お人好しな馬鹿野郎
一時間もしないうちに彼は部屋に戻って来た。手提げの中には洗濯機の中で回っているのと同じくらい膨大な衣服が入れられていた。アドレナリンは足を忍ばせるようにこちらへやってきてその袋をベッドの脇に置き、すぐさまそこを離れた。
「すまない、助かる」
心なさそうなお礼を述べたためかアドレナリンは一つ頷いただけだった。寝返りを打って体勢を変え、左手で手提げ袋の中を漁る。実家から持ってきた着衣全て――上着が五つ、スカートとズボンが二種類ずつ、それに下着とバスタオルがそれぞれ三種類ずつ入っていた。これで暫くはこの家で過ごせる。貴重品は事故に遭った時から持っているため、服が手に入れば生活していく分には問題ないはずだ。生活費はきちんと払う。食べていくには困らない。問題は、他人の家に厄介になっておきながら家事が出来ない事と、大学に行く時にどうするか、ということだ。右半身を怪我してしまったのだから松葉杖では動けない。車椅子を借りる必要があるが、それにしてもアドレナリンの家から大学までは距離があるし、大学に行ったら行ったでどうやって構内を移動するのかという問題もある。また、もし授業に出られたとしても、実技のある科目は全て受けられない。座学でノートを取るにしても利き手と反対の左手で文字を書かなければならない。ここまで条件が悪いと普通は休学を考えるところだが、私としてはそれだけはどうしても嫌だった。受験の前に抱いていた大学への希望、合格への喜び。正当に休むべき理由があったとしても、そこで休学と言う道を取ってしまったらそういう大学に対して抱いていた思いがどんどん薄れて行ってしまうような気がしたからだ。それは同時に美術に対しての諦めであるのではないかとさえ思えた。それを無為にすることなど、私に出来るはずもなかった。
アドレナリンはまた出る前と同じく洗濯機と睨めっこを始めた。もうじき洗濯が終わるのだろう。それまで、彼はやることがないのだ。私も私で体が不自由では何もすることがないのでひたすら横になって考え事をしているしかなかった。そしてその考え事で最も優先すべきだとされたのは、ここからどうやって学校に通うか、どうやってその手段をアドレナリンに求めるか、だった。中でも移動手段と学習に関しては、アドレナリンにどう説得しようとも受け入れられないだろうと思った。私の熱意は私にしか通用しない。私がどんなに彼に学校に行くべきと語ったところで、彼が私の断固とした意思を受け入れてくれる見込みは到底ないだろう。
「あ、あの」
アドレナリンが喋った。考えが中断されたので私は彼の方を見た。
「えと、あの。箪笥以外は、弄ってないから」
何だそんなことか。どうして彼はそんなどうでもいいことを気にするのだろう。もっと他に気にすべきところがあるだろうに。車椅子はどうやって借りるのか、とか、今日の包帯の取り換えはいつごろするのか、とか、金の工面はどうするのか、とか。
「それと、気になることとか、分からないこととか、嫌なこととか、あったら、言って。夕食は何がいいかな。あんまりお腹にもたれないものがいいかな。そうだね、豆腐、とかどう」
「とりあえず鍵を返してもらおうか」
あ、とアドレナリンが呟き背後を振り返ってズボンのポケットを探る。私に鍵を手渡す。金属質の涼やかな音が私たちの間を揺れ動いた。ごめん、と謝るアドレナリン。私はそれに、別に、と返す。
「明日から学校だな」
遠まわしに何でもないみたいにそう言って、今まで考えていたことを何とかして表に出そうとした。アドレナリンは、え、ああそうだね、意図を測りかねているようにそれに応じた。
「君は、休学するのかい。休学届、出して、こようか」
沈黙した。こう来るであることは予想済みだったのに、実際アドレナリンの口からその言葉が出ると断固とした強い意志があったにも拘らずなぜかそれにどう反応していいのか分からなくなった。いや、と言えばいいのか。学校に行きたい、と素直にいえばいいのか。私は返答に困った。
「あ、と」
私の沈黙を受けてアドレナリンも困っているようだった。一言何か紡ごうとガムを噛むように口をもごもごと動かす。
「学校、行きたい、の?」
はっと顔を挙げて彼を見る。同時に一瞬だけ、鋭いな、と思ってしまった。その表情を汲みとって、突然アドレナリンの顔に明るさが灯る。
「そうか。行きたいんだね。じゃあ、行こう、明日、学校に。車椅子、借りるよ。大学まで、ちょっと、距離があるけど、少し早く出れば、一限にだって、間に合う」
「おい、ちょっと待ってくれ」
笑顔で一人勝手にとんとん拍子に話を進めるアドレナリンに、私は片手を挙げて待ったをかけた。
「私が学校に行ったら、お前はどうするんだ。まさか付き切りで見るなんて言い出すんじゃないだろうな」
危惧しているのはそこだった。アドレナリンは確かに事故の加害者ではあるが、だからといって私の面倒を一切合財見る責任なんてないはずだった。私が大学に行きたかろうと行きたくなかろうと、彼は自分の生活を優先すべきだし自分の勉学を優先すべきだ。この大学で体育科に入った以上は、おそらく私の美術に対する執着と同じように、今まで何もかも犠牲にして運動に打ち込んできたに違いない。にもかかわらず、それを高々数日前に事故を起こしたから、という理由だけで全て棒に振るなんて、お人好しにもほどがあるし、私から見れば馬鹿げている。
「君は」
まるで何も聞こえなかった、とでもいうかのようにアドレナリンが口を割った。彼は言葉にたっぷり間を取って、とても大事なことを言うかのように、私の目をしかと見た。
「人に対して、本気で申し訳ないって、思ったこと、ある」
「はあ?」
話が知らない間に二転三転する会話に、頭が混乱して言いたいことが分からない。アドレナリンは言葉の使い方を間違えているのではないかと思うほどに、会話の応答に、自分の考えを述べる。私はその言動に若干の違和感を覚えた。だが彼はまだこちらを見つめたままに、地に足のついて落ち着き払った様子で言った。
「相手に、本気で、申し訳ない、と思ったら、その人には、何でも、してあげたくなる、と、僕は、思う」
瞳を軽く潤ませて、床の方へ目をやる。訳が分からない。私はだから、それがどうした、と言ってやりたい気分だった。彼は私を憐れんでいるのだ、とでも言うのだろうか。ただ、無条件に物を与えるその恐ろしいまでの他者優先の姿勢は、どこか宗教家のような不気味な感じさえした。彼の今の呼吸は、おそらく誰かのため、と言って働き続ける者たちと同じであった。好意と言うよりは、自分が何かをしなくてはならないという使命感。何かを成し遂げなくては、と思う時に湧きあがる義務感。そういう感情とも理屈とも分からぬものが、この時、彼の発した「本気で、申し訳ない、と思ったら」と言う言葉に、怨念のように深く染みついているように感じられた。私はひどく不愉快な気分になった。それはアドレナリンが、この言葉を本当はどういう意味で使っているのかがわからなかったからだった。ただただ不気味に呪いのように発せられた一言に、強烈な違和感を覚えつつも、それに反論することが出来なかった。逆差別されているような気分、というのはこういうことをいうのだろうか。
「馬鹿野郎」
私が放った空虚で鋭利な一言は洗濯終了の電子音にかき消された。アドレナリンは、気にしなくてもいいよ、などと平気な顔をして言ってのけた。