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アリーチェは伯爵家の長女だった。
中々子の授からなかった両親の待望の第一子で、男でなかったことに少々の残念さはあっても、五体満足で生まれたアリーチェを両親はとても可愛がった。
やがて良い縁を探して婿を迎え、家を継いでゆくものと期待されていた。
八歳の時、妹のヴィオラが生まれるまでは。
二十六歳でアリーチェを産んだ母は、三十四歳で妹を産み、次の子を諦めていた両親は、それはそれは喜んだ。
後継ぎにはもうアリーチェがいて、同じ家格の伯爵家の次男ミケーレと婚約し、将来は安泰。
領地経営も順調で大した問題もなく、穏やかな日常の中で、両親は只管にヴィオラを可愛がった。
アリーチェも妹は可愛い、そう……思っていた。
伯爵家を継ぐための様々な勉強はアリーチェには難しく、必死になって何人もの家庭教師についていく日々。
時間割はかっちりと決められており、息をつく間もない日々。
課題が終わらず食堂に現れない長女を疑問にも思わず、食卓を囲む三人。
教科の進捗状況が思わしくないからと、家庭教師が休みの日も勉強していなさいと、長女を置いて遊びに行く三人。
両親はヴィオラにかかりっきり。
溺れそうになってもがいているアリーチェには見向きもしなかった。
アリーチェは欲しい物があっても、与えられた目標に到達しなければ買ってはもらえなかった。
アリーチェが努力する一方で、欲しいの一言で何でも与えられるヴィオラ。
やっとの思いでアリーチェが手に入れた物も、ヴィオラの「それが欲しい!」の一言で両親に譲るように強制され、新しい物は与えられない。
そんな中でもアリーチェが耐えられたのは、婚約者のミケーレと婚姻したら、自分が当主になるからである。
この国は男女に関係なく、当主から後継ぎに指定された者が家を継ぐ。
爵位はアリーチェが継ぎ、婚約者は夫となり、共に領地経営をする事になっている。
ミケーレはアリーチェの三歳年下なので、ミケーレが成人したら婚姻し、同時に伯爵家を継ぐ手筈になっているのである。
現伯爵は、貴族からしたら変わり者で、選良意識や権利欲はあまり無く、領主という重責を早く肩から下ろして引退し、妻と子の家族三人で穏やかに暮らしたい、そうアリーチェに言い放つ人である。
どうぞ。
領地に家も用意済みですから。
ああ、婚約者の成人が待ち遠しい。
この頃にはアリーチェの心は既に凍てついて、そう思うことで、何とか正気を保っていたのである。
しかしそれは、ミケーレが十五歳を迎え成人し、婚姻の日取りを決める両家の会合で脆くも崩れ去った。
「私がミケーレ様と婚姻したい!」
結果、ヴィオラのその一言で、アリーチェは廃嫡されることとなった。
アリーチェはミケーレを好ましく思っていた。燃え上がるような情熱ではないかも知れないが、人生を共に歩む伴侶としてきちんと認識し、尊重もしていた。
一方でミケーレも、思春期を拗らせて態度こそ素っ気なかったが、アリーチェと共に歩むことを心から受け入れていた。
当然、ミケーレはその場で婚約者の交代を拒否した。
そんなことを言い出した十歳にも満たない子どもを諫めもせずに「そうかい? じゃあそうしよう」と言ったアリーチェの父の正気も疑った。
ミケーレの両親も、それは出来ないと反対した。
ミケーレは女伯爵の伴侶として育ててきたのであって、継ぐ爵位のない次女と添わせ、平民となるなど想定外だった。
ヴィオラは、最初きょとんとし、ミケーレに拒否されたことが分かると、大声で泣き始めた。
なんでお姉さまばかり! ずるい! 先に生まれただけで伯爵位もミケーレ様もお姉さまのものだなんて! ずるい! と。
すると、アリーチェの父がにこやかに宣言した。
「では、当伯爵家はヴィオラと婚姻する者に継がせよう。可愛いヴィオラに大変な領主などさせられんからな」
女伯爵の伴侶から伯爵本人。
ミケーレの両親の心が揺れた。
ミケーレの心も揺れた。
アリーチェが後継ぎから外れたとなると、ミケーレとの婚約も白紙になる。
ヴィオラと婚約し、ミケーレが伯爵となれば、より領地同士の結びつきは強くなる。
ヴィオラが「やったぁ!」と大喜びすると、その場は「そういう」流れで纏まってしまったのである。
ミケーレは「何かがおかしい」と思っても、頭に靄がかかったように思考できないでいた。
「お姉さまも良い人と婚姻できると良いわね!」
たった今、姉の婚約を叩き壊した張本人の言葉である。
アリーチェとの婚姻の日取り決めに訪れたミケーレ一家は、ヴィオラと婚約して帰って行った。
最後には自分の両親に押しきられるように、ミケーレ本人もヴィオラとの婚約に頷いた。
この話し合いで、アリーチェは一言も発していない。
誰も、アリーチェに何も聞かなかったからである。
アリーチェはいつの頃からか、家族の前では自分から何かを言うことが出来なくなっていた。
もしも、この場に、魔術に長けている者が一人でもいたのなら、結果は違ったものになっていたのに。
後年、両家とも悔やむ分岐点での選択はこうして成された。