悔し紛れな義務感
その日は制作会に使う画材を買い求めに二駅先の繁華街まで足を運んでいた。普段画材は近場のショッピングモールのテナント点で揃えているのだが、今度の年末制作会では前年度の作品を上回るものを作り上げるべく特に材料に力を入れると決めていたからである。今年の年末制作会の題材は架空の動物、海の獣の絵画。前作がアドレナリンのトルソ、と極めて現実的・具体的であったのに対し、今回は想像力をフルに生かし、架空生物と抽象性の魅力を押し出すコンセプトで制作するつもりだった。画材はアクリル絵具と筆。特に絵具の方は獣の周囲に漂う海の生き物の色、光の当て具合によって変化をする水の透明度をより幻想的に見せるための青色が必要で、そのために店を何軒も訪れて一番いいのを買うことにした。他の色は手持ちの分でも表現可能だったが、どうしてもその、理想の青だけがなかなか見つからなかった。
そして巡り巡って五件目の店を出た時だった。そろそろ足も疲れていい加減、歩くのも大変になってきた。日も沈みかけて夕焼けの繁華街にはネオンライトが灯り始めている。徐々に町全体が昼間にはない人工的で派手な色を帯びてくる。建物のガラス窓は各々外からやってくる光を反射して、その内側から新たな光を灯らせる。幾重にも交差し合う光は闇の中に浮かび上がって町全体をごく浅く色づけていく。
ここまで来て理想の絵具が見当たらないのはやや残念ではあったが、私は夜の街を歩くのが好きではなかった。街灯の光があろうと建物の光があろうと、夜はどこかに必ず寂しさを含んで太陽と人を引き離す。ましてや繁華街など、薄暗くて歩きにくい場所で妙な輩に絡まれでもしたら面倒だ。慣れない道であるため早めに帰路につくのがよかろう。そう考えて、店から駅の方にまっすぐ歩いて行こうとした。だがその直後、逆側の歩道から、女と共に長身の男が歩いてくるのが見えた。おや、という声が頭の中で聞こえた。私は不意に足を止めた。
どこかで見たような、と思うまでもなかった。男の癖に覇気のない円らな瞳。毛足が長くぼさぼさした髪。そして何より、その冴えない顔に全く似あわない体の大きさと、異様に盛り上がった肩の筋肉。間違えるはずもなかった。それは紛れもなく、アドレナリンだった。だが一瞬浮かんだ、なぜこんなところに、という疑問は、直後に沸いた別の違和感に打ち消された。アドレナリンの隣にいる女性、その姿背格好が、私の知っている、アドレナリンの隣にいるべき女性のシルエットではなかった。背はアドレナリンよりもやや低め、髪は見たこともないような栗毛色のツーサイドアップ。黒髪の短髪でシンプルながら気品のあるキヨミとは、似ても似つかない、可愛らしいがどこか棘を隠している印象のある女性。アドレナリンに可愛い笑顔で笑いかけ、挙動はどこか、蝶の羽ばたきを思わせるようにひらひらと覚束ない。酔っているのとは違う、浮足立った女性特有の足取り。私は目を見開いた。誰だ、あの女は。
私は何だか妙な胸騒ぎを感じた。買った画材が入った紙袋を掴む手に、思わず力がこもった。その女性は少なくとも私の知りえるアドレナリンの行動範囲内では見たことがなかった。だがアドレナリンはその女性と並んで歩きながら、いつものようににこやかに微笑んで息を乱さず会話を続けている。どういうことだ、と頭の中で声がする。二人は私に気付かず、逆側の歩道を歩き、通り過ぎていく。私は混乱したまま、呆然と、アドレナリンは、今もキヨミと付き合っているのではないか、と首を捻った。私の知らない間に彼らが破局を迎えていたとしても、あれだけいろいろあった仲で、何の連絡もなくなるものなのだろうか。というより、アドレナリンとキヨミがうまくいっていない、ということ自体が想像できない。確かにアドレナリンがキヨミのことを気に入っている、というのは私が冗談半分についた嘘だったが、私はキヨミがアドレナリンと付き合っているという話を、本人から直接聞いた。万が一、アドレナリンがキヨミを気に入っていなかったとしても、それでキヨミが私に、アドレナリンと付き合うことになった、という嘘をついて得することは何もない。また、付き合っているのであればキヨミはアドレナリンのことを気にかけ、アドレナリンはキヨミのことを気に掛けるはずだ。お互いがお互いに感情のままに動いている、という姿は、この二人からは最も考えられない光景だった。無理はしないが無理を強制しないのが、アドレナリンとキヨミの似ているところだった。だからあの二人の間に、こうした別の人物との光景を見るなどということは、全く予期せぬことだった。キヨミが私に嘘をついていたという可能性はほとんどないとみてよいだろう。アドレナリンがキヨミを嫌いになる、なんてこともまずない。だとしたら、考えられるのは、アドレナリンとキヨミが別れたか、あるいは――
私は道路を挟んで反対側を過ぎていくアドレナリンと女性を一度見送り、少し距離を置いて密かに背後から跡をつけることにした。アドレナリンは女性との会話に夢中なのか、幸いなことに、私が尾行していることに気づいていない様子だった。それから暫く二人の間では中身のない会話が繰り返されていた。主に脇にいる女性が一方的に何かの愚痴を言っていて、アドレナリンがそれに笑いかけているというやりとりだった。予想通りその会話でアドレナリンはキヨミのことについて全く触れなかった。それどころか彼は、自分からその脇の女性に話題を振るということがほとんどなかった。
夜の街を二人の男女の尾行としてこそこそ歩くのはさすがに良い気分ではなかった。そろそろ何か進展がないだろうか、と思った頃に、次第に彼らの取る道の進路がそういう方向になってきた。夜の繁華街、その路地裏。ネオンの花が咲き乱れる怪しく美しい通りに、派手な格好をした女性や、スーツ姿の中年男性がそこら中を歩き始めている。さらについていくと、とある曲がり角を曲がった先に、突如として無駄に光の多い夜の街の風景が、そこに広がっていた。高らかな笑い声を上げる茶髪の若者や、客引きに明るい看板の前に立つ男性。テレビでしか見たことのないようなピンクやら白やらの蛍光色の服を纏った水商売らしき女性のグループ。建物も全てネオンで装飾されていて、目立たない店は一軒として存在しない。
こんなところ、私は来たこともなければ来たいと思ったこともなかった。アドレナリンの手を引いていた一匹の蝶は彼を連れてひらひらとその街を飛びんでいく。距離を置いていたが、私はその光景を、その決定的瞬間を、この目で見た。男を連れた蝶は躊躇うことなく私の見ることも適わぬ光の中へと消えていった。その光はあまりに眩しかった。白熱灯の下に照らし出され、周囲とはどこか違う、落ち着きながらも洒落た雰囲気を醸し出している店だった。だがその美しさは決して褒められたものではなかった。美術専攻の私が言うのだから、間違いない。外見は如何にシックなつくりを演出しようとも、場所が場所、内容が内容。センスの欠片もないような人工的な花の下に、ネオンの街に、下世話で甘い蜜を求めて這い回る虫たちの、一夜ばかりの憩いの場に過ぎない。その店も、実態はそういう輩の溜り場だ。ついてなど行くべきでもないし行く気にもならない。
気分が悪くなって、私は彼らがその方向へ消えたのを確認したあと、すぐに来た道を引き返した。酷い吐き気と嫌悪感が私を苛み、胸や頭がおぞましく荒れ狂う炎で焼かれているかのようだった。何が何だか分からない。冷静になれ、と言い聞かせれば言い聞かせるほど、どこかでこれが落ち着いていられるはずもない、という声がする。息苦しさのやり場を腕に力を入れると、先ほど握りしめていた画材の紙袋があるのに気付いた。そこで私はようやく、そうだ画材を買いに来て帰る途中だったのだ、と思い出した。買い終えた画材道具が唯一私の味方だった。彼らを胸に抱き、深呼吸をすると、アルミ容器と紙袋の無機質で冷たい香りに徐々に心が落ち着きを取り戻した。私は再び帰路につき、そのあとひたすらに粛々と家までの道を進んだ。道中で、言葉にならない考えを取りまとめているうちに、先ほどの嫌悪感がアドレナリンに対して向いているものだとはっきりと自覚することができた。正確には私はアドレナリンがどうなろうと興味はなかった。だが私はキヨミが先ほどのようなアドレナリンの姿を見て傷つくのをとても恐れていた。そのためには、事実を正しく突き止める必要がある、と考えた。アドレナリンがなぜあの女性と一緒にいるのか。何を考えているのか、それを私は知る必要があるのだ、と一種の義務感が沸き起こった。運の良いことに、次の日は休日だった。私はとりあえず落ち着いてから考えよう、とその日は早めにベッドに入って就寝した。