第8話 薔薇の影と伯爵夫人
王城からの封蝋が、わたくしの指先で小さく割れた。
中身は短い。けれど刺さる。
――毒殺未遂の件、侯爵令嬢レティシアを事情聴取のため召喚する。
宰相執務室の窓辺で、クロード様が報告書を閉じた。
「ローゼンベルク伯爵夫人が、君を名指しで訴えた」
淡々とした声。淡々としているから怖い。
「カップを入れ替えたのは事実です」
喉が乾く。昨夜の薔薇庭園の湿った甘い香りが、まだ鼻の奥に残っている。
「理由を」
「紫の花のカップだけ、香りが違いましたの。土の匂いが混じっていた」
「……君は、その違和感で動いた」
「ええ。結果として、右隣のベルノワ伯爵夫人が毒に触れた」
言葉にした途端、胸が熱くなった。
わたくしが守りたかったのは自分の命だ。なのに、誰かの喉から血の色を引き出しかけた。
責めるなら、まず自分を責めるべきだ。
けれど、クロード様は責めなかった。
代わりに、机の端へ手袋を置き、短く言う。
「君が止めなければ、杯は回った。倒れる者は増えた」
慰めではない。事実の提示だ。だからこそ、胸の痛みが少しだけ形を変えた。
クロード様は机上の紙束を滑らせた。
「現場で採取した紅茶から、夜薔薇草の反応が出た。ベルノワ伯爵夫人は回復に向かっている」
救われた。そう思った瞬間、肩の力が抜けそうになる。
しかし次の行で、また落とされる。
机の端で、銀盆が鳴った。
執事が封書を置く。紋章はベルノワ伯爵家。
「昨夜の件で、ベルノワ伯爵夫人より」
喉が詰まるのを押し込み、封を切る。
丁寧な筆跡で、短く記されていた。
命は助かった。宰相邸の侍医に感謝する。――そして、入れ替えの所作を見た、と。
胸の奥がひくりと痛んだ。
敵だと思っていた人が、目撃者になる。社交界は、踊りより目まぐるしい。
「君の指紋が付いた蔦模様のカップが、重要物証として押さえられている」
なるほど。台本は毒だけではない。
濡れ衣の椅子も用意されている。
「……わたくしが主役の処刑劇は、まだ終わっていないのね」
唇が笑いの形を作りかけて、失敗した。
「レティシア」
呼び捨てに近い音。
「君の手元で見つかった紙片は」
「握り潰しました。甘い匂いが残る紙で……『庭は剪定される。棘に触れた者から』と」
言った瞬間、部屋の空気が冷えた。
クロード様は椅子から立ち、窓外の王都へ視線を投げた。
「その言葉は、噂で聞いた。慈善や園芸の話に見せかけて、人を切る連中が使う」
「連中」
「……整理しよう」
彼は戻ってきて、白紙に線を引いた。席の配置。メイドの動線。視線の向き。
わたくしは言葉を足さず、記憶を置いていく。余計な説明は、裁きの場でやる。
最後に、クロード様が短く結論を落とした。
「毒の狙いは、ベルノワ伯爵夫人ではない。君だ」
背筋が凍った。
恐怖と、妙な納得が同時に来る。昨夜からずっと、わたくしの影だけが濃い。
扉が叩かれ、宰相府の捜査官が入ってきた。
「閣下。ローゼンベルク伯爵夫人の屋敷内、捜索許可が下りました」
「行く。侯爵令嬢も同行する」
反射で返しかけた拒否を、飲み込む。
逃げれば、台本どおり追放へ転がるだけだ。
王都の石畳を渡り、伯爵邸の私室へ入る。
薔薇の香は濃い。甘さが強すぎて、喉の奥が痛い。
捜査官が寝台脇の小机を開け、隠し底の箱を引き抜いた。
中から出てきたのは、金属の印章。
薔薇の意匠。花より棘が目立つ。
そして、革表紙の薄い帳簿。表題の端に、金の輪の刻印。
「金環会」
声に出した途端、背後で夫人の呼吸が止まった。
ローゼンベルク伯爵夫人は、完璧な微笑みのまま椅子に座っていた。
「まあ。宰相閣下は、女性の部屋まで荒らすのね」
「毒が出た。荒らされたのは、昨夜の客の命だ」
クロード様の声に温度がない。
夫人は扇子を開き、ゆっくりと視線をこちらへ寄越した。
「わたくしの庭は、花が多いのですもの。手入れが要りますのよ」
昨夜の言葉が、舌の上で蘇る。
庭。手入れ。剪定。
隠語の匂いがする。
「手入れの道具が、毒と帳簿ですか」
わたくしが言うと、夫人は肩をすくめた。
「花を守るには、余計な枝を落とすしかないでしょう」
そのまま、唇が軽く滑った。
「薔薇の使徒の庭では、それが当然ですの」
世界が音を失った。
前世の画面が脳裏で点滅する。攻略本の端。裏設定。最終章の宗教組織。
現実の夫人の口から、同じ名が出た。
クロード様が、机上へ印章を置いた。
「自白と取る。連行する」
「自白?」
夫人は笑った。冷たいのに、どこか恍惚が混じる笑み。
「わたくしたちは、平等の庭を作るのです。古い貴族の腐れ枝を落として、光の届く場所を」
理想の言葉の形で、刃を研ぐ口ぶりだった。
その瞬間、胸の奥が激しく揺れた。
怒りではない。恐怖でもない。
……悔しさだ。
美しい言葉で人を殺す連中に、物語の主導権を渡したくない。
夜。宰相邸の執務室。
蝋燭の火が、隣の椅子に影を落としている。あの席は、まだ空いたままだ。
クロード様は窓を閉め、声を低くした。
「薔薇の使徒は、表の教会とも、貴族とも、商いとも繋がっている。金環会は財布だ」
「前世の筋書きでは、最後に出てくる相手でした」
口にした途端、自分の声が少しだけ震えた。知っている未来が、現実を追い越す感覚。
「君は、その筋書きに従うつもりか」
「従いませんわ」
即答できたのは、昨夜の血の染みを見たからだ。
「誰かの台本で剪定されるなら、こちらから手入れの鋏を奪います」
クロード様の眼鏡の奥で、光が揺れた。
「公開の場で裁く。君はそう言うだろう」
「ええ。社交界の噂は、密室では消えませんもの」
扉が乱暴に叩かれた。
捜査官が息を切らし、封書を差し出す。
「閣下。陛下より。正議院での公開審理を、3日後に」
封蝋の印が、薔薇だった。
わたくしは封書を受け取った手で、無意識に指先を握り込む。
掌に残る甘い匂いが、また蘇った。
庭の手入れは、こちらの番だ。
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