友好的な介護
翌朝から大学の講義が始まった。アドレナリンは私の思惑を察して車椅子を手配し、危惧していた通りその日から付きっきりで私の移動に付き合った。行く先々で構内の人々はアドレナリンに車椅子を押される私を何となく気にしたり、無理矢理意識の外に追い出そうと視線を逸らしたりした。お陰で私はその日一日アドレナリン以外の誰とも会話することなく平和に過ごした。一度事件のことを聞かれたら、私もアドレナリンも返答に困ったであろうから、逆に丁度よかった。口下手に甘んじて事前に友人を作らなかったことがこんなところで役に立つとは思っていなかっただけに、奇妙ではあるがありがたい誤算だった。
それから数日、アドレナリンと行動を共にして、私は自分のしたいようにするのがアドレナリンに対しても良いことなのではないかと思い始めた。彼は事あるごとに私に意思を尋ねてきた。次の教室はどこか。昼食はどこで食べたいか。空きコマに行きたい場所はないか。ノートは取りにくくないか。私はアドレナリンに好きなように動けばいい、と言ったが、彼は聞かなかった。彼があまりにも断固として私の意思を尊重しようとするものだから、私もそのうちだんだんこれは自省をした方がいいのではないか、と訝しく思ったのだが、そんな私の戸惑いに関係なく、アドレナリンはひたすらに好意と彼が考えていることを私に振りまくだけだった。何かが違う、と思ってはいたが、迷惑ではなかったし、何を言っても今は自分で行動できないので結局それに身を任せるしかなかった。「君は好きにすればいいんだ」というのが、アドレナリンの口癖になった。私はそれに、いつも決まって「馬鹿野郎」と答えた。
アドレナリンと過ごして一週間経った頃、私の元に一通のメールが届いた。差出人は、キヨミ。一瞬誰かと思ったが、数秒してからあの美術部の新入生歓迎会で儀式的なアドレス交換をした彼女だと思い出した。彼女とは、あの日会って以来何の連絡も取り合っていない。このタイミングで何の知らせだろうか。
メールを開くと女の子らしい可愛い絵文字をたくさんあしらった文面が現れた。見た目の印象はそんなに派手な方ではなかったが彼女はこういうメールを書くのか、と感心しながら文字を追っていくと、どうやら近いうちに部会が行われる、とのことらしい。だが、さすがにこの体で部会に邪魔するのは気が引ける。おそらく文字通り邪魔にしかならない。しかも部会は昼休みだそうなので、行くにしても移動自体が難義だ。昼休みの前後に授業が入っていることも鑑みると、尚更行ける気がしない。しかし見たこともないまま入部してしまった部の活動場所には興味をそそられた。部室の空気やどんな画材が置かれているのかが気になるし、何より私の未知に対する純粋な好奇心が、部室を見たがっていた。誘われたのであれば、その熱意は尚更に燃え上がった。
私は少し考えてそのメールに「部会には行けないが、部室の雰囲気が見たいので、放課後部室にお邪魔させていただくことにする」と返事を書きこんで送った。キヨミが部会に来られない理由をメールで聞き返してきたら面倒だな、と思ったが、数秒の後に来た返信には、わかった、じゃあそのとき部室で待ってるね、部会の内容を教えるよ、としか書かれていなかった。メールで笑顔マークをつけるあたりが何とも純真無垢だ。そういうわけで、私はアドレナリンに頼んで講義が終わった後、部室まで車椅子を押して行って貰うことにした。
その日は五時間目まで授業があった後、アドレナリンに文化部が集まっているサークル棟の方まで連れて行って貰った。サークル棟は一応鉄骨製ではあったが築何年になるか推察することも難しい古くて地味な建物だった。夕方になりかけていたが、多くのサークルはライトを付けずに活動しているらしく、外から見る建物はどこか全体的に薄暗い。美術部の部室はその薄暗い建物の一階の隅にあった。部室までの移動で階段を上り下りする必要がないのはありがたかった。
車椅子の車輪から伝わる振動で廊下に起伏が多いのを感じながら暫く進み、部室に到着した。アルミ製のドアを叩くと中から、「はあい」と線の細い女の声が聞こえた。「この人?」とアドレナリンが私に耳打ちする。私はあまりキヨミの声をよく覚えていなかったが、そうだ、と返した。古めかしいドアが私たちの方にゆったりと動く。中から短く黒い髪を整えた痩せ気味の女性が現れた。キヨミだった。
「あ……」
最初に彼女が発したのは「お久しぶり」でも「良く来たね」でも「お疲れ」でもなく、その漏れるような声だった。彼女は私たちを見て、自分の想像していた光景との違いに少なからず動揺しているようだった。それもそのはず。目の前にはあの日以来会っていない人物が右手足に包帯を巻き、左手に松葉杖を持って車いすに座っている。それに加えて目の前には体格のいい見知らぬ男が立つ。驚かない方がおかしい。
「え、と」
アドレナリンが説明に困ったように顔を背けた。心なしか、照れているようにも見えた。大学が始まり一週間、私以外の人とまともに話す機会がなかったから、ここにきて例の人見知り癖が出たのかもしれない。私は二人の息が詰まるのを感じ、それを何とか打開しようとさも当たり前を装って「やあ、お久しぶり」とキヨミに左手を挙げて挨拶した。キヨミはそれに応えて「え、あ、うん」と頷いた。表情が固い。そういえば飲み会の席で会った時も、最初はこんな風に警戒心が強そうだったな、と思いだした。時間が経ってしまった上に、この状態で現れたから、また壁が出来ているのかもしれない。ここはとりあえず何か話をした方がよさそうだ。
「キヨミ、こちらは体育科で私の友人のアドレナリンだ。ちょっとしたことから知り合いになった。今はこうして一人で動きにくい私の生活介助をしてくれている。部員ではないので美術部に来ることは少ないかもしれないが、仲良くやってくれると嬉しい」
挨拶のテンプレートに当てはめたような台詞が出てきて自分でも内心笑った。が、思いがけずキヨミは「ああ」と納得したように呟いて、アドレナリンを「どうぞ」と迎え入れた。アドレナリンははにかむように笑って「あ、ありがとう」と返し、車椅子のグリップを握って私を部室の中に入れた。
部屋は思ったよりも大分広かった。サークル棟の外観からでは想像できない、高校の教室三つ分くらいの大きさが美術部のスペースだった。右手の本棚にはたくさんの使い古した筆が、水入れ用の小型バケツの中に突っ込んでおかれ、その脇には大きなイーゼルやキャンパスが重なり合うようにして立て掛けられていた。その向かい、すなわち左手側には、部員の作品と思しき石膏造りのヘンデルの胸像。隣にあるのはギリシアの英雄ペリクレス。お馴染みのミロのビーナスやラオコーン像の縮小レプリカはもちろんのこと、中にはゴジラやドラえもん、ポケモンのピカチュウの発泡スチロール人形まである。なるほど、題材は既存の美術作品の贋作のみならず、好きなものを作ってよい、ということなのだろう。自由でのびのびしている、いかにも大学らしい美術部だ。
私が部室の空気に浸ってのんびりしていると、キヨミが「ねえ、あの、そういえば」と声を発した。
「さっきは何となく聞きそびれちゃったけど、その、手と足、大丈夫?」
大丈夫なはずがなかったが私はあえて笑いながら「まあ、何とかなる」と答えておいた。
「アドレナリンがいるから大体生活に困ることはないし。授業だって、利き腕が使えなくてもあいつがノートを取ってくれるおかげで講義をちゃんと聞けている。実技はできないけど見ているだけでも勉強にはなる。特に不自由してるって実感はないよ」
そう、とキヨミはあまり腑に落ちていないように呟いてアドレナリンの方を一瞥した。アドレナリンはきょとんとした顔でキヨミを見返した。彼と目が合うと、キヨミは素早くアドレナリンから顔を背けた。私はまた部室にあるものに吸い寄せられるかのように視線を移していった。棚に押し込められたパレット。長辺で揃えられて事務用品の隙間に収まっている画用紙。そしてそれらを包みこみ室内に立ち込める、透明プラスチックのような油絵の具の匂い。見れば見るほど、いればいるほど、この部屋は私を受け入れてくれるような気がしていた。この部室は、私の理想そのものだった。
「ただまあ」
だからこそ、不意に口をついて、思わず本音が出てしまった。アドレナリンから顔を背けていたキヨミが、私の方を見た。
「暫くここに来られないのは、残念かもね。来ると迷惑になるだろうからさ。これだけいいものがそろっていて、これだけ雑多な空間でいろいろ出来たら。いや、そもそもここにいられるだけでも、きっと楽しいだろうと思うのに」
脳裏にはふと、自分だったらこの部室でどんなものを作るだろうか、という想像が巡り始めていた。この部活には絵画を描く目的で入ったから、まずは時間が許す限りデッサンをするだろうか。あの柔らかい紙の上にラフ画を描く感覚で鉛筆を滑らせる。コンテでもいい。とにかく描き味のいい上質な筆記具と柔らかい紙の間に生ずる摩擦を、利き手から存分に味わいたかった。この部室でデッサンをするのなら、私は手首のスナップを利かせたなだらかな稜線を引き、踊るように白い紙の上を行ったり来たりしては、その延長上に自由に好きなものを描くだろう。意味のあるものか、意味のないものかは関係ない。制作過程の果てに出来たものがどんな評価を受けようとも関係ない。この部室の空気を吸いながら、集中して、視線や腕を静かに紙の上に行き来させる。その行為自体が、私にとっては何よりの魅力なのだ。
「来たいなら、来ていいよ」
想像に浸る私に声をかけたのはキヨミだった。彼女の立つ後ろの方を、私は振り返った。彼女は笑顔でこちらを見ていた。
「せっかくの大学生活だもの。迷惑になるなんて考えずに、好きにやってみたらいいと思う。部活にいる間は、欲しいものとかは、言えば私が取ってくるよ」
でも無理はしないでね、と彼女は付け加えた。不用意に近付くと危ないものがここには結構あるらしい。特に棚の中などは複雑に入り組んでいて塗装用ハケ一つでも抜こうとすればたちまちバランスが崩れて上に積んである物が落ちてきかねないのだと言う。「あと、そちらにいる方も」
次にキヨミはアドレナリンの方をちらと窺う。
「この部活にいる間は、私が彼女のお相手をしますので、どうぞ席を外して下さい。部活が終わったら連絡を差し上げます。その時に、迎えに来ていただければ」
随分丁寧な言い草なのはおそらく彼女がアドレナリンのことを上級生と間違えているからだろう。アドレナリンはそれに気付かずに、あ、はい、どうも、と短く返事をしてやや嬉しそうにほほ笑んだ。そこで私はどうやらアドレナリンのためにも私のためにも部室に来て良いというキヨミの提案を拒絶する理由はなさそうだと感じた。アドレナリンとキヨミはそこでお互いに連絡先を交換し合い、私は次の週から放課後、人の少なそうな時間や、放課後を選んで部室に行くことにした。