9.放課後
ロッカーの立ち並ぶ更衣室の中、汗まみれになったユニフォームを脱ぐと木槿葵はスポーツバッグから取り出したハンドタオルで自らの肌を拭った。腕は既に日焼けの黒みを帯びて、指先で触れれば熱を持ち、タオルで拭った感触でわずかにひりひりと痛むのを感じた。ユニフォームで隠れていた二の腕の半ばあたりでくっきりと白と黒の境目を作り出して、日の下での練習の跡が明らかに見て取れる。
タオル手のままに顔の触れてみると、顎のライン辺りが特に痛みを感じて、ユニフォームで拭いすぎたせいなのだろうかと思えた。
「焼けちゃうのは嫌だなあ。」
脱いでしまった服をぐるぐるに丸めてレジ袋にっつこんでしまい、スポーツバッグの仕舞い込みながらそう言うと、隣で同じように服を脱いでいた麗菊は同意するように頷いた。
「わかる。焼けるの嫌だから室内っぽい部活にしたのになあ。」
騙されたと、愚痴っぽく言いながら麗菊も、ハンドタオルで自分の体を拭き始める。私よりも背丈は小さいけれど、体の肉付きはよっぽど良くて、彼女の手が胸を拭こうとすると、その膨らみがたゆんたゆんと揺れるのに、傍らから見ていて圧倒される気持ちなってしまう。ただ、それを言うと、彼女は自分がデブと言われているようで気に食わないらしく、あまり口にはできない。
「公立は辛いよね。良い私立とかだと、部活ごとにコート持ってるとかいうし。」
「なんかそこまで行くと贅沢すぎて想像できない世界だよね。」
言いながら、麗菊は体へとしゅっと制汗剤を吹き付けた。ふわりとシトラスの鼻につく匂いが漂ってくる。更衣室の中では他の子たちも、スプレーを使って体に制汗剤を吹き付けていて、アッという間に室内が果物と汗とのごちゃ混ぜになった奇妙な匂いがあふれかえっていく。この匂いが苦手で、ちょっと顔を顰めてしまいながらも、自分も仕方なしにと腕を上げて脇の下や腰と言った汗がたっぷりと流れていた箇所へと制汗剤を吹き付けていく。
「コートはともかく、シャワー室だけでもできないかな。」
「それ一番贅沢じゃない?」
呆れたように言った麗菊は、使っていた制汗剤のスプレーを上下に揺らした。中身がなくなり始めているのだろう、先ほどの吹きつけていた勢いも何かガスが抜けてるようにかすかすだった。
「もう、新しいの買わないとダメなんじゃない?」
「そうっぽいね……。あ、そうだ、葵。ついでにさ今日一緒にコンビニ寄って行かない?雲雀ケ丘の方の。」
「んー……なに?今日、何かあった?」
スポーツバッグの中から新しいショーツを取り出して、その片方の裾へと足を通しながら麗菊へと顔を向けると、彼女はにまりと嬉しそうな顔をしていた。
「新しい肉まん出たからさー。食べてみたくって。」
弾んだ声を上げて麗菊は抱えるように自分の胸をブラジャーの中へと納めていた。
「ふーん……でも、やめとくわ。ちょっと用事あるし。」
自分も支えるほどもない胸ながら、屈みこんでブラジャーを付けると、よっと体を持ち上げて、ホックを留めた。
「そう?」
「んー。ごめんねー。」
軽く言いながら制服のシャツを羽織ってしまい、手際よくボタンを留めていく。すぐにスーカートをはいてしまうと、さっさと道具やら何やらをスポーツバッグへと突っ込んでいった。
「んじゃ。」
よっと老人みたいに声を出して、重いスポーツバッグを抱え上げると、麗菊とその隣で静かに服を着替えていた咲良へと手を振った。
「えー、早くない?」
「さっきも言ったけど、用事あるから。」
ぶーと顔を膨れてみせる麗菊を横目にして、更衣室を出た。外は既に日が傾いていて、きっと日が暮れたと思う間もなく夕闇に沈んでいくのだろう。こちらがユニフォームから制服へと着替え終わっても、まだ野球部は練習をしていて、金属バットの音ともにへばり切ったダミ声が響いているグラウンドの横の、心ばかり整備された小さな脇道通って、校舎へと向かう。
グラウンドから校舎へと続くアスファルトの道を通り過ぎ、玄関に入ってみると、丁度、文化系の部活も活動を終えたのか、幾らかの生徒が下駄箱に集まって、がやがやと話し込んでいるのが見えた。その横を通って、シューズから上履きへと履き替えてしまうと、ちょっと急ぎ足で玄関の近くにある階段を駆け上がる。
一気込んで、最上階まで登ると、さすがに息が切れてしまって、肩を上下させながら、辿りついた廊下へと目を向ける。
日の傾いて茜色に染まり始めた西日を受けた最上階の廊下は、どこか異空間のように緩く暗い雰囲気を漂わせていて、やはり、というか、なんというか、その空間の真ん中あたりに、グラウンドから眺めた時に見かけた特徴的なシルエット、癖の強いぼさぼさの髪をした、あの柊さんが居るのを一目に見つけた。
「柊さんっ。」
思わず挙げた声は、想定していたよりもよっぽど大きくて、他に誰もいない廊下へとわんわんと響いてしまい、わっと慌てて口を押えた。廊下にしゃがみ込んでいた柊さんは、その声の大きさに体をびくりと震わせると、まるで音に驚いたネズミのようにきょろきょろと左右へ首を回すと、ちょっとして、こちらに気が付いたのか顔が私の方へと固定された。
「木槿さん?」
「うん。私のこと憶えてた?」
「憶えてますよぉ。今日のお昼会ったばかりじゃないですか。」
「そうだね。」
軽い冗談に真面目に返してきてくれる柊さんの言葉に、ふふっと軽く笑ってしまう。
「柊さん、ここで何してるの?」
立ち上がってスカートの裾を払った柊さんの元へと近づいてみると、それまで気が付かなかったけれど、何か見たことのない道具やらが床に散乱していた。
「えっとですね……あの、廊下の床で、壊れてるところがあったので、ちょっと直してるんです。」
「直してる?」
「ここ見てもらえますか?」
言いながら柊さんが指差すので、その指の先にある床へとしゃがみ込んで覗いてみる。
よくよく視線を凝らしてみると、廊下の床のシートが割れて居る所に、白いクリームが塗られていることに気が付いた。
「あ、ここって。」
そういえばと思い出すと、昨日イヤホンを直してもらうために初めてここに来たとき、この床が割れて居ることに気が付いて、ちょっとだけ気にしていたはずだった。帰る時には気にしなくなっていたけれどと、改めて眺めてみると、確かに昨日見た割れを満たすようにして床とは違う白いクリーム色の部分があることが分かる。
「割れてる所に、こうやってパテを塗って、乾いた後に磨くと綺麗になるんですよ。」
そう言うと柊さんは、床の割れた部分を満たしていた白いクリーム色の部分に、紙やすりを当ててゆっくりと擦り始めていく。ざりざりと荒い砂が擦れあう音が廊下に響いていく。こんな見た目の違う部分が残っていて、どうやって綺麗になるんだろうと思って眺めていると、気が付けば、いつの間にか境目が見えないほどに、すぐに廊下とクリーム色の部分が馴染んでいく。
思わずへえっと感心した声を漏らすと、傍らで柊さんは
「そんな大したことじゃないですけど」
と、恥ずかしそうに癖毛だらけの頭をかいた。