14.心配で
一時限目、二時限目と授業を受けながら、どこか呆けた心持で木槿葵は黒板を眺めていた。
教壇に立つ先生達は、廊下まで響くような大きな声を張り上げて一生懸命に講義する人や、ぼそぼそと前の席の生徒にしか聞こえないような声で喋るけれど板書の綺麗な人やら、授業を真剣に進めていてくれたけれど、殆ど何を言ってるのか何を書いているのか理解できないまま、真っ白なノートを開いて、ただ黒板を眺めていることしかできなかった。
窓から机の上へと差し込んでいた光が作る影が境目を徐々に移動させて行き、完全に机が電灯の明かりだけに照らさられるようになった頃、教室の中に間延びのしたチャイムが鳴り響く。クラスメイトのみんなは、思い思いに席を立ったり、机を移動させ始めていく。
「葵ちゃん、お昼ご飯食べよう。」
いつもの軽い調子で声をかけてきて、そのまま机を寄せてくる柚木さんと他のクラスメイト達を見上げる。そこではたと、自分はようやく四時限目の授業が終わったことに気が付いて、思わず席を立ち上がると柚木さんたちに首を振った。
「ごめん、ちょっと用事があって。」
「また?」
「あ、えっと……お弁当は一緒に食べるから、待ってて。」
筆記用具を机の中に突っ込んで慌てて教室から出ると、近くの階段を段飛ばしで駆け上がって、最上階にある技術準備室へと向かった。妻女会は昼休みでも人っ子一人も影がなく、他の階の賑やかな生徒達の声が遠く聞こえた。肩の上下する荒い息を整えながら廊下を進み、技術準備室の手前で立ち止まると、一つ息を整えてドアノブに手をかける。
「あれ?」
ガチャッと音のして、ドアノブは回ったけれど、扉が何かに引っかかっている感じで開けることが出来なかった。何度かドアノブを回して、ガチャガチャとやって、はたとそこで鍵がかかっているのだと気が付いた。
「もしかして柊さん、来ていないの……。」
昨日、あんなことがあったんだ。今日は彼女が学校に来ていないかもしれないという考えが頭を過って、思わず何も考えられなくなって、扉を拳で殴りつける。木造の扉が揺れるのをゴンっと深い音を響かせるのを感じながら、自分は、なんとなく、一瞬、視界が揺らいで意識が遠くなっていく気がしてた。
「あれ、木槿さん……?」
目が霞むように感じていく中、ふいに声のかけられたのに気が付いて、慌てて振り返ってみると、そこには柊さんの姿があった。いつもような癖の強い髪の毛をぼさぼさにして、そうして、いつものようにどこかきょどった様子で、柊さんは視線をしきりに左右へと揺るがせている。
「柊さん……。」
ほうっと安心からくる吐息を漏らしてしまうと、その息の音に少しだけ柊さんはびくりと反応しながら、おずおずとしながら、こちらの顔をのぞき込んできこんできた。
「木槿さん……どうして、こちらに?」
「それは……。」
問われて、思わず思っていたことを全て口にしてしまいそうになった。
ただ彼女のにそれを言って何になるのかと思い、すぐに口を噤んだ。
中学校の頃に彼女が虐められていたことを知ってからと言って、それを目の前に立って何と言えば良いというのだろう。そのまま、素直に「虐められていたの?」なんて聞いたとして、そんなこと、ただ柊さんを傷つけるだけでしかないなんてことは明らかで、それこそ、昨日倒れた時のように、ここで倒れ込んでしまうかも知れまないと思えた。
そう考えると、何も言葉が出てこなくて、こんなところまでわざわざ来たのに、口を噤んだまま自分の手を握りしめて俯いてしまうことしかできなかった。
「あの……とりあえず中に入りますか?」
突然黙ってしまった自分に気を使ったのか、そう言いながら柊さんは技術準備室の扉へと鍵を差し込んだ。くるりと彼女の細い指が鍵を回すと、ガチャリと重い金属の音が鳴った。ドアノブを回して開く扉とともに、柊さんは部屋の中へと入っていく。ぱちりとスイッチの押された音が鳴ると、ちかちかと電灯が瞬いて、すぐに部屋の中が明るくなっていき、通路の見渡せるようになった室内へと足を踏み入れて行きながら柊さんは、振り返ってこちらへと視線を向けてきた。
「どうぞ、入ってください。」
「あ、えっと……お邪魔します。」
何も言えないままで気後れしてしまって、少しためらいながらも誘われる言葉に頷いて準備室の中へと足を踏み入れる。昨日と変わらない、雑多な荷物の、ごちゃ混ぜ置かれた混沌とした部屋の中。それが今の自分の心の中とリンクするようで、目が回るような気持ちになってくる。
柊さんもどことなく戸惑った様子で、近くに積んであった本の山へと手をかけなけながら、こちらへと眼差しを向けてくる。
「邪魔なんてこと、なんにもないですよ。」
「そうかな……。」
扉を閉めて、軽く唇を噛みしめる。このまま、押し黙っていることも変でしかなくて、ぐるぐるとかき乱されていく頭の中で言葉を探した。
「あの……柊さん。もう体調は大丈夫?」
不意に言った、その言葉に、柊さんは一瞬きょっとんとした顔を表情を見せた。
「え?」
「昨日、体調悪くなってたでしょ?貧血だったっけ?」
「え……あ、はいっ。もう全然大丈夫です。」
明るげな声で笑いながら仄かに口角を挙げた柊さんの表情は、それでもどこかぎこちなく見えて、じっと視線を向けると、目の周りが隈のように黒みを帯びてさえいた。明らかに空元気で言ってるのを感じ、思わず視線を逸らしてしまいそうになる。
「あの……昨日はすみませんでした。ご迷惑をかけてしまって……。」
「そんな……それこそ迷惑なんてことないから……。でも、元気なら良かったよ。アカリさんも元気?」
多分、室内のどこかに置いてあるアカリさんのスピーカーへと声をかけてみると、すぐに準備室の大きなスピーカーから声が出て来た。
『動作に問題はありません。』
「なにそれ。」
自分達二人とは違って、全くいつもと変わらず至極真面目な言葉を返してくれるアカリさんの声に、少しだけ頬が緩まる気持ちで軽く笑ってしまった。
「あの、木槿さん。もしかして心配してきてくださったんですか?」
「え……。」
問われて僅かに言葉に詰まってしまいながらも、すぐに頷いて、そうだと言うことにした。
「うん。流石に昨日の今日だし、気になって。でも、心配し過ぎだったかな?」
「いえっ。嬉しいです。そんな心配して貰ったの初めてで……。」
「そ、そうなんだ。」
嬉しそうに柊さんは言っているのに、その内容が寂しくて、なんと返事をするのが正しいのか分からずに乾いた笑い方をしてしまう。