163・邪神の規律
闇が空間を支配していた。
「なに……これ……?」
後ろでシンシアが体を縮めている。
「これがバグヌバの姿だ」
「ただの闇……?」
「そうだ。邪神バグヌバははっきりとした定型を持たない」
この闇こそがバグヌバ。
周囲の濃い闇がまるで俺達のことを笑っているように錯覚する。
「クルト……」
ラゼバラが心配そうに拳を握っている。
「大丈夫だ、ラゼバラ。今回はすぐに終わらす」
そう告げて、俺は再度バグヌバに意識を向けた。
「さて、バグヌバよ。どっからでも好きにかかってくるがいい。どうやら1000年前より力を強めているらしいではないか」
挑発する。
するとバグヌバ……というより闇が、俺の頭に直接語りかけてきた。
『死ね』
それは鼓膜を震わすだけで、おぞましさを感じるような……そんな独特な声質だ。
『死ね死ね死ね死ね死ね——』
うむ、邪念で俺を捕らえようとしてきたか。
おそらく、この『声』によってドラゴンをも支配し、王都に襲撃をかけてにきたか。
だが。
「どうした? こんな雑音。俺の前では無意味だ」
本来ならその声は聞くだけで、邪念にとらわれ、体の支配権を取られてしまうような性質を持つ。
しかしこのようなもの、魔法をわざわざ使わずとも精神力だけではね除けられる。
「つまらん。バグヌバよ、お前の力はこんなものではないだろう? バグヌバは破壊を司る邪神だ。このようなものは、ただ部下を増やすためだけに使用するものだ。お前の力は……」
そう言いかけた時であった。
「きゃっ!」
シンシアにしては珍しい、高い悲鳴を上げた。
「どうした、シンシア」
「紐が……」
彼女を見ると、制服の一部を繋いでていた紐が切れていた。
はじまったか。
このまま放っておくと、タダではおかなくなる。
「破壊の規律」
俺はその言葉を口にする。
破壊の規律。
何度も言うようであるが、神は規律を作り出し、それを無理矢理他者に守らせる効果がある。
たとえば平和を愛するラゼバラが「あなたは私に攻撃出来ない」という規律を作り出したかのように。
一方、破壊を司る邪神バグヌバの作り出す規律といったら……。
『全てを破壊する』
バグヌバの声が脳内に直接入り込んでくる。
『死ね死ね死ね死ね』
強い思念が流れ込んでくる。
神の規律に背反することは不可能。
バグヌバの前では全てが壊される。
闇が蠢き、邪神の憎しみは世界の全てを怖そうとした。
「もしやお前は——大きな勘違いをしていないか?」
破壊の規律が吹き荒れる中、俺は口を動かす。
規律から外れる行動は出来ない。
1000年前の俺とて、ヤツが破壊の規律を発動する前に、戦いを終わらせた。
本来は規律が発動した時点で、俺の敗北は確定だ。
——だが。
「どうして俺が規律に従わなければならないのだ」
規律を破棄する。
その瞬間、闇の中に光が灯りそれがだんだんと大きくなっていった。
『……!?』
バグヌバの息を呑む音が聞こえた。
「どうして規律から外れたことが出来る、とでも言いたげだな」
腕を組み平然としながら、俺はこう続ける。
「1000年前には、規律から外れることは不可能だった。しかし今の俺は1000年前より強い。力を蓄えたのはお前だけだと思うな」
『……っ』
「規律を破ることは出来ない。それは当然の理であった。しかし、さらなる力を手に入れた俺に、そんな理が通じると思うな」
一歩前に踏み出す。
邪念だとか……破壊だとか……規律だとか……そういった一見厄介なものに見えるものは、俺にとっては他の塵芥と同様に過ぎない。
「規律というのは強固な理……そのように、1000年前の俺も思っていた。しかしそんな柔な理で俺を縛り付けられると思うな」
やれやれ。
やはりすぐに決着は着きそうだ。
「それに壊すことよりも、なにかを創造することの方が難しい」
右手をかざす。
魔力を手に集中させる。
この魔法を使うためには、さすがの俺とてかなり大量の魔力が必要となるが……問題ない。
折角1000年前の力を取り戻し、そしてさらに強くなった俺なのだ。
その祝福として十分な魔法を使わなければ、この茶番を終わらせるに値しないだろう。
「ワールドクリエイト」
創造する。
最初は小さかった光がだんだんと拡散していき、やがて闇が全て消滅するに至った。
『ど、どうして……』
破壊を分解され、新たな理を創造しようとする俺に。
はじめてバグヌバは弱音を吐いた。
『我は1000年間、お前を倒し世界を破壊するために眠っていた。それなのにどうして……』
「はっ、1000年か」
バグヌバの邪悪な魔力がだんだんと薄れていく。
破壊しか知らぬ愚かな神を嘲笑しながら、俺はこう続けるのであった。
「俺に挑むなど——まだ1000年早かったな」
こうして危機は呆気なく去った。