逆説的な持続
一年の前期が終わる頃、私の右手足の包帯がようやく外れた。相変わらず医者には行かなかったが、事故の翌日同様、アドレナリンが代わりに手と足を触診し、もう大丈夫だろう、と太鼓判を押したのだった。私は夏休み中に自宅に戻り、何度もリハビリを重ねて、衰えてしまった筋力の回復に努めた。そのおかげで、後期が始まる前には自分で歩けるようになったし、右手で絵も描けるようになった。私は前期の間世話になっていたアドレナリン宅から、晴れて一人の生活にに帰ることを許されたのである。
「悪いことを、したね」
別れ際の玄関口で、アドレナリンは私にそう謝った。私は黙ってアドレナリンを見返した。アドレナリンはなんのリアクションも示さない私に対し、不思議そうに首を傾げた。
「どしたの」
「あんた、これだけ私の面倒をみておいて、最後に出てくるのが悪かった、とはどういうことだ」
腑に落ちなかった。あろうことか、アドレナリンは私の介助をするために一年前期の講義を棒に振った。それで尚も謝ることしかせず、私としては一体何を考えているのか分からなかった。
「馬鹿野郎」
思わずまた、そんな言葉が口を突いて出る。お前は本当にこれでよかったのか、と問いたくなったが、さすがに別れ際までそんなことを引きずっていては、余計に彼を追いつめてしまうだろうか、と気付いて後ろめたさを隠すことにした。そうだ、この数カ月で私も彼に対しての接し方を変えることを学んだのだ。それで何も、この時になって最初の不安を思い出す必要なんてない。自分で自分に言い聞かせながら、私は彼の表情を伺った。思わぬ私の反応に、アドレナリンは何を言えばいいのか分からない様子で「あ、と」と口籠った。こういう時の反応は、最初に会った時から変わらないな、などと思いながら、私は息を漏らして苦笑した。
「冗談だ。そういう反応をするから私に馬鹿野郎、などと言われる。そのくらいいつもの察しの良さで気付け」
何を言われているのか分からないような顔をしつつ、アドレナリンは私の苦笑にちょっと嬉しそうに笑った。
「何だ」
「いや、君も、そういう冗談を言うようになったのか、と思って」
前はただ、厳しいことしか言わなかったから。アドレナリンはそう言って私に笑いかけた。そもそもこれは後ろ暗い本心を冗談にして無理に隠しただけなのだが、それでもアドレナリンには効果があったらしい。それならそれで別にいいか、などと考えながら、私はバッグを掛けた左腕と反対の方の手、治った右手を上げてアドレナリンに背を向けた。
「行くの?」
「ああ、もう会いたくないな、あんたとは。きっと会うとまた碌な事がないだろうから。今まで世話になったよ」
「そうだね」とアドレナリンが背後で苦笑いを漏らして片手を上げるのが分かった。私は「それじゃ」と短く言い捨てて、踝を返した。もうこれできっと彼に会うことはないだろう。例えキャンパスのどこかですれ違ったとしても、その時は、ただああ、アドレナリンだ、としか思わず、声をかけることもなく通り過ぎるだけだろう。私が彼をアドレナリンと呼ぶことは、きっともうない。三ヶ月間もの間、一つ屋根の下で暮らしておきながら、あとあとになればもう知り合い程度。呆気ないものではあるが、元より何の関係もなかったのだからただまた最初の頃に戻るだけと考えればいい。アドレナリンには感謝こそすれ、好感らしきものはこの別れの段階に至っても何も浮かばなかった。呆気ないとは思ったが寂しいとは思わなかった。それはアドレナリンがまいた事故を根に持っていたからというより、この三カ月、本当にアドレナリンが私につき切りで面倒をみていたからだった。逆説的に聞こえるが、尽くされれば尽くされるほどに私はアドレナリンから早く逃れたくなって仕方がなかった。だから別れ際に悪かった、と言われたのにも、わざわざ冗談だと返さなくてはならなかった。そうでなければ、私は危うく、恩を仇で返してしまいそうな気がした。本心では、早く自分の生活に戻り、アドレナリンとは、きれいさっぱり関係を終わらせたかった。故に私は、ほとんど清々した気分で自宅までの道を歩いていた。これでまた、何事もなく美術に打ち込めると。これでもう、あの宗教家みたいな男に会って変に気兼ねをする必要もないのだと、そう思いながら。
さて、君よ、私がその時考えた未来が、現実になるのは果たしていつになんだろうな。