蝋燭のような人物
暫く部室に通ううちに、私はキヨミとよく喋るようになった。そもそも私にはあまり友人らしい友人がいなかったから、逆を言えばキヨミくらいしか喋れる人物がいなかった。その会話で、私は徐々にキヨミにアドレナリンと似たものを感じ始めるようになっていった。キヨミは私の欲しがるものは何でも部室から取ってこようとした。あるときは粘土板を、またあるときは大工道具を、作品の作れない私は暇つぶしに探して回ろうとしたのだが、車椅子のタイヤ止めを外そうとすると、すぐにキヨミがやってきて欲しいものを取ってきてくれるのだった。キヨミとアドレナリンは、他者優先的であるという点で非常によく似通っていた。彼らが私以外の誰かと接していてもそのような態度になるのかどうかは分からなかったが、少なくとも二人とも私の前では似たように私にしたいことを尋ね、似たように私の注文通りに行動するのだった。アドレナリンに至ってはそれが私生活にさえ及んでいる。正直、ありがたかったと思うし二人がいなかったらおそらく私はただ大学を休学して、半期を無駄に過ごしていただろうから彼らには感謝して模し尽くせないほどの恩があるはずだった。二人は私にとって、かけがえのない存在であると言ってもいい。それはいつ二人の行動を顧みたとしても、確かで変わらない事であろう。
だが同時に私は、彼らの行動に引っかかりを感じなかったと言えば嘘になる、ということが分かっていた。私は彼らのあまりに他者優先的な行動に様々な意味で戸惑いを感じざるを得なかった。彼らはまるで罪や捌きや批難や怒り、その他考えうる負の感情を、何もかも許し、包み込み、ともすれば愛せさえしてしまう、どこかの宗教家のような落ち着きがあった。二人の呼吸は乱れることはなく、一様に静かだった。私はそれが逆に気になったのだった。こんなに感情らしい感情を包み隠して生きている人間がいるものなのだろうかと不思議でならなかった。また、そうした包み隠しの態度に、どこか違和感を覚え、それを引っぺがしてやりたくなる欲求もたまに鎌首をもたげた。しかし先にも言ったように、私はアドレナリンに生活介護を請けして貰っているし、キヨミに部室での世話をしてもらっている手前、その違和感と生じた欲求を不躾に押し付けることが何となく躊躇われた。故に私は、右手足が治るまでは、せめてその欲求を押さえなくてはならないだろうと考え、キヨミとアドレナリンに頼り切っていた。
そうした他者優先の精神のためなのか、はたまた元々持ち合わせていた気質が良かったのかはわからないが、キヨミは部内でも気立てがいいと評判だった。彼女のいないところで男性の先輩が話をしているのを何度か耳にしたことがある。キヨミは言われたことにはきちんと従い、それとなく相手のしたいことを察して動いてくれるいい子である、出来ることならああいう子を妻に持ちたいものだ、と彼らは語っていた。だが誰もがキヨミと釣り合いそうにない感情的で野蛮そうな輩ばかりだった。おそらく彼らもそれが自身で分かっていたからキヨミに手を出さなかったのだろう。キヨミにはどこか、そういう良い人であるからこそ他人を無意識に遠慮させてしまうような雰囲気が漂っていた。いうなれば彼女は性格からも、その白い肌から連想しても、儚く可憐で細い蝋燭のような人物だった。普段は固くその慎ましい態度を守り、静かに、真っ直ぐに立つ一本の蝋燭。きちんと伸びた背筋はどこか脆そうな気品さえあるが、意外にも芯が丈夫で押しても簡単には折れない。それが形を変えるのは、おそらく頭に火をともした時だけだ。おそらくいつかはその蝋燭にも誰かが火をつける。なかなか溶けない蝋を溶かして、形を変えてしまう人物が現れる。キヨミがもし異性と付き合うことになるのなら、それはいったいどのような人物なのだろう。私は腕が治るまでの数カ月、部内で彼女の話題になる度に、何となくそう思いながら手元にある紙に左手で線を描いていた。