発作的な誘導
一ヶ月半あまりの長い夏休みが終わり、大学では後期の授業が始まった。前期と比べて後期は比較的私も勉強に集中できた。やはり自分の体がちゃんと動くと言うのは大事な事なのだとこのときしみじみと感じた。右手が動いてノートを取ったり絵を描いたりすることができる。自分の足を地に付けて、自分の思ったとおりに校舎間を移動することが出来る。歩いても走っても暴れても、もう体に痛みはない。車椅子に縛り付けられているようなあの感覚が、体が動く私にはもうない。その喜びは、おそらく誰かに語ったところで分かるものではないかもしれないが、とにかく自分で動いて授業でノートを取ったり、実技で粘土を弄って思うような形にしたり、放課後部室で絵が描くことができる喜びが、私にとっては大きな一歩だった。そのためか、空きコマが出来ると、私は頻繁に部室に通うようになった。時々ふと想い出したようにあの雑多な作業部屋で、紙粘土とニスの匂いに囲まれながら心を休め、手を動かし、無心にその場で過去の創作物を眺めたりしたくなるのだった。
後期の空きコマに最初部室を訪れた時、私を部室で迎えてくれたのは、キヨミだった。音楽科であるキヨミは普段は別キャンパスにいて空きコマにはほとんど部室にいないため、放課後以外の時間に彼女が部室にいるところを、そのとき私は初めて見た。彼女は棚を背もたれにして部屋に置いてあったパイプ椅子に腰かけ、フルートの写真が大写しになった音楽雑誌を読んでいた。他の部員はいなかった。
「キヨミ」
声を掛けると彼女は本から顔を上げて私を見、「あ、お疲れ」と返事をした。手に持っていた音楽雑誌が綺麗に畳まれて膝の上に置かれる。珍しいこともあるなと言うと、全休の日が出来たのだと説明された。一人で家にこもっているのも退屈であるし、特に行きたいところもなかったので何となく部室にやってきてしまったのだそうだ。後期はこの時間は毎回部室に来る予定らしい。
キヨミは私を見て「怪我、治ったの」と視線を投げた。私が頷くと、好意的な感情が見て取れる笑みで、おめでとう、と言った。「これで本格的に作品制作が出来るね。今までの作れなかった分も、これからたくさんいいもの作ってね」
キヨミの何気ない笑顔が今の私にはちょっとくすぐったくて心地よかった。私は照れ隠しに力強く頷いた。それから今までありがとう、と礼を言って、どういたしましてと返す彼女に笑いかけた。彼女の唇からはいつも通りの静かな息が漏れている。
「ということは、あの方も、もうここにはいらっしゃらないの」
思い出したようにキヨミが呟き、私は一瞬質問の意図が分からなかった。「あの方?」と聞き返すと「ほら」とキヨミが答える。
「車椅子を押していた、あの方」
どうやらキヨミはアドレナリンのことを言っているらしい。そういえば前期に部室で話をするときも必ずアドレナリンのことをあの方、と呼んでいた。名前の由来を尋ねようとしないところをみても、キヨミは私の付けたアドレナリン、というあだ名が気に入らないようだ。そもそも由来を尋ねられたところで意味はないので答えに困るだけなのではあるが、キヨミの性格を考えれば人の名前を物の名前で呼ぶこと自体が許せないのかもしれない。
「ああ、アドレナリンなら、多分もうここには来ないよ。あいつはただ、私の怪我の面倒を見ていただけだから」
出来ることなら私ももう二度と彼には会いたくなかった。アドレナリンは他人のために自分を犠牲にしすぎる。私は最初のうちは彼のそうした態度に無意識に気兼ねをしてしまいそうになる自分に戸惑い、それが嫌だった。が、出会ってから三カ月が経過した今は少し事情が違う。彼が私に気遣いをするようになることが当たり前になりすぎて、その最初の戸惑いに付け加えられて、私が彼に不必要に注文を付け過ぎてしまうことも、やや怖くなった。その点に関してはキヨミも似たようなところがある。私は気を抜くとキヨミにすぐ必要以上のことを要求してしまいそうな自分を発見して嫌になる。何とかして自分のことくらい自分でやりたいと思うのに、気付いたらキヨミに頼りそうになってしまう。しかしキヨミがアドレナリンに似ていて、私がアドレナリンに会いたくない、というのであれば私は同じくキヨミにも会いたくなくなると想像するのは難しくないはずなのだが、なぜか私はキヨミのことは彼ほど嫌いではなかった。寧ろ私自身としてはキヨミに対して好感すら持っているように思える。この、アドレナリンとキヨミにある私が抱く印象の違いは、一体どこから生まれてくるのか。
「そうなの」
私の思考の合間にキヨミが曖昧な声で返事をした。来ない、というのはあくまで私の予測と願望であり、別にアドレナリンが二度と部室に来ないという保証はどこにもない。だがキヨミはまるでそれを信じきっているかのように、あの方はもう来ないの、とでも言いたげに、肩を竦ませる。
「優しい、いい方でしたのに」
その言葉に、私は何やら自分が動揺しているのに気付いた。言葉の端々からキヨミが妙にアドレナリンに肩入れしているのを察したのだった。これだけキヨミが他人に執着するのは珍しかった。普段ならば、誰と接するときにも乱れぬ呼吸で、あら、へえ、そうなの、とうなずき返しているような人なのに、今はどこか残念そうに言葉を発しているように見えて仕方がない。いつも笑顔の裏に包み隠されているものが途端に露呈したとでも言おうか。とにかくいつものキヨミとは違った気配が、何となくだが隣から立ち上ってくるのを感じた。
これは、もしや。妙な直感が私の脳裏を横切った。以前、部室で考えていた欲望が、ふと思い出したように頭をもたげる。おそらく、あながち間違ってはないはずだ、とここにきて変な自信を得た。わけがわからなかったが、何もしないよりはいいだろう、手足も治ったし、と自分に言い聞かせた。私は意を決して、それでいながら何でもない風を装って、彼女に告げた。
「そんなに会いたければ、アドレス知ってるんだから、連絡すればいいじゃないか」
キヨミは一瞬こちらを見て、ええ? と冗談を聞いた時のように笑った。
「会いたい? 私が、あの方に?」
「ああそうだ。少なくとも私にはそう見えるな。変に気兼ねをする必要はない。会いたいなら、好きに連絡を取って会えばいい」
キヨミは私を見たまま、ふふ、と笑った。その笑顔は何を言っているのか、というニュアンスとは少し違うような気がした。その笑みの裏に、また一本の蝋燭が見える。白く打たれ強い蝋燭。なかなか火の灯らない蝋燭。やはり、ただでは溶けてくれないらしい。何か別の手を、と考え、私は数日前、アドレナリンと別れるときに、冗談だよ、と言ったことを思い出した。
「別に、私はそんなこと思ってないよ。第一、私とあの方は、いうなれば、保育園の先生と、園児の親みたいなもので、本当は携帯の連絡先だってするような仲ではなかったはずだから」
なら私は大学生にもなって二人の間では保育園の園児か、などと思ったがそれはさておき、先のキヨミの考えもわからなくはない。確かに事実として本来はそういう関係であったし、連絡先を入手したのだってほとんど偶然と言ってもいい。だがしかし、他者優先的なこの二人がその事実を事実のまま放置しておいてもよいのだろうか。事実はありのまま受け止めるばかりが真実ではない。事実を自分なりに解釈し、分析し、それを活用しようという熱意を得てこそ、事実が真実となりうるのではないだろうか。寧ろ今の彼らに足りないのは、事実を自分なりに解釈することに対しての、純粋な熱意なのではないだろうか。そしてその熱意の欠乏故に、キヨミはいつまで経っても、変形しない蝋燭のままなのではないだろうか。
「それは嘘だ」
気づくと私は自分の理屈でそんなことを口走っていた。キヨミが首をかしげて「何?」とこちらに詰め寄る。私は彼女の目をしかと見つめた。
「それは嘘だよ、キヨミ。あんたは本当は、もう一回、アドレナリンに会いたいんだ。もしかしたら一回じゃないかもしれない。いや一回じゃ足りない。きっと何度も会って何度も話して、あいつのことが知りたくなったんだろう。あまり知らないから。よく知らないからこそ、あいつに近づきたくて、でも近づくきっかけがなくて、連絡先を持っているけれども突然連絡したら迷惑だろうか、なんて考えて結局事実をありのままに受け止めてるだけなんだよ。本当は、そうじゃないのに」
言葉が妙に力強くなってしまっているのに気付いて私はそこで一端口を噤んだ。まくしたてる私にキヨミは反論もせず、ただ目をぱちぱちと瞬かせていた。その様子に私の先ほどまでの急激な自信が突如としてぐらり、と揺らぐ。おや、という言葉が、どこか遠い場所から冷たく脳裏にこだまする。もしかしたら、間違っていたのは私の方ではないのか。冷静に考えてみればキヨミの先ほどの言葉は事実を述べているだけであってその裏に感情が隠されているとは限らない。それなのに、何を根拠として私はキヨミを追い詰めようとしているのだろう。勝手に決めつけて、勝手にキヨミを判断しているのは私の方だ。
ごめん、と私は首を下げて謝った。キヨミは黙って私を見ていた。数秒、私たちの間から言葉が消えた。動くはずもない胸像や人物画の目がちょうど部屋の中心にいる私たちを静かに映していた。そこで私は、ふと、ああ、もしかしたら私は彼らに憧れを持っているのかもしれないな、と唐突に思い当った。高いところから私たちを見下ろしてくる、まるで意思を持たない、呼吸すらしない彼ら。人とは対極にあるモノ。もちろん感情なんてものは存在せずにただただあるがまま、されるがままになる存在。私はそれに憧れている。なぜか。それは私が人間であり、決して私が彼らにはなりえないからだ。彼らになれないなら、私は彼らを愛している。彼らをまるで人間のように感じ彼らを独りよがりに作り続けたいと願う。私にとっては彼らこそが全てで彼らこそが私なのだ。彼らを作り彼らを見ることが、私にとっての至高。それなのに、こんなところでキヨミを追い詰めて、一体何をやっているのだろう、私は。
「あの、あのね」
突如としてほとぼりが冷めきった私にキヨミはおどおどしながら声をかけた。そこで私ははっと我に返り、また脳裏で、おや、という声を聞いた。珍しく、いつもは一様なキヨミの呼吸が乱れていた。それは前期初めて私がアドレナリンと共に部室を訪れた日、彼女が私たちを見て息を詰めたのと同じような感じだった。
「謝らなくていいよ。寧ろありがとう。謝るのは、私の方、だよ」
どういうことか、と私は一瞬目の前のキヨミにまごついた。キヨミは綿のようにふんわりしたつかみどころがなく、それでいながら柔らかい笑顔で私を見つめた。寒いとも暑いともつかない初秋の空気に溶けて消えそうなその笑顔は、いつもの落ち着き計らったものを感じさせながらも、どこか儚く不安定にさえ見えた。
私はそれで、今度こそキヨミが何を言いたいのか分かった。そのために、私はその笑顔の主が、人間的な呼吸をしているにも関わらず、物に徹しようと演技しているようにしか見えなくなってしまった。彼女にもあった。蝋燭に火を灯すきっかけが、こんなに細々と、見えにくい場所にあった。気付けなかったのは、こうして彼女が意思表示をすることが、普段めったにないからだ。少しばかり、言いようのない感情が私の中で渦を巻いた。おや、という声が頭の中で何度もこだまする。計算高い頭が勝手によからぬ悪戯を考えていく。どうすれば火種を燃やせるかを、誰にも気づかれないようにしながら考え始めている。
「そういえばさ、今度、年末制作会の準備があるでしょう」
とりとめのない私の思考を汲んだのか否か、キヨミが極端に明るい声で手を叩いた。私はまだ動揺が収まらなかったがあえて思考を中断してキヨミのそれに、ああ、といつもの調子で答えた。
年末制作会というのは美術部で毎年後期に行われる二か月間の集団制作会のことだ。先輩たちが以前部室でしていた話によると、どうやら各々好きなものを持ち寄ってそれを題材に制作をする、という会らしい。ジャンルや素材、どんなものを作るかは本人の自由。共同作業も可能であるが、参加する場合は必ず一人一つは仕上げることが条件だ。早く制作ができれば、十一月にある大学祭の展覧会にも展示できるという。部室に置かれている大作のうちのほとんどが、この年末制作会のために作られ、置き場所に困ったから持ち帰られずにそのまま置き去りにされたものだと聞いたこともある。あのヘンデルやペリクレスも、そのうちの一つらしい。
利き手が使えるようになって部で初めての作業が年末制作会の準備とは何とも大層なことだと思ったが、ある程度学科の勉強を積めばそれほど苦でもないだろうか。それより問題は、何を作るかをまだ考えていないことにあった。年末制作会の準備は来週にまで迫ってきている。準備では制作の大方のイメージを固めるために、概要と素材を持ち寄って討論するということになっていた。それに参加しなくても制作自体は一人でできるのだが、せっかく入部したのだから他の人の制作過程の一部を見てみたいという気持ちもあった。だが何も思い浮かばないのでは準備会に出るかどうか以前の問題だ。
「で、何をつくるの? 準備会には、もちろん出るんでしょう」
キヨミの質問はちょうど痛いところを突いてきた。落ち着き払ってはいるが、何やら光を宿した目だった。日々美術のことしか頭にない私のことだから、よほど凝ったものを作るのだろうという期待がありありと見えた。彼女にそうさせているのは先ほど私が口走った妙な話題のせいもあるかもしれない。普段の彼女であれば、こんな風に誰かに期待の眼差しを向けるなどということはまずない。せいぜい、話題をこちらが振った時に何をつくるのか、聞く程度に留める。準備会には出るでしょう、などと自分の憶測で物事を言ったりはしない。
さて、どうしたものか、と考えて、私にある考えが閃いた。私は顔の前で人差し指を立ててキヨミに見せた。キヨミが頭に疑問符を浮かべて首をかしげる。私はニッと口角を釣り上げる。
「内緒。準備会に来てからのお楽しみ」
何それ、と笑ってキヨミは口元に手を当てた。私は、まあまだ考えてないだけさ、と冗談めかして両手を広げ、その笑いに種明かしをした。キヨミはもう一度息を乱して笑った。もう、と嬉しそうに私の肩を叩くのがたまらなく心地よかった。
もちろん、キヨミに言った、考えてないだけ、という言葉は、真っ赤な嘘だ。その時私には、既に策があった。