまでもなく聞こえてくる猛追の足音が死の宣告のカウントダウンに聞こえる。
膝があらわになる程ドレスの裾をたくしあげ、一心不乱に走る。
バルコニーが見えてきた。
ぜいぜい喉から変な音がして熱くて痛い。でも捕まったら絶対殺される。あとちょっと!
階段は一段飛ばしで駆け上がる手を伸ばせばすぐ会場だ。もう大丈夫だろうと一瞬ホッとしてしまった。
突然手首を強く引っ張られグンと反動がついて会場が遠のいた。
手首を掴まれバルコニーの薄暗い隅に連れ込むと投げる様に離された――瞬間。
――ドンッ!――
「殺すぞ」
⁑
今ここだ。
え?手すりが壊れていないか心配?大丈夫!なんだか頑丈な石材で出来てるから安心して!
「……はぁ……」
溜息しかでない。
目の前には爛爛とした血の赤の瞳。
怖すぎて表情すらわからないよ。目が怖いよ。覗いてごめん。後ちょっとと欲張ったからこんな事に……。
「あそこで何をしていた」
ドスの効いた声に縮み上がる。
「……薔薇の鑑賞と涼んでいました……」
「何を見た」
血の赤が暗くなる。
「……な、、何も見ていません!」
あ、やば、嘘ついちゃった……
「何も見ていないならなぜ逃げる」
ですよねぇ、そうくると思った。
「条件反射とでも言いましょうか……」
「殺すぞ」
ひぃっ!おぉ、ジーザス!命乞いするしか…………ないっ!
「申し訳ございませんでした!全部?全部見ました!で、ですが誰にも言いません!土下座でもなんでもしますから命だけは何卒!!!」
勢いよく頭を下げたが男の胸元に自ら埋れにいくだけだった。どうしてくれよう。これでは痴女と勘違いされてしまう。
「……すみませんが足を退けてもらえませんか」
胸元でもごもご伝える。
舌打ちしてから渋々と脚を下ろしたタイミングを見計らって――しゃがむと足元から這い出て駆け出す!
一瞬の出来事に動揺した声が発せられた。
「っ!なっ!」
驚く声が聞こえたが振り向く暇はない!走る!さらばだ!死神!
シャンデリアが眩しくて目を細める。優雅な旋律に安心感すら感じる。
直ぐにエントランスへ向かうと追いつかれる危険があるのでどこかの貴族坊ちゃんを捕まえて何曲か踊れば撒くことはできるだろう。
「踊ってくださいませ」
「っえ!?」
辺りを警戒しながら三人と踊り追跡がないことを確認して帰路についた。
⁑
弱小男爵家の朝は早い。日が昇り始めると同時に起き家畜のお世話を終え、畑で収穫を済ませて朝食の用意をする。
瑠璃紺の髪の毛をパパッとポニーテールに括り、動き易いワンピースに着替える。
炊事場で釜戸に火を入れてお湯を沸かす。夏野菜スープとオムレツにブラウンパンで立派な朝食の出来上がりだ。
「おはよう、ロレーナ」
「おはようございます!グレタ姉様」
続々と家族が食堂へやってくる。
シュターデン家は大家族。お父様とお母様、長男夫婦と子二人、長女のグレタ姉様、次男、私。次女は隣の領地の貴族の屋敷で侍女をしている。
朝食と夕食は家族全員で頂くのがシュターデン家の決まりだ。あとは基本自力でなんとかしようと放置主義だった。
「ロレーナ、舞踏会はどうだったのよ」
グレタ姉様が気怠げにスープを飲みながら聞いてきた。
「手答えは皆無ね!シュターデン?それどこ?ってお決まりの感じよ」
肩を竦めてみせると
「そうかな。ロレーナは可愛いから俺はあんな舞踏会とか行かせたくないんだけど」
「ノエル兄様はあいかわらずの妹贔屓ですね」
次男のノエル兄様は極度のシスコンで警邏隊に所属している。
「玉の輿なんて夢のまた夢ですから、お父様、お母様もう舞踏会は行きませんよ。私のためと言うなら領地で働かせてください!」
「ロレーナは可愛いから良い所にお嫁に行かせたいんだけどなぁ」
肩を落として背中を丸め呟くお父様の背を、お母様が撫でながら宥めている。
「可愛いロレーナが領地に残って側にいてくれるならそれでもいいじゃないの、あなた」
それもそうだね!と食事に戻りにこにこと孫と会話をしている。
「朝食を終えたらまた湖まで行くのかい?途中まで一緒に行こうか」
長男のロランド兄様は領地の見回りついでに私を送ってくれるそだ。
「はい!お願いします」
ジェニーは私の芦毛の愛馬で涼しげな目元がクールな牝馬、ロランド兄様はビュリに騎乗する。
初夏の日差しにポクポクと常歩で並走する風が気持ちよくて目を細める。馬が艶々輝いてのんびりした揺れがまた心地よい。
街と湖の分かれ道で兄様にお礼を言うと、ジェニーが駈歩で森の中を進む。木々の木漏れ日に視界が翳るとそろそろだ。
ウェヌシュタール湖は透明度が高く澄んでいる。底にはエメラルド鉱石が輝いて神の泉の様な色合いだ。
この泉のエメラルドは特殊な加工を施してからでなければ採掘できない。加工をぜず水から揚げてしまうとボロボロと崩れてしまう。今はこの技術が失われてしまった。
愛馬から降りて木につなぐ。
今の時期はラベンダー、フェンネル、レモンバーベナにペパーミントが旬で効能も高まる。もりもりと採取してその他に薬の代用となる薬草も集めていく。
太陽が高くなりお昼を回った頃合いでサンドウィッチを頬張り水筒のお茶で喉を潤おした。
「はぁ、ここに来ると癒やされるわねぇ。やっぱり自然は最高ー!窮屈なドレスにハイヒール、貴族の腹の探り合いなんて楽しめるか!」
鼻から大きく吸い込んだラベンダーの香りに気分をデトックスしてもらう。
「そもそも、なぜあんなに必死だったのかしら?やっぱりアレだからかしら……そうよねアレだもんね……」
王都でも男性同士の愛は禁断なのかしらね。他人の秘密を触れ回る程常識知らずではないのだが、殺される所だったしもう近づかない方がいいわね。会ったが最後、地獄行きだろう。ぞわっと背筋が震え、今になって昨日の恐怖が理解できた。
薔薇の園というベールをはずした脳にはしっかり恐怖が染みついている。
「こ、こわっ!で、でも初対面で壁ドンと股ドンで一言目が『殺すぞ』ってそんな話がありますか!」
両腕を抱く様にして擦ると体温が戻ってきた気がした。
何にしても王都には近づかないわ!万が一って場合もあるわけだし!ふんっと荒い息を鼻から出して立ち上がる。
なんだか屋敷が騒々しい。なにか問題でも起こったのだろうかと首を傾げ歩いていると、長男のお嫁さん、ナディアさんが走ってくる
「あぁ、いたいた!ロレーナちゃん!大変よお義父様が探しているわよ。書斎に行ってあげてね」
ふんわりふよんふよんなナディアさん。いろいろ揺れていて目に毒だよと思いながらお礼を伝えて書斎へ向かう。
「お父様、ロレーナです」
「あぁ、入ってくれ」
書斎のソファーに座っているお父様の対面に腰を下ろすと興奮した面持ちで手紙を見せてくれた。
「ロレーナに婚約の申し入れがあったんだよ!」
「え!?なにかの冗談では?」
上等な用紙に金の縁取りの便箋で確かに婚約の申し入れのうよだ。
「お相手は、ジェライヴ・ベールヴァルド侯爵家嫡男。第二騎士団団長で王太子殿下の側近でもある。こんな方に見初められるなんてさすがロレーナだ!やはりあの舞踏会に無理してでも行かせてよかった!」
腕に顔を埋めておいおい泣き出すお父様に、やっぱりうちの財政では無理しての参加だったと小さく息を吐く。
でも、あいさつした方々にはそんな高貴な方はいなかったはずだ。小首を傾げ唸りながら考えても思い出せない。最後に踊ったお三方のどなたかかしら?でも名乗ってないしなぁ?
もんもんと考えても思い出せない。どうするのかお父様に尋ねると、愚問だとばかりに満面の笑みで大きく頷いた。
「もちろん、お受けするよ!ロレーナを良いところに嫁がせたいし、条件も破格なんだ!」
「え、どんな方か存じないのにお受けするのですか?」
「婚約してから徐々に知っていけば良いよ。大丈夫!大切にしてもらえるよ!ロレーナは可愛いから!」
「で、でも」
「うーん、ベールヴァルド騎士団長の噂くらいしか知らないけれど、かなり腕の立つ方で死神の異名を持ち、魔獣討伐数最高記録保持者って所だろうか?」
こ、恐いよ!なんだか不穏なんだけど!死神の単語に既視感を覚えたのは気のせいだろうか。背後から死の宣告カウントダウンが徐々に大きく聞こえる気がする。
「断れませんか?男爵家の娘が釣り合うとは思えません」
「うーん、無理だろうね、うちの爵位では。それに先方からの申し入れなんだ、そこも考慮しての事だと思う」
あっけらかんとしたお父様にこの言い知れぬ不安を伝えた所で理解は難しいだろう。
嫌な予感がする…………
⁑
婚約の申し入れから五日。本日顔合わせでジェライヴ・ベールヴァルド卿がわが家にやって来る。
持ってる中で一番上質なドレスに着替えたけれど気鬱だ。空は晴れわたり私以外の家族は嬉しそうにしている。あ、ノエル兄様だけは私の味方だ。
外に出て一族総出のお出迎えだ。
豪華な馬車がやって来た。
金の装飾や彫刻が施され家紋の刻印もあり馬車だけで爵位の違いが一目瞭然ね。心臓が痛い。どうか知らない人であります様にとひそかに祈り、降りて来る御仁を待つ。
ガチャリ、馬車の扉が開いてタラップを踏んだ膝丈のブーツが目に飛び込む。
ダメだ、顔を上げることができないよ。とんだチキンハートに自分でもがっかりだ。
足元を視線だけで追うと、お父様の前で立ち止まりあいさつを交わす。
「この度は婚約の申し入れを快く受け入れてくださり感謝いたします。また一族皆様で歓迎頂き嬉しく思います」
思ったより柔らかい声音に安堵した。自意識過剰だったようねと冷や汗を拭った。
「いえいえ、わが家にとって大変光栄なお話になんとお礼を申し上げればよろしいか。こちらが三女のロレーナに御座います」
にこにこと人好きの笑みでベールヴァルド卿に紹介する。
「あぁ」
視線を向けられた気配を感じ声が震えないように気をつける。
「お初にお目にかかります。ロレーナ・シュターデンと申します」
背筋を伸ばしてドレスの裾を軽く持ち上げる。優雅さを意識して腰を落とすと意を決して顔を上げる。
「お目にかかるのは初めてではありませんよ。ジェライヴ・ベールヴァルドです。もっとも、名乗るのは初めてですが」
ニッコリと妖艶に微笑む血の赤にぞくりと悪寒が走る。
白皙の端正な顔立ちに浮かび上がる血の赤の瞳。薄い紫色のクセのある髪は柔らかくて触れてみたくなる。
漆黒の軍服に飾緒やタッセルの装飾が豪華なのだが彼が着用すると妖艶な雰囲気と相まって冷酷な印象に映る。そこに軍帽を合わせた佇まいはあの舞踏会とは全く違った人物のようだけど……
これ絶対笑ってない!怒気を感じるぞ!やはり同一人物だ。全身の毛穴が開き、汗が吹き出て、ガタガタ震えてきた。
必死に笑顔を貼り付けているけれど本当に笑えてるのだろうか。
日の光が暖かなサロンに移動すると弱小男爵家の中でも格別な茶葉を使ったお茶が用意されていた。
どうしよう紅茶の味がわからないよ。カップをソーサーに置くときにカチカチと音を立ててしまうのは止まらない震えのせいです。
「ははは!娘は緊張していましてね。温かな目で見守って頂ければと思います」
「いえ、気にしていませんよ。緊張しているのは私も一緒ですから」
お父様といい感じに談笑してるけど、いや、誰だよアンタ。あの死神とは同一人物とは思えない感じの良さが如何にも胡散臭い。雰囲気が別人すぎて死神の異名はどうしたよー!
あちらさんを見る事もできなくて置物化している心だけで罵っておく事にしよう。心だけは自由なのだ。
「娘は末っ子だったので甘やかして育ててしまいました。少々お天馬な所もございますがマナーだけは厳しく躾けたつもりなのですが……どうかお許し下さいませ」
「それ故の愛らしさなのでしょう。彼女の長所ですから大切にしたいと思っています。侯爵家に相応しいかとお考えでしたら、結婚式前ですが花嫁修行として邸で一緒の生活も視野に入れております」
「まぁ!それなら安心ね?あなた」
「あぁ、躾けはしたが男爵のそれと侯爵家とではまた違うでしょう。お手間をお掛けしますがどうぞよろしくお願いします」
なんだろう。置物だからか私の意思ガン無視で話がとんとん拍子でまとまっていくよ。
と、そこでお父様が一番恐れていたワードを口にした。
「さぁ、ロレーナ。閣下に庭をご案内して差し上げなさい」
ひぃいいぃぃ!!!あかんやつ!あかんやつ!二人にしたらお父様の娘はもう帰って来ない可能性もあるけれどいいの?
もちろん言えるはずもなく今度こそ引き攣っている自覚のある笑顔で答える。
「はい」
下手くそなロボットダンス風な動きで「こちらへどうぞ」と促した。
弱小男爵家には庭なんて立派なものはなく、ちょっとした花壇と薬草畑、森の入り口があるくらいだ。
掛ける言葉なんて持ち合わせている訳もなく、無言のまま処刑台に向かっている気分だった。
「ロレーナ嬢、覚えているだろうか」
耳馴染みの良い声音に、意外な一面を見た気がして一瞬ドキリとしてしまった。
「……何をでございましょう」
「王宮の舞踏会に来ていたはずだが」
あ、ドキリは勘違いだ。だって急にヒヤリとした空気が漂ってきた。
薔薇の園の件は覚えていて良い内容なの?いや、覚えているのだけど……
もちろん振り向けるはずもなく前を向いて呟いた。
「どのようにお応えするのが正解なんでしょうか」
正直にそのまま聞いてみた。
「俺に命乞いしたな?」
あぁ、てかそこ!?薔薇の園ではなく!?
目を瞠って振り仰ぐと軍帽で陰り見えない視線とぶつかったようだ。
「土下座をすればよろしいですか?」
これでチャラにしてくれるならいくらでもしたるよ!極めて冷静を装って小首を傾げる。
「は?土下座でなんとかなるとでも?」
のぉぉおぉ!!!不正解ー!!!
血の赤が鈍く光り眇められると瞬間本能で察知する。『殺される!』
原始的な動物の防衛本能で駆け出す。森の中なら地の利は私にある。なんとか撒いてやり過ごし婚約は白紙に戻してもらうしかない。
低い柵を飛び越え木々の間を縫うように走る。なぜ走るときはいつもドレスなんだろうと思いながら裾をたくし上げて障害物を飛び越す。
息も絶え絶えにそろそろ限界が近い。撒いたかなと思って振り向けばもの凄いスピードで追撃されていた。
ぎゃー!正にデスチェイス!こちらが防衛本能ならあちらは狩猟本能だろうか。なんでいつも追いかけて来るのー!
もうダメだ。さすがに限界だろう。このまま捕食される運命なのだろう。どんどん速度が落ちていく……
――ドンッ!――
はぁ……
なぜにまたもや壁ドンに股ドンなのか……。これでも淑女の端くれなんですが!?
呼吸に激しく肩を上下させながらギンと睨んで見上げるが、呼吸一つ乱さずに睨み返された。血の赤が一層暗く不気味な光を湛えているようだ。
し、死神だ。シュンと効果音付きで萎んでいく。
「なぜ逃げる」
極めて冷静な音声にイラッとしてはぁはぁしながら勢いのまま答える。
「殺されたくないからですよ!」
「……はぁ、だから来たんだろ」
顔を顰め物分かりの悪い子に云い聞かせるように。
「……ほ、本当に殺さない……と?」
「なんでもするから助けろと言ったのはそちらだと思ったが」
「………………あ、あぁ、そんな事も言ったかもしれませんね」
「その件で来た」
どうやら話し合いに応じてくれるようだ。希望があるかもしれない!
胸に手を当て息を整え、意を決して尋ねる。
「お伺いしても?」
肌がピリピリするような殺気が少しだけ和らぐ気配がするけれど、腕拘束と脚拘束は解かないようだ。前科があるからだろうと一人納得をして目線を合わせる。
「俺と婚約しこれから俺の邸に住んでもらう」
風に木の葉がそよぐ音、鳥の囀りがよく聞こえる。
対して相手の表情が軍帽の陰影で窺い知れず、声色は平たんで何も読み取る事ができない。
「はい?」
「婚約者として王都の邸で花嫁修業をしろ」
引き続き読めない表情と声色に察するとすれば……
あぁ、人質という事だろうか。秘密を他者に漏らさないように監視という所だろうか?顎に手を当ててうんうん唸っていると。
「命乞いの対価として嫁に来い」
少し色が滲んだ声は酷薄で、とても求婚に相応しい温度ではない。
やはり監視が濃厚かしらね。だとしたら婚約する必要はあるのだろうか?別の形で秘密保持の契約として締結すれば良いのでは?ひとまず聞いてみる事にしよう。
「断わる事は可能ですか?」
ぞっとする程に妖艶な血の赤が尾を引いて揺れ、死神の異名に得心がいく。仄暗い美貌に軍服をまとった冷酷な風情がはっとする程に美しかった。
異次元な光景に呆気にとられていると空気に漂う何かを本能が感じ取る。
もうわかった。何が来るのか。人間は学習する生き物なのだ!
唇の動きをハッキリと脳裏に刻み込まれる。
「殺すぞ」
キタ――!!!!!
じゃなくてどうするのこれからー!
地獄行きは確定だろう。おぉ!ジーザス!!!
「はぁ……」
深かい溜息を吐いた。
――これは逃走と追跡を繰り広げる脱走令嬢と死神の序章の物語り。
今、火蓋がきって落とされる――
最後まで読んでくださりありがとうございました。