灰色の煙はなにもこたえない。
鏡の中に映っているのは、見慣れた中年男だった。
佐藤秋、四十歳。
数年前、紳士服量販店のセールで買った安物の紺色のスーツは、心なしか肩のあたりが窮屈だ。
クリーニングに出しそびれたせいで、微かに生活の匂い――湿った部屋干しの匂いが染み付いている気がする。
「パパ、ネクタイ曲がってる」
背後から、妻の有希子の声がした。三十四歳の彼女は、今日のために新調したらしい淡いベージュのセットアップに身を包んでいる。
彼女の肌はまだ若さを保っているが、目尻の笑い皺には、この数年の苦労が静かに蓄積されていた。
「ああ、ありがとう。」
秋は不器用な手つきでネクタイを直した。
鏡の隅には、ランドセルより一回り小さな、幼稚園の通園バッグを背負った息子の翔真が映っている。
今日で、この制服ともお別れだ。
子供特有の、全能感に満ちた笑顔が眩しい。
秋は、洗面所の戸棚に目をやった。
そこには、今月の家計簿のメモが貼ってある。
月収三十万円弱。そこから家賃、光熱費、食費、翔真の習い事、保険料……。
計算するまでもなく、残るのは自分でも使い道に困るような、端金だけだ。
自分は、「平凡だと思いたい平凡よりちょっと下」の男だ。
都内の小さな商社で事務職をこなし、満員電車に揺られて某県の境界線にある賃貸マンションに帰る。
誇れるキャリアもなければ、一発逆転の才能もない。
ただ、明日を生きるために今日を消費するだけの、自転車操業のような人生。
「秋さん、そろそろ行かないと。雨、降り出しそうよ」
有希子の催促に、秋は力なく頷いた。
「……ああ、行こうか」
玄関を出ると、案の定、空は鉛色に淀んでいた。
秋はビニール傘を三本用意した。
彼は運転免許を持っていない。
二十代の頃、金と時間がなくて取り損ねたまま、四十歳になってしまった。
「車出そうか」
その一言が言えない自分への、微かな、しかし消えない劣等感が、雨の日のアスファルトのようにじっとりと胸にこびりついている。
二人にはばれないように小さくため息をついた。
駅までの道のりは、秋にとって苦行だった。
細い歩道を、翔真の手を引いて歩く。
横を、水飛沫を上げて大きな白いミニバンが通り過ぎていく。
同じ幼稚園に通う、自分より数歳若い父親がハンドルを握っていた。
車内には笑顔の家族が見える。
彼らは雨に濡れることも、バスの時間を気にすることもない。
「パパ、あの車かっこいいね」
翔真が無邪気に指差す。
「そうだね。大きいね」
秋は空いた方の手で、スーツのポケットを探った。
そこには、数日前にパチンコ屋で手に入れた安っぽいライターが入っている。
指先でその冷たいプラスチックの感触を確かめると、少しだけ呼吸が楽になった。
秋にとって、パチンコは、勝利を夢見るためのギャンブルではない。
あれは、「思考を停止させるための道具」だ。
液晶の激しいフラッシュと、耳を劈くような電子音。
あの喧騒の中に身を置いている間だけは、自分が「平凡より下の男」であることを忘れられる。
仕事のことも、家族のことも。
将来への不安さえも、すべてが銀色の玉の流れに溶けて消えていく、そんな錯覚をくれる。
「秋さん、大丈夫? 足元、水溜まりよ」
有希子の声に現実に引き戻される。
「……ああ、ごめん」
秋は努めて「普通の父親」を演じた。
翔真が泥跳ねで汚れないよう、自分の体を壁にして歩く。
自分にできるのは、この程度のささやかな盾になることだけだ。
人生なんて、結局は死ぬまでの暇潰しだ。
それならば、せめてこの暇潰しの時間が、息子にとってだけは少しでも快適であればいい。
そう自分に言い聞かせるが、その言葉自体が、どこか砂を噛むような虚しさを伴っていた。
幼稚園の式会場は、湿った空気と花の香りが混じり合っていた。
並べられたパイプ椅子に腰を下ろすと、周囲の父親たちの姿が嫌でも目に入る。
仕立ての良いスーツ。
高級そうな腕時計。
彼らは皆、自分よりも人生を上手く攻略しているように見えた。
式が始まり、ピアノの音が響く。
「卒園児、入場」
翔真が、緊張した面持ちで歩いてくる。
有希子は隣で、早くもハンカチを目に当てていた。
秋は、カメラを構えながら、ファインダー越しに息子を見つめた。
感動、すべきなのだろう。
誇らしく、思うべきなのだろう。
だが、秋の脳内を占めているのは、冷徹なまでの現実感だった。
(来月からは小学校か。
ランドセルは買った。
次は算数セット、体操着、鍵盤ハーモニカ……。
夏休みになれば、またどこかに連れて行けと言われるだろう。
そのための金は、どこから捻出する?)
そんな計算が、感動の波を無慈悲に堰き止めてしまう。
園長先生が
「皆さんの未来は、光に満ちています。」
と祝辞を述べている。
秋はそれを聞きながら、心の中で毒づいた。
光なんて、どこにある。
この子もいつか、俺のように日々を送るのではないか。
だとしたら、この儀式は何の意味がある。
この暇潰しのゲームに、どれほどの価値があるというのか。
ふと、有希子と目が合った。
彼女は泣きながら、幸せそうに秋に微笑みかけた。
秋は反射的に、口角を上げた。
「よかったね。」
声には出さず、唇だけを動かす。
その瞬間、秋は確信した。
自分は、幸せな父親のフリは上手いのかもしれない、と。
内側がどれほど空虚で、どれほど冷めた灰で埋め尽くされていても、この仮面だけは剥がしてはいけない。
それが、平凡より下の男が家族に対して払える、唯一の対価のようなものだからだ。
式が終わり、三人は駅前のファミリーレストランへ入った。
翔真の希望だった。
「お祝いだから、好きなものを食べていいぞ。」
秋は太っ腹な父親を演じ、メニューの値段を見ないふりをして一番安いハンバーグセットを注文した。
「パパ、今日かっこよかったよ。」
翔真が、ケチャップのついた口で笑う。
「そうか? ありがとう。」
有希子が、穏やかな表情で秋を見つめる。
「秋さん、お疲れ様。今日まで、いろいろ大変だったけど……翔真がここまで元気に育ってくれて、本当によかった。」
「……ああ、そうだね。」
秋はコーラを一口飲んだ。
喉を通る炭酸の刺激が、現実の苦みを一瞬だけ麻痺させてくれる。
有希子は、自分が時折仕事帰りにパチンコ屋へ寄っていることを知らない。
数千円、時には一万円が、一瞬で「無」に変わるあの瞬間の背徳感を、彼女に教えるわけにはいかない。
あそこは、自分にとっての聖域だ。
父親でも夫でもなく、ただの「佐藤秋」という空っぽの容器に戻れる場所。
昨夜も、スマホの画面の中で数字が回るゲームを、朝の四時まで続けていた。
スタミナが切れるまで、目的もなくモンスターを狩り続ける。
その虚無感こそが、秋にとっての安らぎだった。
窓の外を見ると、雨は上がっていた。
雲の間から、弱々しい太陽の光がアスファルトを照らしている。
人々が行き交い、車が通り過ぎる。
誰もが、自分の暇潰しに忙しそうに動いている。
誰もが本当は気付いているはずなのだ。
明日になれば、また三十万円という数字を稼ぐための作業が始まる。
満員電車に揺られ、意味のない会議でメモを取り、安物の弁当を食べる。
その繰り返しが、死ぬまで続く。
「パパ、小学校行ったら、サッカーやりたい!」
翔真の言葉に、秋は一瞬だけ、息が詰まるのを感じた。
「サッカーか。……いいよ。応援するよ。」
また一つ、新しい暇潰しのノルマが増えた。
それに応えるために、またパチンコ屋で無になる時間を増やさなければならない。
そうしなければ、自分の心が保たないことを、秋は誰よりも知っていた。
その夜。
翔真と有希子が寝静まった後、秋は一人でベランダへ出た。
夜の空気は冷たく、どこか遠くで貨物列車が走る音が響いている。
秋は、一箱五百円を超えるタバコを取り出した。
自分に許された、数少ない贅沢。
ライターの火が、暗闇の中で小さく、しかし鮮やかに灯る。
指先に感じる熱。
肺に流れ込む、重苦しくも懐かしい煙。
秋は、ゆっくりと煙を吐き出した。
それは夜霧に混じり、すぐに形を失って消えていった。
見上げた空には、星の一つも見えない。
ただ、厚い雲が街の灯りを反射して、ぼんやりと赤茶けているだけだ。
自分は、何のために生きているのだろう。
そんな問いに、もはや答えを求めるつもりはなかった。
答えなんて、最初から用意されていないのだ。
そしてそれに、意味がないことも知っていた。
人生は、壮大な、そしてあまりに退屈な暇潰しに過ぎない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
自分は明日も、あの窮屈なスーツを着て、電車に乗るだろう。
有希子の前で夫を演じ、翔真の前で父を演じるだろう。
その「ごっこ遊び」こそが、自分の人生のすべてなのだと思う。
パチンコの液晶の中で回る数字。
スマホのゲームで溜まっていく経験値。
そして、銀行口座に振り込まれる三十万という数字。
すべては同じだ。
究極的にはそこに価値などない。
それでも、その数字を追いかけ続けることでしか、時間を埋めることができない。
生きていると見なされない。
タバコが短くなり、熱が指先に迫ってくる。
秋は最後の一服を深く吸い込み、肺の隅々まで行き渡らせた。
そして、携帯灰皿に吸い殻を押し付ける。
「……ふぅ。」
暗いリビングからは、小さな寝息が聞こえてくる。
そこには、自分が守らなければならない共犯者がいる。
そこから逃げ出す勇気もない。
人生を変える力もない。
ただ、この場所で、じっと耐え続けるだけだ。
「死ぬまで生きるしかないもんな。」
秋は、独り言のようにそう呟いた。
その声は、誰にも届かず、夜の風に溶けていった。




