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行動から出たような噂

 キヨミとアドレナリンはそれからよく一緒に行動するようになったらしい。らしい、というのは、彼らが美術部にいる間以外にも、外部で連絡を取り合って会うようになったのだと、後にキヨミから聞かされたからだ。そうであろうとは思っていたが直接見たわけではないので、私としてはそうであった、という事実を知っているのみである。キヨミとアドレナリンが付き合うことになったと、正式に彼らの口から聞いたのも、年度末制作会が終わってから暫く経った後だった。しかも、その時も私がキヨミに、そうなのか、と聞いたから分かったのであって、彼らが積極的に部内で言いふらしていたわけではない。彼ら自身は彼らの歩みの速度で、彼らなりに満足のいく交際をしていたのだった。

二年に進級してから、キヨミはあまり部室に訪れなくなった。それに追随するように、アドレナリンもまた部室に来ることが少なくなった。私は相変わらず暇さえあれば部室に来ていたが、キヨミとアドレナリンがいなくなった部室はどこか物足りない感じがしていた。一年が経って部員も入れ替わり、去年の自分のように部室に訪れては感嘆の声を漏らす新入生を見ていると、車椅子に乗って初めてアドレナリンと共にここに来てキヨミに驚かれたときのことが、どこか昨日のように懐かしく思い出された。

 ある日いつものように空きコマに絵を描いて過ごしていると、暇を持て余したらしい先輩の一人が部室にやってきた。彼は以前、キヨミのことをいい子だと言っていた男性のうちの一人だった。その人とはあまり部室で顔を合わせた記憶がないので、もしかしたら面と向かって会話するのはそれが初めてだったかもしれない。去年の年末制作会準備会の六人の中にもいなかったような気がする。

「ねえねえ」

 先輩は絵を描いて時間を潰す私に気さくにそう話しかけてきた。ちょうど集中力も切れかけていた私は一端手を止めて、彼の方を見た。話しかけにくいイメージでもあるのか、先輩は私の示した反応にややほっとして話を続けた。

「最近、君と仲良かったあの子、来てないじゃない」

 あの子、というのは、この人の文脈から考えれば、おそらくキヨミのことだろう。この先輩はキヨミのことを気に入っている割には名前も知らないらしい。それでも気に入っていると言えるのか。私が、そうですね、と相槌を打つと先輩はさらに続けた。

「どうしたのかな。何か聞いてない」

 なるほど、確かに気になる子に突然会えなくなりもすればこう尋ねてくるのも道理だろう。だが実際私はキヨミが部室に現れなくなってから彼女のことも、そしてアドレナリンのことも何も聞いていなかった。連絡がないということは上手くいっているのだろう、と思い、わざわざ聞く気も起きなかった。私は先輩に、いえ、特には、と横に首を振って答えた。先輩は残念そうに、そうか、と言った。

「ああ、でも」

 突然の私の呟きに先輩が反応する。私は続けた。

「連絡がないってことは、彼女は元気なんじゃないですかね。何かあったらアドレナリンから一報あるでしょうし、それがないってことは」

「アド……?」

 先輩は首を傾げる。そういえば、この名前が彼のことを示していると知っているのは、私が一年の時によく部室に来ていた人たちだけだった。この先輩は実際アドレナリンと聞いて彼をイメージできるほど、部室には来ていない。

「ほら、あれです。去年の今頃、私の車椅子を押してた、彼」

 あれがアドレナリンです、というと、先輩は、はあ、と言う。この人、自分の興味のある人物以外はほとんど見ていないようだ。おそらく私のこともキヨミを見ていたから視界に入った、というところだろう。だが思いがけず出てきた名前の何かに気づき、先輩は、え、と呟いた。

「待て、待て。なんでそこでその、アドなんとか、って奴が出てくるの。何か彼女と関係あるの」

「関係あるも何も、キヨミとアドレナリンは付き合ってるじゃないですか」

 あれ、これ言ってよかったのか、と思ったときにはもう遅かった。先輩は意味がまるで理解できていないような呆けた顔で、凍り付いていた。そして、ん、え、あれ、と戸惑いを何度か口にして、訝しげに眉を潜めた。それを見て、少し先輩にも、アドレナリンとキヨミにも、申し訳ない気持ちになる。二人はこういうことになるのを恐れて、関係性をあえて隠していたのではないか。彼らの場合は隠していたというより話さなかった、という方が正しいのだろうが、いずれにせよ、もしこれで、次アドレナリンが部室に来た時に、この先輩にキヨミを取られた八つ当たりでもされたら、それは紛れもなく私の責任ということになる。ここは一つ、久しぶりに冗談でした、と嘘をついておくべきなのかもしれない。冗談でした、と笑えば、まだこの人は何だ冗談か、と思ってくれるかもしれない。

 あの、と声を出すと、私と先輩のタイミングが不運にも重なってしまった。何となく、冗談でした、と誤魔化すのを先に言うのも躊躇われたので、私は先輩に先手を譲った。先輩からどうぞ、と手をかざした。

 何でもなかった。ただ、人の話を遮ってまで嘘をつくことに、何となく罪悪感があった、それだけの話だった。しかし私はこのとき先輩に発言を譲ってしまったことを今でも後悔している。先輩の話を遮ってまで、冗談でした、と嘘をつくべきだったと、今尚思っている。だがこの瞬間、この一瞬、私はそんな先のことまで考えられなかった。それは私の決定的な、致命的なミスだった。罪悪感なんて考えずに、ただ嘘をつけばよかっただけなのに、それが出来なかった。甘かった。嘘に妥協は必要ないはずだと、その時の私にはまだ分からなかった。それが私の、最大にして最低の、自分への、他人への、甘さだった。

 じゃあ、失礼して、と先輩は前置いた。でもさっきの話変だよね、と言った。私は、何がです、と問い返した。

「だってさ、そのアドなんとかって人と付き合ってたのって、君だろう?」

「……は?」

 頭が真っ白になった。どういうことになっているのか、先輩の言っていることがさっぱり分からなかった。さらにこの先輩の私の中で思い描いていた人物把握の仕方が、突然ピントを外したようにぼやけ始めた。この人、興味ない人以外は把握していない、というわけではないのか。だが確かによくよく考えてみれば私の車椅子を押していた人という説明で、アドレナリンが誰だかわかったのに、アドレナリンとは誰か、と聞いてきたというのはおかしい気がした。それならば、最初からアドレナリンとは誰なのか、と聞いて来るはずはないのだ。私は混乱した。何が何だか分からなくなった。だから先輩に、ちょっと待ってくださいよ、というしかなかった。

「なんで私とあいつが付き合ってることになってるんです。というかなぜ先輩は今アドレナリンが誰だか分らなかったのにアドレナリンと私が付き合ってる、なんてことを言えるんです」

「いや、それは、そのアド何とか、って言う人と君の車椅子を押してた人の名前と顔が一致しなかっただけだって」

 先輩は急な問い詰めに狼狽したように答える。私は、ああ、と思った。なるほど、話の内容に驚きすぎてその可能性は失念していた。額に手を付き、駄目だ、冷静になれ、と自分に言い聞かせる。少し考える時間が必要な気がした。私は一つ深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとした。だが先輩は無情にも自分の疑問を解くことに精いっぱいのようで、立て続けに質問をする。

「だからおかしいじゃないか。なぜ君と付き合ってるそのアド何とか君が、あの子と付き合っているんだい。彼、二股するような顔にも見えないのに。体育科っていうのは、みんなそんな奴ばっかりなのかい」

 私は大きくため息をついた。

「先輩。先輩は一つ、重大かつ根本的な誤解をしています。私とアドレナリンは元から付き合ってません」

 いかにもうんざりしたようにきっぱり言う。先輩は殊更大仰に驚いた様子で目を丸くした。私はもう一度、ゆっくりと言い直す。

「私とアドレナリンは付き合ってませんよ。アドレナリンが付き合ってるのは、私ではなくキヨミです。彼らは仲がいいです」

私はなぜ先輩がそんな誤解をしているのか逆に驚きたい気分だった。しかしそれ以上に、今は徒労感が勝った。誤解を解くこと以外は何も言う気がしなかった。これで引き下がってくれればありがたいのだがな、と考えている傍から先輩が、でも、でも、と唇を尖らせる。

「だって君たち、すごく仲良さそうだったじゃないか。部室に来るときは毎回一緒だったし、年度末制作会だって、君が題材に選んだのは彼の胴体だったんだろう。そんなの、誰だって付き合ってると思うでしょう。なのになんであれで付き合ってないなんて」

 くどいな、というのが正直な感想だった。要するにこの先輩は、私とアドレナリンが付き合っているということにして自分がキヨミを手に入れたいだけなんだ。また、直接的にそういった考えに結びつかなかったとしても、深層心理ではそういう意識があるから、現実を目の当たりにしてこれほどまでに拒否反応を起こす。典型的な思い込み人間。事実を確かめようともしないで自分の都合のいい方向にだけ物事を解釈し、あとあとその思い込みのせいでとんでもない失態を犯す。そういう人物。ある意味一番性質が悪い。こういう人物は下手に刺激したらストーカーになり得る。

 さて、どうすれば納得させられるだろうか、と私は考えた。できることなら私とアドレナリン、キヨミとアドレナリン、どちらの関係にも不利がないように言い包めたい。そこで、私は先ほどの冗談の嘘を思い出した。すみません、キヨミとアドレナリンが付き合っているなんていうのは冗談ですよ、先輩。しかしこれを言ったとしたら、彼はおそらく今までどおり私とアドレナリンはやっぱり付き合っているのだ、と勘違いし続けることになるだろう。逆はどうだろう。私とアドレナリンが付き合ってない、というのは冗談です、先輩。駄目だ、これでも先輩を誤解させたままになってしまう。それにもし仮にこれがキヨミの耳に入ってしまったら、その時は私とキヨミの関係さえもあらぬ誤解のせいで崩れてしまうかもしれない。では一番無難そうな、アドレナリンと私は付き合っていないが、キヨミもまた彼とは付き合ってはいない、ということにするか。いや、それこそこの先輩にキヨミはまだ誰のものではないと言って勘違いをさせてしまうことになる。無駄に口を滑らせて先輩の意識を過剰に煽ってしまった以上、ここで彼を野放しにするのは危険極まりない。

 私は散々考え抜いた揚句、ここは事実をありのまま言うのが一番適当である、と判断した。先輩はまだ私の言ったことに戸惑い、なんで、なんで、と繰り返していたが、私はとどめ、とばかりに背中を向けてぼそぼそ呟く彼に「全て事実です」と言い放った。

「私に何を言っても仕方ないですよ。もう彼らはあまり部室に来ていませんし、私が彼らの行動を制限する権利なんてありません。彼らは彼らの好きなようにすればいいと、私は思います」

 先輩がひどく眉を歪ませて嫌なものを見る目つきで私を見た。ここに来て私の飄々とした態度に腹が立った、というところだろうか。これは殴られてもおかしくないかな、と思ったがさすがにその行動は問題だと思ったらしく、先輩は、そう、と言い残して部室を後にした。中には私一人が残された。そこで私はあの時嘘をつく罪悪感など気にも留めずに、冗談です、と言い放っていたら、本当にそれは冗談で済んだのかもしれない、と思った。図らずしてアドレナリンとキヨミの関係を他人に言ってしまったことを、私は心の中でキヨミとアドレナリンに詫びた。ただ、この状況下だったら、あの先輩には事実を受け入れさせるのが最も適当だった。そうでなければ、余計に話がややこしくなって、収拾がつかなくなりそうだったのだ。

 それにしても、と考える。先輩は私とアドレナリンが付き合っていると勘違いしていたが、傍目からではそう見えるものなのだろうか。一緒に部室に来ていたのは、単に車椅子を押してもらわなくてはならなかったから、私が題材に彼を選んだのは、単純な美術的興味とキヨミに彼を近づけるためだったからだったのだが、そこに何か勘違いされる要素があっただろうか。私はアドレナリンのことをただのいっぺんも気に入ったことはない。世話になったと思ってはいるが、彼に好感を抱いたり、彼と一緒にいたいと思ったりすることは、全くない。寧ろ、あんな他者優先で没個性的な奴、できることならもう二度と会いたくない。キヨミ辺りはそれを、優しい、と言って気に入っていたようだが、私は彼女のアドレナリンに対するその評価が一体どこに由来するものなのか分からない。もしかしたら、キヨミはキヨミなりに、アドレナリンに求めるものがあるのかもしれない。何しろ彼らは、ずいぶんと似通ったところがあるから、キヨミがアドレナリンを見ていて共感する部分は、そう少なくないのだろう。そしてその共感は、きっと私には理解しがたいものなのだ。

まあ、何であれ、便りがないのはいい便りだな、と考え、目の前の画用紙に向き直る。部室は少し広く感じるものの、ここで紙に鉛筆を滑らせる感覚だけはいつもと同じだった。手首の捻り。指先から伝わる柔らかで繊細な筆致。逞しく、それでいながら光を不規則に反射しては、艶を何度も見せつけて翻る黒鉛。さて、今度はその軌跡で、何を描こうか。答えを返すまでもなく、腕は自然と動き始めた。雑念がふり払われ、作業に意識が埋没していった。

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