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他者優先的な二人

 二週間後の放課後、年末制作会に向けての準備会が執り行われた。私はその日ちゃんと作りたいものを持ってくるのに成功していた。作るものは、木彫りのトルソ。通常、トルソは人間の胴体部分のみを造形した彫刻のことをいうのだが、今回はそれにあえて木彫りで挑戦してみることにした。理由は大理石が趣味で制作するにしてはあまりに高価で学生では手に入りにくいというのと、できることならトルソ特有の周囲との境界をはっきりさせた感じを出さずに、静的でありながらどこか輪郭をぼかして温かみを帯びた作品に仕上げたかったから、というのがある。すなわちそのために私がまず用意したのは作品イメージを固めるための紙とペン。それから学科でも使っている彫刻刀セットとのこぎり。これは学校からの借り物でも良かったのだが使い勝手の関係から四、五年に前から使っている手持ちのもので行くことにした。最初の荒削りのために必要なその他チェーンソー等の重工具はさすがに大学から拝借することにしたが、それが終了した後の細部の表現は、使い慣れた道具の方が手触りなり彫る感覚なりを判断しやすい。用意した角材から彫刻刀を通して伝わる弾力、素材の呼吸。そういったものが、私の手の中にある刃とぶつかり合って一つの作品に形を変えていく。その感覚が、どんな作品を作るにあたっても、実感として必要なのだ。準備であれ使う道具の選択に妥協は許されない。

「やっぱり本場、美術科のこだわりは半端ないな」

 準備会で私が用意したものを皆に説明していくと、先輩の一人がそう口にした。

「毎年、一人か二人はいるんだよ、君みたいなのが。大体美術科だけど。で、趣味の域を超える作品を作っていく。さすが芸術大学なだけあるよなあ」

 そうですね、とキヨミがそれに相槌を打った。この部活は知名度が高い割にあまり人数が多くない。というのも制作費だけで相当な出費になり、新入部員の八割は前期の時点で退部しまうからだった。準備会に来ているのも、私とキヨミ、それを除いては先輩同級生全部合わせて六人。必然的に普段自分からはあまり話さないキヨミにも発言の順番が回ってくる。

「それで、彫刻を作るのは分かったけど、題材は?」

 来た、と思った。美術科としてこれだけこだわり抜いた割に、私はまだ題材については何も言及していなかった。いや、どちらかというとあえて避けていた。誰かに尋ねられるのを待っていたのだった。その質問を投げるのは、本当は誰でも良かったのだったが、私は運よくキヨミがその質問を投げてくれたことにさらに感謝した。私は二週間前、キヨミとやりとりした時と同じようにニヤリと笑って、逆にキヨミに「何だと思う」と問い返した。キヨミは首を捻って考えた。

「トルソってことは、誰かの体、ってことでしょう。でも、さすがに生身の人間ってわけじゃあ、ないだろうし。写真だけ彫り起こせるなら、有名所としてはサン=ピエトロ大聖堂に飾ってある、のベルベデールのトルソの贋作かな」

 キヨミもなかなか面白いところを挙げてくる。寧ろ一般的な美術知識の持ち主の視点からしたら、トルソと聞けば必ずそのあたりが出るのだろうか。だが若輩者の私が、かの有名な美術品の贋作を制作するなど恐れ多くてとても出来たものではない。それにその手のことならわざわざ部活に来てやらなくても、授業でやる。私は私の熱意でこの制作会に一矢投じてみたいだけなのである。いや、と私はキヨミに言い、代わりに部室のドアを指差した。私に注目していたキヨミを除く六名がその方向を見た。キヨミも遅れて自分の背後を振り返る。

 私の指した方向にいたのは、アドレナリンだった。私は彼を題材にするつもりで、この日の都合のいい時間に部室に訪れるように連絡を取っておいたのだった。キヨミが露骨に息を詰まらせたのがわかった。その様子が、少し可愛らしい。「やあ」と私はキヨミに対する笑み半分で彼に声を掛けた。アドレナリンは言葉を詰まらせながら「やあ」とそれに応え、皆の視線を受けてかなり恐縮した様子で、おどおど部室に入ってきた。そしてお久しぶりです、と丁寧に腰を素早く九十度に曲げて部員たちに挨拶した。私は立ち上がって彼に近寄り、そのがっしりとした体躯のほぼ天辺にある、あの異様に盛り上がった肩を叩いた。

「私の題材は、アドレナリンの、この体で。本人の同意を得て、放課後はできる限り彼にモデルとして協力してもらうように言ってあります。暫く連れてきても問題ありませんよね」

 自分でも随分と強硬な手に出たと思う。本当のことを言えば、アドレナリンに会いたくない私は彼を題材にする気なんて毛頭なかった。だがキヨミがアドレナリンに心惹かれていると知ったあの日、唐突にアドレナリンの体ならば私の美的興味をそそる魅力を十分に持ち、かつそれをダシにキヨミに会わせることができるのではないかと閃いたのだった。さらに偶然にも、丁度そのとき私は年末制作会の題材を決めていなかった。作りたいものがあるならばいざ知らず、なかったのであるから手近なものを選ぶ可能性もありうるかもしれない、という気になったのだった。すなわち私がアドレナリンを年末制作会の題材にすることは、いわば、私とキヨミの両方の利害が一致したための結論に過ぎなかった。ありがたいことにアドレナリンに題材になってくれないか、と相談を持ちかけた際、彼も彼で満更でもなさそうだったので、うまく呼び寄せることに成功したのだった。

 部長は、生身の人間を連れてきてそのまま題材にするという大胆な発想に最初はやや戸惑い気味ではあったものの、最終的には本人たちが了解しているならばそれもありだろう、との判断を下し、この案は晴れて承認を得ることができた。私は部長に礼を言い、アドレナリンにじゃあまあよろしく、と告げて席に戻った。それから暫く元通りの年末制作会の話し合いが続いた。準備会はそのあと滞りなく進んだ。終了後、皆が部室から帰って行き、私がその合間にペットボトルにあった茶で咽喉を潤していると、キヨミが何やらそわそわしながら、ねえ、と声を掛けてきた。私は来るであろうと思っていたので、特に驚きはしなかった。

「あの方、本当に、連れてきちゃっても大丈夫だったの」

 やや批難がましい口調だった。アドレナリンのことを心配しているというよりは、どちらかというとなぜ彼を私の前に連れてきたの、というニュアンスに受け取れた。私は、はあ、といかにも何も考えていないようにぶっきらぼうに言った。

「別にいいんじゃない。アドレナリンも、嫌だ、なんて一言も言ってなかったし、部長もオーケーしてくれたし」

 そういう問題じゃ、と言いかけるキヨミの口の前に、私は手をかざした。キヨミが息を詰まらせて目を丸くする。

「何をそんなに焦ってるんだい。いつもの冷静なお嬢さんキヨミはどうした。私はただ、アドレナリンを美術の題材に使いたいと思っただけだろう。純粋なる美への好奇心さ。それの何が悪い」

 キヨミはいかにも何か言いたげにキッとこちらを見つめていたが私は含み笑いを止めることが出来なかった。私がどことなくキヨミに抱いていた印象が今完全に覆ろうとしていた。が、それが逆に愛おしくもあった。面白い。言ったらさすがに彼女でも怒るであろうから思いとどまったが、今のキヨミは最高に嗜虐心をそそる目をしている。私の脳裏に白く透き通る一本の蝋燭が見えた。それが今は、着火によってみるみる溶けていっている。じわりじわりと止まることを忘れて、赤い炎が白い蝋を飲み込んでいく。ぽたぽたと汗を流すように雫を滴らせる白く透明な蝋燭は、何とかいつもの毅然とした姿勢で平静を装うとするが、止まらない。止まれるはずもない。蝋燭はただ蝋燭でしかないのだ。頭に灯された火を、自分で消すことなんてできない。

 暫しキヨミが何か言い返してくるのではないかと静かに、それでいながら本当に悪気がないように虚勢を張って見守っていたが、なかなか彼女は口を動かさなかった。戸惑っているのだろうな、と私は思った。きっと今まで彼女はこんなに感情的になることがなかったのだ。キヨミのことだから他人に焚きつけられても簡単に受け流してきたのだろう。それが運悪く、今回はできなかった。私があのとき先に謝ってしまったから、私を否定しないためにあえて自分の感情を肯定し、曝け出すことになってしまった。そして今は、他者優先が過ぎるために露呈してしまったその感情を、否定もできずに不条理な理屈に絡め取られている。屈辱と不安が入りまじり、どう返せば穏便に事が済むのかを必死で考えている。

 反論してこないキヨミを私は「分かった、分かった」と両手を挙げて解放してあげた。無論、悪びれのない笑顔はそのままだったが、良心が咎めたなどということではない。これ以上彼女の言葉を待っていても仕方がないと思ったのだ。

「何にしたって、私はアドレナリンを連れてくる。それはもう決定事項だし、作るといった以上は揺るがない」

 だがそれ以外は、と言い置いて少し間を空けた。キヨミは相変わらず何も言わないままだった。

「好きにするといい。アドレナリンはキヨミのこと気に入ってるよ。あれは、間違いなく」

 ほとんど捨て台詞同然に重要なことをさらりと言ってのけて、私は逃げるように部室のドアに向かった。素早く部屋を出て、いつもより大げさにドアを閉めた。え、とキヨミが言うのも、その音で無理に聞こえない振りをした。今のは裏の取れていない嘘なので、詳しく状況などを訊かれたら困る。ただ、普段息を乱さないキヨミがあれほどにまで動揺し、アドレナリンに近づくのをためらっているのであれば、私は嘘でも冗談でもついて軽くその思いを本気だと気付かせてみるのも、また一興だろうか、と思ったのだった。

 それに何だかんだ言っても、アドレナリンもまた他者優先的な人物だ。キヨミのような良い女の子に一度でも告白されたら、断れないに決まっている。この先二人がどうなるのかは、キヨミの頑張りとアドレナリンの部室への出現率次第と言ったところだろう。しかし二人がどうなろうと、私はいつも通り、制作に打ち込むだけで、特別なことは何一つしない。私にとっては、自分の手足で学校に来て勉強をし、美術部で制作をすることこそが最も充実した時間だからだ。ただ、他者優先的なあの二人が面白い化学反応を起こしてくれるのであれば、それを見るのもまた一興かもしれない。私はそんなことを考えながらアドレナリンのトルソの構想を練り、制作会の始動を首を長くして待つことにした。

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