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パンドラ

作者: ウユウ



 塔の上には魔女がひとり。

 羽をもがれた天使がひとり。





「おまえは、稀にさえ見ない特異体質者だ。おまえのような人間はこの世に二人といやしない。おまえの意志など関係ない。おまえは、ただそこにいるだけで罪のある、魔性の身。生まれてきてしまったことをこの世に詫びて、一刻も早く人間が足を踏み入れない場所へ隔離することが、おまえにとっても周囲にとっても最善の毒。おまえは関わった者の理性を溶かす魔性だ。人の醜い本性を露わにさせる。ただそこにいるだけで、人の加虐と不幸を集め、人を惑わす魔女そのもの」


 おまえは最悪の女だ、と何度も言われ慣れた言葉を男は言った。

 私の心臓に杭のように言葉を突き立てる男の眼は、恐ろしいほどの昂奮に塗れてぎらぎらと光を放っていた。


「かわいそうなおまえ。この世に生まれ落ちた他の誰より一番、おまえは強く呪われている。呪いの性質と相反する、おまえのその愚直な性根は、おまえを苦しませても幸せにはしない。今まで生き延びてこられたのは、ここに至るまでの運命でしかない」


 無造作に肩に羽織っていたマントを私にかける。優しさを感じさせる仕草にもかかわらず寒気を覚えるのは、先程まで私の周囲を囲っていた人間すべてに銃弾を撃ち込んだ男の行為だからに他ならない。

 深い、闇よりも深い、絶望の血の海に沈む私に、その男は表情さえ変えぬまま無慈悲に言い放つ。


「おれを憎むな。恨みに思うのはお門違いだ。おまえはおれのもとへ来るしかない。そうでなくては、おまえは死ぬ。おまえを意味も理由もなく憎む者によって殺される」


 血に塗れて動けない私のもとへしゃがみこみ、そこに至って男は初めて口角を上げる。


「おまえの命は今日からおれの気紛れひとつ。せいぜい、可愛らしく機嫌を取ってみればいい」



『悪魔の子』


 幼い頃に、一番よく投げつけられた言葉はそれだった。


『魔女の子』


 時と共に、変わらず侮蔑を伴った呼び名はそう変化した。

 私の性別が女だったからだろう。


 悪魔の子。魔女の子。

どちらだって意味するところは同じで、忌まわしい子であるという意味に変わりはない。

 自分を生んだ親が本当にそのような存在であったのかは、物心ついた頃から一人だった私には知る余地もなかったが、ただの人であったとしたら私を捨てた彼らの感覚は間違っていなかったのだろう。


 昔から、厭に人目を引いた。

 掃き溜めのようなスラムにたむろする、よくいる子どもの一人。何も珍しい存在ではなく、薄汚いと蔑まれても、皆触れるよりは顔を顰めて避けて通るのが普通で、実際に同じ境遇の子ども達は皆そのように扱われていたのに、私だけはいつも違った。


『なんだ、この子ども。イライラするな』

『おい、ちょっとこっちにこい』


 私を目にした者は皆、それまでどのように穏やかな表情をしていても、激しく負の感情を喚起させられたように苛立つ。老いも若きも、富める者も貧しい者も関係ない。人から聞いた話では、皆、私を視界に入れると黒い感情が渦を巻き、底知れぬ悪意を覚えるのだという。

 見た目は、他の人間とそう変わるところはないはずの幼子を見て、大抵の人間はこれは悪魔に違いないと何故か激しく動揺する。

孤児に救いの手を差し伸べる救済院のシスター達でさえ、他の子どもに対する優しさが嘘のように、私を見る時は嫌悪を滲ませ、あれは魔女に違いないと囁きあう。

 どうしてそのような不幸極まる星のもとに生まれたのかはわからなかったが、常に人の悪意に晒されながらも、私は奇妙にも生き延びた。


『魔女の子ってのはオマエのことか? 変な奴だなぁ、オマエ。ガリガリで薄汚ねぇガキだが、顔はよく見りゃそんな醜いってわけでもないし、オレに逆らわない辺り頭が足りねぇってわけでもない。震えてるから恐怖がないわけでもない。それなのに周囲から嫌われて疎まれる』


 裏路地の端のゴミ溜めの中で、息を潜めて生きていた私を最初に引っ張り上げたのは、明らかに裏の稼業を担う人間だった。悪魔の子、魔女の子、と独り歩きしていた噂を辿り、誰もに気味悪がられていた私を探しにきて、自分の手元に置いた。


『こういう稼業にはオマエみたいなのがいると便利なんだ。人の悪意を集めやすい奴なんてのは囮としてこれ以上ない。おまけにガキで女ときたら使い途はいくらでもある。悪魔か魔女かしらないが、こっちも筋金入りの悪人だ、今更気になりやしねぇ』


 男は殺し屋で、依頼を受けて人を殺すことが生業だった。

 私の特異性を見込んで仕事に役立つと引き取った男は、私の家族ではなかったが、皮肉なことに男に道具として使われることで私は初めて人間としての生活を覚えた。屋根がある場所で寝泊まりをし、腐っても黴が生えてもいない食べ物を得た。仕事に有用だと証明できれば、褒められこそしないものの虐げられることもなかった。

男は時々私に手を上げたが、商売道具として見られていたからか過度に痛めつけられることは少なかったので、路地裏に戻るよりは何倍も良いと私も逃げ出しはしなかった。男の傍にいれば、少なくとも他の他人に痛めつけられることはない。裏稼業の人間の所有物に手を出す命知らずは、男より弱ければ殺された。

男の気紛れでいつ殺されるかわからないというところは路地裏での境遇と変わりはしなかったが、どうせ逃げたところで行けるところもなかった。


 私を奪おうとする者は男より弱ければ殺されたが、その逆もまた同じことである。

男が内輪揉めで殺された時も、私は漠然と、私のせいだと理解していた。

 男がはじめて見抜いたように、私には人の悪意を集める性質があった。私を置く限り仕事には困らないが、同時に常に命が危険に晒されるリスクを見誤った男は死に、今度は私は男を殺した人間に引き取られた。無論、道具として。


『お前は本物の魔女だよ。悪いモノを惹きつけるから、このまんまるい瞳に映った人間は、皆死神に魅入られる』


 幼い子どもの眼孔の形を確かめるように触れられながら、言われたことがある。私は何か下手なことをすれば目に添えられた指がそのまま眼球を突き破ってくるであろうことがわかっていたので、息を詰めて動けないでいた。

 その言葉の真偽は、そう間もなくその男が凄惨な死を遂げたことで自ら証明される。所有者は転々と変わった。名前はなく、誰も問うこともなく、ただ示し合わせたように何故か誰もがただの幼い子どもを一目見ただけで『悪魔の子』『魔女』だと唾を吐く。


『喜べ、害虫女。今日から俺達がお前の主人だ。といってもお前は裏の世界じゃ有名だからなぁ。内部に引き込めば組織を崩壊させ、利用しようとした者は皆破滅を迎える。不吉の象徴みたいな奴だが、死なずに持っていれば箔がつく。俺達はお前の今までの主人程バカじゃない。正直噂なんぞ眉唾物のホラ話だと思ってたが、本物を見てわかったよ。お前は本当に良くないモンを引き寄せるやつだ。傍に置いておけば間違いなく害がある。だが手放したところでいつか不幸をもたらす。殺そうとした者は必ず凄惨な死を遂げる。まったく、お前自身が呪いみたいなやつじゃないか』


 この瞳に魅入られて、これこそが悪魔を惹きつけるのだと抉って蒐集しようとした男は、自分の両の瞳から血を流して死んだ。何故かは知らない。どうしてそうなるのかなど自分自身が一番知りたい。それでも何故か、私に手を出そうとした者は、皆際立って惨い最期を迎えて、不吉な噂話がまた独り歩きをして膨らんでいく。


『魔を引き寄せるなら、引き寄せてほしいところに放りこめばいい。お前みたいなのも巧く使えば立派な名無しの殺人者になれる。なにせ、不幸が自ずとあっちから足を生やしてやってくるなんて荒唐無稽なこと、誰だって信じやしないんだから』


 何度か代わり映えのない所有者のもとを渡り歩いた後、何十番目かの所有者となった男は、私を手元に置くのではなく消したい相手のもとへ送りつけることにしたらしい。私が訪れる場所では人が死ぬ。なんの理由もなく、平らな道でまるで目に見えない何かに足を引っかけられたかのように躓き、転び、打ち所が悪くて死ぬようなのはマシな方で、大抵は口に出すのも憚られるような死に方をした。その誰もが私を視界に入れれば、どうしても一発か二発は頬を張らなければならないような衝動に突き動かされるような何かがこの身にある。


『不気味なやつ。せめて二目と見られないほど醜いか、壮絶なほど美しければ理解もできた。どうしてこうもごく普通の少女が、ただそこにいるだけで人の不幸を集める。お前は人の形をした災厄だ。その人畜無害な子どもの見てくれの下に、恐ろしい何かを孕んでいるに違いない』


 最早誰に投げつけられたかも覚えていない言葉は、確かに的を射ていた。私にかけられる一切の言葉は、常にすべてがこの身を糾弾するものだった。



 罵倒。嫌悪。怒気。恐怖。昂奮。

 人から向けられる感情は、すべてが負に傾いて、他の誰かに向けられた温かく優しい何かの仕草を見かける度に、狂おしいような気持ちが胸にざわめいた。

 私の何十番目かの所有者は、それまでの所有者達よりもうまくやった。

 この身は望む望まぬに限らず、必ず人の輪に不和をもたらし、破滅を招く。そこにいるだけで何故か人の悪意を吸い寄せて集める、この特異な悪魔憑きの体質を利用すれば、容易く人に不幸をもたらせる。

 最初は富裕層の屋敷の、手伝いの下働き。何の恨みを買っていたのかも知らない屋敷の人々は、数日保たずにほとんどが不審死を遂げる。

 次は教会の慈悲を乞う乞食。命じられた通りに、毎日慈悲の施しを求めて訪れた場所の司祭が、数日後に自殺した。

 街の利権を巡って対立していた市長が死に、薬物と人身売買の元締めをしていた組織の間で抗争が勃発し、汚職で醜聞のあった政治家の気が触れる。毎日目の前で人が死に、狂い、最期は恐怖か憤怒の愕然とした顔で、どうして、とでも言いたげにこちらを見つめる。どうして。どうして。どうして。


「どうして?」


 口から零れ落ちたのは自分こそが一番それを知りたいという強い欲求故だった。

 周囲には珍しく誰もいなかった。ほんの束の間でもそっと息をつくことのできる静寂があってこそ、初めて独り言のひとつも呟けた。周囲に誰かがいる時はいつも、不興を買わないよう貝のように押し黙る。それでも人は私を打った。


「……どうして……」


 一体自分は、前世で何の罪を犯したのだろう。一日の間、一人きりになれる僅かな時間ができる度、いつも思うのは己の業についてだった。

 私は何故生きているのだろう。何故こんなにも人に蔑まれ、疎まれ、憎まれ、嫌悪され、唾棄されて、それでも生きているのか。しかしいくら考えたところで、生まれてこの方学の一つもなく、ただただ人の悪意にばかり敏くなった頭は何一つ知りたい答えを教えてはくれないのだ。

 いつもの如く途方に暮れて、ただ宙を眺めるようにぼんやりとしていると、不意に草を踏みしめる音が聞こえてきた。私が咄嗟に身を強張らせるのと、茂みを掻き分けて、白い修道服に似た木綿の服を着た子どもの姿が見えるのは同時だった。


「あるじさま」


 幼子の舌足らずな声に、ほっと肩から力を抜く。同時に、そのいまだ耳慣れない呼び名が自分を指すことであることに遅ればせながら気づき、再びにわかに緊張が漲った。


「あるじさま。そちらへいらっしゃい、ますか」


 盲人の子だ。目が見えていない幼子のために声を出そうとしたが、縮んだように舌は動かない。子どもの声もたどたどしかったが、それ以上に自分は言葉を発することに慣れていない。そちらへ体勢を変えた時、かさりと草葉が擦れる音がして、それで子どもがぱっとこちらへ顔を向ける。


「あるじ、さま。そちらへ、いらっしゃいますか」

「……」


 答えられないでいると、不思議なくらい澄んだ子どもの声が続く。


「司祭さまが、お呼びだそうです」


 司祭。その名に体に緊張が戻り、ようやく動き出す。

 ―――私がこの時身を置いていた場所は、神のお膝元である教会だった。

 皮肉な話である。誰よりも神から唾棄されたような人生を運命づけられた私が、神の家に居座っている。無論はじめは自分の意志ではなく、所有者に命じられたためだった。

 その、顔も名前もよく知らない何十番目かの所有者から、連絡が絶えてどれくらいたっただろうか。

 定期連絡と命令のために訪れていた所有者の部下が、先日この教会近くの溝川の中から引き上げられた。

恐らくだが、今回の所有者は私の不運を利用するより先に、その不運に絡め取られてしまったのだろう。私の所有者達は皆最期には破滅を迎えたが、私を手元に置いた時点で不幸が降りかかる例も決して珍しいことではない。


「あるじさま」


 子どもの呼ぶ声に応えられないまま、私は途方に暮れたような気持ちになる。

 現在、私は誰にも所有されていなかった。

 教会に置かれたまま所有者が消えたため、成り行きで居座っている。

 この教会の者達は、司祭も下働きの孤児も信者達も、なぜか私のことを『あるじさま』と呼ぶ。それが彼らにとっての『神』を表わす名だというのは、無学な私でさえ知っていた。


「あるじさま」


 子どもに辛抱強く呼ばれる。それは私の名ではないと言うことはできない。ここでは私は『あるじさま』だし、そもそも自分の名さえないのだ。

 私を見た者は皆、ほとんど本能的とも言うべき忌避感を覚えるようだったが、目が見えなければその効果も多少減じるのか。この盲人の子は珍しく私を恐れも嫌がりもしない。この子どもだけでなく、この教会の者は皆、多かれ少なかれその気があった。ここは今まで私が置かれたどのような場所より異質だ。

 子どもに手を引かれて教会に戻ると、待ち構えていた司祭が縋り付く。その後ろには信者達がいた。幼子ではないとはいまだ少女の頃の私に、跪くようにして向き直る。


「ああ、あるじさま。どうか祝福を。いつものように哀れな我らにお授けください。どうかどうか、あるじさまのお力で、この世に破滅を。きたる黙示録の世界にお導きください」


 私は何も言葉を発さない。何か“祝福”のような言葉を求められているのはわかったが、なんと言えばいいのかわからなかったし、彼らは私が何をせずとも、その手を幼子と繋いだ小娘の後ろに何かを見ている。

 前の所有者からの連絡が途絶えた頃、この教会が神ではないものを祀っていることを知った。正確には気づかされた。最初から、この教会の者達は私のことを知っていて引き込んだのだろう。前の所有者よりも、ここの者達のほうが上手だったというだけの話だ。


「あるじさま。あるじさま。哀れな子羊達に死の静寂を。どうか。永久の世界へお導きください」


 悪魔の子。魔女。吐き捨てられる名が、『神』になっただけ。

 私という存在は、必ず人に不幸と破滅を運んでくる。

 人に絶対的な不条理をもたらすものであると言うならば、確かにその不敬過ぎる呼称はあながち間違いでもなかったのかもしれない。


「あるじさま」


 子どもが私の指を握る手に力をこめる。見上げる瞳は真白く色がない。見えていないから、その瞳にはこちらに対する悪意の色もない。生まれながらの神の采配ではなく、非情な親から殴り飛ばされ光を失ったという子ども。この教会の信者達も皆似たり寄ったりの境遇だ。親に捨てられた子。生きるために体を売る女。力に踏み躙られた男。

 私は跪く彼らに視線を落とす。盲人の子の手をそっと握る。


「死の安寧をもたらしてくださる、我らがあるじさま」


皮肉なことに、破滅をもたらす私は、ここでは確かに神なのであった。






 神への信仰を隠れ蓑に悪魔崇拝を行う教会での日々は、私の予想を遙かに超えて長く続いた。

 文明の遅れたこの国でも、既に宗教を本気で信じる者はほとんどいなくなって久しい。そのような中では、実在する人間を頂点に悪魔を崇拝する教団など、邪教も良いところだった。

 それでもとかく生きづらいこの世では、神の存在に懐疑的な人間が増える一方で、破滅を求める人間は増えていく。

 いつしか私を頂きに置いた教団は、一部に熱狂的な信者を抱え、徐々に存在感を増していく。私を神と呼び、畏怖する一方で、傅く人間も増えていく。

 けれどそのようなカルト宗教の拡大を世が見逃すはずもない。教会の力の増大は、確かに破滅に導く一歩であり、そこで数年を過ごすうちに気づけば私は犯罪者として追われる身となった。


「あるじさま。お逃げください。あるじさま」

「あるじさま。お助けください。ああ、ああ、我らの家が燃えている」

「あるじさま、あるじさま、あるじさま」


 数年―――決してひとところに留まることのできない身を数年も寄せたなら、教会は最早自分にとっての家に等しくなっていた。

 自分をあるじさまと呼び慕う信者達が燃えていく。根城である教会と共に燃え尽きていく。教会は巨大化し過ぎたのだ。ただ気の触れた者達の集まるひっそりとした邪教であれば誰も気に留めもしなかったものの、何故か確かにこの信仰は力を持った。

 無造作に破滅を振りまきすぎた結果、その破滅に食い尽くされる形で、教会は燃え落ちた。


「あるじさま。あるじさま」


 縋り付く盲人の子に、ここにいるよ、と伝えるように抱き寄せる。ほとんどの信者は教会と共に燃え尽きた。彼らに逃がされた私もじきに人に見つかり、殺されるだろう。あるいはまた利用されるのだろうか。しかし、神として崇められ、決して普通の生活ではなかったとはいえ、初めて穏やかな日々というものを経験した私が、かつてのように恐怖と罵りと憎悪の中に身を投げ出して生きていくことは果たしてできるのだろうか。そうなるよりも先にいっそ死んでしまいたい。けれどせめてこの子は守らなければ

 かろうじて逃げ延びた信者達が、ここから離れようと促す。それに頷いて、盲人の子を抱き抱えたまま立ち上がろうとした時だった。

 周囲で悲鳴が上がった。だん、だん、と激しい音があがった。周りを囲んでいた信者達が、次々に倒れていく。

 何が起こったのか把握するのに一瞬かかる。


「あるじさま?」


 何が起こったのかわからないでいる盲人の子の、場にそぐわない無垢な響きが耳朶を打つ。その背に銃弾が打ち込まれ、ゆっくりと血飛沫をあげながら倒れていく。

 どうして、と無意識のうちに零れ落ちた声は震えていた。

 目の前に立った男を呆然と見上げる。こちらを見下ろす、ぎらぎらと鮮烈な光を放つ眼光。

 悪魔のように美しい男だった。私を見下ろし、私だけを見つめ、神のように断罪する。


「最悪の女。おまえを迎えにきたんだよ」




 かつん、かつん、と金属の管を打ち付ける音。

 それは無造作に足を組んで椅子に腰掛けた男が、金属製の煙管の灰を落とす音だ。煙管の端にくくりつけられた豪奢な房飾りが、男の手の動きによって揺れる。煙管からはゆるい紫煙がたちのぼり、ただでさえ妙な香が絶え間なく焚かれている部屋に、薄い膜を作り出す。


「おまえのことはよく知っている。ああ、おれほどおまえのことを知っているものもそうはいないだろう。おまえはこの世界では有名だが、そのような単純な意味合いではなく、おれはおまえの本質を知っているのだ」


 奇妙に抑揚のない声は、音楽を奏でているかのように耳に心地よい美声だった。低くも高くもない。それでいて、男の外見同様、男の身ながらに春をひさぐ生業と言われようと違和感のない色香の滴る艶やかさがある。けれど、その酷薄な眼光を、私はよく知っていた。それは決して支配される者の色ではない。人を屈服させ、服従させ、跪かせる、支配者の色だった。


「おまえは最悪の女。災厄の女。そこに存在するだけで、まっとうな善人を狂わせ、人の恥ずべき欲望を引き出し、悪しきものを惹きつける。そのくせしておまえの性根はまっとうだ。人の悪意に怯え、暴力に身を竦め、弱者へ砕く心さえある。なんとも傑作だと思わないか。おまえ以上の弱者などこの世に生まれ落ちたばかりの赤子くらいしかいまいだろうに」


 冷ややかな男の声には嘲りがはっきりと滲んでいた。最早聞き飽きるほど聞き飽きた人の負の感情に、しかし常より多大な恐怖を感じる理由はわかっていた。

 私は黙したまま、男からなるべく距離を取るために窓際へと寄る。空にせり出した窓に錠はなく、遙か地上をガラス越しに見下ろすことができる。この天を突く塔のような建物には扉はたった一つしかなく、唯一の出入り口は上にある。出入り口はその一つだけ。

 私の手足に枷はない。今のように足を組んで、ここは私のために用意した塔だと歌うような口振りで男は言った。だから枷は必要ない。男はここに訪れる際、空から降りてくる。無論羽など生えていないが、しかし、男の本当の姿が悪魔であると言われても私は信じるだろうと思った。

 機嫌を取れ、と男は言った。連れてきた私に向かって、男の機嫌を取るように努めろと。

 しかし、協会を燃やされ、信者を殺され、居場所を奪われて、無力に打ちひしがれながら怯える私に、男は何かを強要することはなかった。そう、不思議なくらい、男は私に何も求めなかった。今この時までは。

 びくびくと怯えて部屋の隅から動かない私を、猫でも見るように飽きることなく眺めて、時間がくればいなくなる。そうしてまた訪れる。気紛れなように感じられる不定期の訪問は、しかし、二日と間を空けることがなかった。

ここに男以外に訪れる者はない。私の信者達は皆、男が燃やした。歪ではあったが初めて得た私の居場所を蹂躙し尽くした男に、私は害されることを恐れながら、以前のようにただ諦めて靡くことはできなかった。目の見えない幼い子どもを撃ち殺されたことが私の心に強固な壁を作り、機嫌を取れ、という男を睨みつけた。悪意を惹き寄せながら悪意になんの力も持たずに諦めていた今までとは違い、それだけが私の唯一の抵抗だった。それなのに。


「誤解するなよ。おれはおまえのその、いっそ手放したほうがおまえにとっては幸せな愚かさを好んでいる。人らしくてとてもいい。その不幸な運命に似つかないほど、おまえは善良な弱さを持っている。それでいて今まで死ぬこともできなかったのだから、業の深さがわかろうというもの。そうだ。おれはおまえを可愛く思っている。おまえのような人間は他にはいない。おまえを見てからおれの情はすべておまえに傾いた。それなのに、ああ、おまえという奴は。他の者に未練を残して、こんなガラクタを隠し持っていたとはね」


 男の足元。毛足の長い重厚な絨毯の上に細かに散らばった破片は、いつか私があの協会で可愛がっていた盲人の子にもらったペンダントだった。唯一手元に残ったそれは誰にも見つからないよう肌身離さず常に隠していた。私に会いに来る男は背筋が総毛立つようなぎらぎらとした眼光をしていたが、ペンダントを見つけて、それを踏み潰すまでの男の眼は、心底つまらなさそうに凪いでいた。そうして今も、ただ淡々と淡々と、私を言葉でもって詰っている。それに対して私は怒りに打ち震えながら、情けないほどの恐怖に身を竦ませて、舌を取られたように喋れない。


「女とは原初よりすべての諸悪の根源の如く扱われ、蛇蝎のように忌避されるが、真実は違う。ああ、女に罪はないとも。女とは、原初の悪を惹き寄せるもの。悪に求められ、悪に暴かれ、抱かれるもの。おまえはそう、女を体現したものだ。悪魔の子。魔女の子。おまえを呼ぶ名はさまざまだが、そういえば、おまえがいたく大事にしていた子どもは、おまえを天使のようだと言ったことがあったのだっけ? 死をもたらすものという意味では、天使も間違いではないが。いやしかし、巧いことを言ったものだ。たしかにな」


 何故そんなことを知っているのか。何故私のことを知っているかのように話すのか。朗々と流し込まれる声に耳を塞いで蹲りたくなる。その代わりに、これ以上ないほど窓際に身を寄せて、男と少しでも距離を取ろうと足掻く。いっそ窓を突き破ってこのまま落ちて行きたい。

 この星の下に生まれ、さまざまな悪意に触れた。ありとあらゆる悪を知っている。悪に染まった人間も。けれど、目の前の男は、今まで出会ってきたどのような悪より恐ろしい。理由もわからないまま直感がそう警鐘を鳴らし続けているのだ。


「皮肉ではないよ。おまえは悪魔だ魔女だと騒がれるが、本当は天使なんだろう。ああ、おれもそう思うとも。おまえは天使だ。だから人から妬まれ憎まれた。あれほどの悪意を一身に身に受けておきながら正常であり続けられる者は、最早普通ではない。あまりに清らかなものを人は嫌う。自分達の醜さと共に、今いる場所が掃き溜めだと気づいてしまう。だからおまえは誰もに呪われる。だから、おれ以外に誰もおまえを見ないここへ連れてきた。誰も見つけられない場所に宝物をしまって、好きな時に取り出して存分に眺められるように」


 聞きたくない。聞いてもいないことを男は朗々と喋り続ける。今日は特に饒舌だった。男が喋れば喋るほど私が怯え、恐れ、絶望することに、恐らく気づいているのだろう。確かに普段の男は彼の言う通り、何か宝石でも取り出して眺めるかのように、あるいは愛猫でも見つめるような眼差しで、言葉少なにこちらを見つめることが多かった。この口数の多さと、初めて会った時と同じぎらぎらとした眼光は、その感情が逆撫でられたことの証左だったのか。


「おまえがおれを見ずとも、おれ以外に情を傾けようとも、おれはおまえをここから出したりなどしないよ。絶対に。それに、出たところでどうなる? 誰かの庇護がなければ人の悪意を集めるおまえはすぐに害されるか、また利用されるだけ。おまえは他人を理由なく惹きつけ、その魔性で窒息死させて、そんなつもりはなかったのだと被害者面でほざく。食虫植物のほうがまだマシだ。生きるために捕食するのではない、おまえは生きるために不必要、むしろ害悪となることを無意識のまま生きている限り行うのだ。ここにいたほうが世のため人のためというもの」


 例えおまえが天使だとして。おれを振り切って世界の果てまで逃げるとして。一心不乱に逃げるおまえのその翼をおれはむしって羽を散らそう。おまえが天まで逃げたなら天を撃ち落とそう。

 男の声音はぞっとするほど正気なのに、語る内容は夢でも見ているかのように現実味がなく蕩けるように甘い。男が顔を傾けると、しゃらりと耳飾りが揺れる。大の男が語れば赤面せざるを得ないような話をしながら、男の顔に表情はない。それがただ恐ろしい。


「おれを見ろ。目を逸らすな」


 恐ろしい。恐ろしい。恐ろしい。

 だが一番恐ろしいのは、この身の呪わしさでも、前世の業のような因果でもなく、これだけの言葉をかけながら一向に見えてこない男の心だった。

 男の足の下で、砕けた破片が煌めく。私はほとほと途方に暮れて、ここにきてからずっと抑えつけてきた泣きそうな気持ちが波立つのがわかった。

 どうして。


「どうして」


 気づけば、口から零れ落ちていた。

 それは私の心からの疑問だった。生まれてから幾度も繰り返してきた問い。誰一人として答えを知らないそれ。けれど、それまで黙し続けてきた私の口から零れ落ちた音に、男の瞳が途端に昂奮に輝いた。「それだ」

 男が立ち上がり、こちらへ足早に歩み寄ってくる。身を捩って逃げようとする私を素早く捕まえると、その腕の中に強く抱き締めた。


「ああ、それだ! ようやくおれに尋ねたな! おまえはどうしてと考え続ける。どうして、自分は不幸なのか。どうして、自分だけが人から憎まれ、疎まれ、爪弾きにされ、愛されないのか。ああ、おれはそれに答えよう。それはおれのせいだ。おれがおまえを呪ったから。おれの呪いのことを考え続けなくてはならないおまえは、おれを知らないままに、ずっとおれのことを想っていたのだよ」


 触れたところから体が震えた。自分が震えているのかと思ったが、声を上げて笑っている男の体に揺らされているのだと理解する。そう、男は笑っていた。あれほど無表情だったのが嘘のように、肩を揺らしながら、遠慮もなく、ただ本当に心から嬉しくてたまらないとでもいうように笑っている。骨が折れそうなほど強く抱き締められる。


「だって不公平だろう。おれはずっとおまえのことを考えていたのに。おまえがおれに苦しまないなんて。うん。でもこれで公平だ。嬉しい。おまえの涙も恐怖も憎悪も余すことなくおれのもの。いつかは微笑みも見せておくれ。舌の動かしかたは徐々に思い出していけばいい。恐れることはなにもない。そう、この赤い舌で、囀っておくれ。おれのため」


 どうして、と震える声がまた落ちる。

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