一話
第零章 『黒き森の中で』
それは暴れ狂う。
深紅の瞳は、命ある者を憎むように獰猛な輝きを魅せつけている。
鋭い獣牙に、あらゆる者を葬り去る大仰な距爪。
脅威そのものを圧縮させた強靭な体躯は、尋常ではない重圧を纏っていた。
凶暴な獅子の頭に、圧砕する山羊の胴体。
尾から禍々しく伸びるのは牙を剥く大蛇。
黒の森に生息する数多の怪物の中でも、上位に位置すると謳われている存在。
圧倒的強者の名は<合成獣=キマイラ>。
「吐息が来る!! 避けろ!!」
獅子の顎が大きく開く素振りを見せた瞬間、ルシルは激を飛ばした。
すかさず、効果範囲から大きく距離を取る。
アルムは瞬時に力を集中させると、一足で空高く舞い上がった。
途端、深い森の中をけたたましい熱波が暴れ回る。
「このままじゃ殺られる! 何か打つ手はないのかルシル!!」
「そんな事は解っている! アルム、なんとか時間を稼げ!」
長い月日を耐えしのいだ巨大な木々は、大地の藻屑と化している。
抉り返され爆穴の空いた地面は、戦場としか形容できない様だ。
長時間この場所で死闘を繰り広げているのが、誰にでも伺える光景が広がっている。
常人からすれば、些かありえない風景として映るのかもしれない。
圧倒的な暴力を携える異形の怪物。
対峙しているのは、まだ年端もいかない二人の少年なのだから。
「時間は!!」
「七十秒!!」
「任せろっ!!」
ルシルが選択したのは、確実に決着をつける事だった。
退却する事など、初めから微塵も考えていない。
キマイラとの戦闘は、開始直後から随分と時間が経過していた。
自分自身の精神力が、刻々と限界に近づいているのを感じる。
握る槍を地面に勢いよく突き刺し、ルシルは瞼を閉じて手を伸ばす。
残った気力を振り絞るように、極限まで精神を集中させる。
行使するのは、精神力を糧に緻密な演算の上に成り立つ理を超える力。
その名は、導術。
アルムは命を賭してでも時間を稼ぐ為に、即座に行動に移った。
怪物に立ち向かう事に、一切躊躇はない。
キマイラを討伐する。それが自分たちの超えるべき壁だ。
体力の限界などに構っていられない。アルムは、持てる力を全て剣に乗せた。
燃え盛る火炎を恐れずに飛び越え、キマイラの頭上に向けて剣での一閃を振るう。
獅子の額を正確に捉えた一撃。尋常じゃない衝撃の余波が深い森に鳴り渡る。
「堅ッッ!!」
純度の高い鉱石を、木の棍棒で打ち付けたような強烈な反動がアルムの腕を襲う。
渾身の一撃を持ってしても、キマイラに対して致命傷を与えられない。
キマイラは仇なす者が見せた、一瞬の硬直を決して見逃さない。
獅子の頭を雄々しく振るい、尾から伸びる大蛇で無礼者に急襲をかける。
アルムは痺れる右腕から瞬時に左手に剣を持ち替え、大蛇に向けて正面から突きを放つ。
穿つように繰り出された刺突は、再びキマイラが持つ硬い表皮に弾かれた。
剣が接触した反動を利用して、器用にも後方へとキマイラの攻撃範囲から距離を取る。
地面に足がついた瞬間に、アルムは目の前の異形に怯む事なく精神を集中させた。
「いくぞッッ! 絶技<乱舞=ロンド>!!」
強く握りしめた片手剣両刃の刀身に淡い光が灯る。
輝きは徐々に強さを増し、光の粒を湧き上がらせた。
その技は、夜空に煌めく星の光。
幻想としか表現できない程に研ぎ澄まされた確たる技術。
その名は、絶技。
繰り出されたのは、先とは比べ物にならない速度を持った連撃の嵐。
アルムの気合の入った叫びと共に、キマイラを数多の斬撃が容赦なく襲う。
「オォォオオオオオ!!!!」
加速していく斬撃がぶつかり合い、甲高い音を打ち鳴らす。
飛び散る鮮血と仄かな光の軌跡が、舞い散るように森の中に降り注ぐ。
「ルシル!! まだか!!」
刃を一身に受けながら、それでもキマイラの歩みは止まらない。
幾多の障害が自身に立ち塞がろうとも、挑戦者を滅する為に一歩、また一歩と間合いを詰めよる。
「アルム! 後ろへ飛べ!!」
声が響いたと同時、圧倒的な巨躯を誇るキマイラの歩みが突如として止まった。
獅子の口から滲むような呻き声と共に、赤黒い塗料が漏れるように吐き出される。
異形の全身が徐々に赤く染まっていく。
天を仰ぐような態勢を取る怪物の傷口からは、灼熱の炎が漏れ出していた。
「これで終わりだ。灼導ガ四十七<爆ぜる業火=フレガバースト>!!」
ルシルはキマイラに向けていた掌を、握りつぶすように強く閉じる。
その仕草に呼応するように、巨躯の全身が熱を帯びた光を放ちながら膨れ上がった。
獰猛な眼が、自身の死期を悟ったように緩やかに閉じていく。
次の瞬間ーー内包する圧力に耐えきれなくなったように、キマイラの体が大爆発を起こす。
「なっ?!」
アルムは空中に飛び上がっていた。
キマイラが吐いた炎とは比べものにならない熱量の爆炎が、自分に向けて襲いかかってくる。
ほとんど反射的に両手を眼前に向け、防御の態勢を取った。
他に為す術もなく火炎に巻き込まれ、そのまま吹き飛ばされる。
受け身を取る事すら出来ずに、アルムは地面に向けて頭から盛大に激突し頭を強打した。
「痛ァッ!! クゥゥゥゥ!!」
「……何をしている?」
なんとも情けない声を出しながら頭を両手で抱え、のたうち回るアルム。
その姿を目にしたルシルは、少し呆れたような声色で話しかけた。
「ヤ……バイ!! ヤバイ!! 燃えてるから!! ルシル! 消火、消火!!」
「何を言ってるんだ? この森はこの程度の火じゃ……」
「違うよ!! ボクの体! 爆炎に飲まれたろ!! ってあれ??」
アルムは不思議そうな顔で、自分の体にあちこち手を触れて確かめる。
けれど炎に塗れたような箇所は、全く見当たらない。
「落ち着いたか? 炎がお前に届く前に導術で守ったから怪我はないはずだ。立てるか?」
ルシルは当たり前とでも言うように言葉を口にする。
同時に地面に座る友人に向けて、そっと手を伸ばした。
「……ありがとう、ルシル」
「そんな簡単に礼を言うな。当然の事をしているだけだ」
手を取り立ち上がると、アルムは目の前の少年に目を向ける。
そこには映ったのは、どこからどう見ても草臥れた姿だった。
真新しかった服はどこもかしこも破け、穴だらけ。
隙間からは、生々しい裂傷や殴傷の痕を覗かせている。
「ルシル。君の体、あちこち傷だらけじゃないか」
「それを言うなら、お前も同じだ」
ルシルは一瞥し、少し間を置いて言葉を返した。
二人の間に、なんとも言えない微妙な空気が流れる。
「「……プッ……クク……アハハハハハハハ!!」」
ほとんど同時だった。二人は顔を見合ったまま高らかに笑い声を上げる。
周囲に広がる壊滅的な景色とは、明らかに異なる光景。
それは、勝者だけの特権だった。
実際に一人でキマイラに挑戦していたのなら、間違いなく殺されていただろう。
たった二人で挑む。それは無謀や無茶としか言いようがない。
それでも、二人だからこそ討伐する事ができた。
言葉を交わさなくとも、それらが容易に汲み取れる事が二人には心から愉快だった。