サイノウナイノウ
ワードで2ページの超短編です
カラカラと、年季が入り正常な機能を失いつつある引き戸が音をたてる。
大津は氷上に舞うスケート選手のように、指先まで神経を張りつめ、店内へと足を踏み入れた。
むせ返るような駄菓子の匂い。
乱雑だがどこか奇妙な調和を生み出す配置。
どれだけ時が経とうとも、変わることのない品揃え。
奥の座敷に座っているおばあちゃんは、いつまで経ってもおばあちゃんだ。
いつ来てもこの空間だけが世界から切り離されているような錯覚を覚える。
大津の全身からとめどなく吹き出す汗の量は、店内の平穏を扇風機だけで保とうとしている無謀さだけが原因ではなかった。
大津は覚悟を決める。これが、最後のチャンスだと。
――いったい、何の?
決まっている。ヒーローになるためだ。
かつて大津が大津少年だった頃、この駄菓子屋でたった一度だけ目にした奇跡。
大津はあの光景を今でも昨日のことのように覚えている。
店の向かいの塀に腰掛け、下界を見下ろしながら二百円分のお菓子を確認し、今日の組み合わせは絶妙だったと一人で悦に入っていると、一人の少年が店内に入っていった。
駄菓子屋ではごく当たり前の光景なので、さして気にも留めずに戦果をむさぼっていると、瞬間、店内が不思議な光を放った。寸刻の間をおいて店内から出てきた少年は、先ほどまでは無かったはずの傷をいくつも負っていた。さらに少年の醸し出す雰囲気と精悍な顔つきからは、まるでひとつの大冒険を乗り越えたあとのような多大な成長が見て取れた。
その時、大津は察した。
あの駄菓子屋には何か秘密が隠されている。
恐らくそれは異世界に繋がるための入り口であり、世界を闇から守るための戦いが待っていると。
そしてあの駄菓子屋のおばあちゃんこそ、ヒーローとなりうる人物を選ぶ賢者なのだと。
以来、自らをマー君と呼んでいたのが僕になり、僕が途中オラに寄り道してまた僕になり、気恥ずかしさを乗り越えてやっとなった俺が時折ワタシやジブンになってからも、大津は足繁く通った。
だが、おばあちゃんからのお呼びは一向にかからなかった。
気がつけば、大津は三十五歳になっていた。
そしてこの夏、仕事で転勤が急遽決定した。
ここに来るのも今日が最後になってしまった。
だから、今日を逃すワケにはいかない。
――さあ、ばあちゃん。俺を選んでくれよ。
かつてない緊張を抱えながら、店内を物色する。
大津はこれまで様々な方法を試してきた。
まるでただ者ではないかのように意味深な行動を取ったこともあったし、サラリーマンなのに髪型をニグロパーマにしたこともあった。しかし、おばあちゃんは頑として大津を呼び止めなかった。
もはやパターンはつきている。
かくなれば、正攻法しかない。
最後の勝負。
酢昆布、
さくら大根、
うまい棒、
そしてラムネ――と、一段高くなった座敷に置く。
財布からお札を取りだし、ビニールの袋を受け取る。
品物をつめる手が震えた。
早く、早く呼び止めてくれ。
大津は祈った。
しかし、相手に変化は見られない。
くそっ。
踵を返す。
一歩、また一歩と出口へと近づく度に、積み上げてきたものが崩れていくような感覚。
頼む。頼むよ、ばあちゃん!
だが、願いもむなしく、大津の手はついに出口の引き戸に到達してしまった。
――終わった。大津を絶望が支配した。
「待ちなさい」
――来た!
ついに、ついに来た!
「おつり忘れてるよ」
太陽が力を無くして落ち始め空が朱色に染まる頃、大津は帰路に就いた。
逆光で影絵のように映しだされた町並みは、まるでこの世の終わりのようだ。
事実、終わった。
すべてが終わったのだ。
恋も青春も投げ打った日々が。
全てを捧げた少年の頃からの夢が。
自らが世界の主役になることは叶わず、今後はその生涯をいち脇役として送ることが確定してしまった。
ふと、涙が滲んだ。
その時、空にひとすじの影がよぎった。
大津は背後に降り立つ何者かの気配を感じた。
振り返ると、この世のものとは思えない異形の姿がそこにあった。
「――深い絶望だな。我らのもとに、来ないか?」
それは、まさしく悪魔の誘惑だった。
考える余地なんて皆無。
大津は二つ返事で頷いた。
これが、後に世界を滅ぼす悪魔が誕生した瞬間である。
はじめての投稿でした。
本当にありがとうございました。
今後は商業高校を舞台としたケーブルテレビ部、ウエディング事業部などを題材にした連載や、読み切りの小説などをUPしていきたいと思います。