第7話 お茶会と毒入りティーカップ
「では、陛下のご健康と、わたくしたちの友情に――」
ローゼンベルク伯爵夫人の声が、薔薇の東屋に薄く響いた。
白いクロス。銀のスプーン。揃いすぎた笑顔。全員が同じ角度でカップへ手を伸ばす光景は、祝杯というより儀式だ。
わたくしの指先は、取っ手へ届く直前で止まった。
香りが違う。
同じ茶葉のはずなのに、紫の小花のカップだけ、甘さの奥に湿った土が混じる。
クロード様の声が耳の奥で硬く鳴った。
飲み物から目を離すな、君自身もだ。
給仕のメイドが盆を抱え、卓の端を回り込む。
手首がわずかに震え、いったんわたくしの前で止まる。
置く。置きかける。けれど刹那、視線だけを夫人へ送り、カップの位置を指先で直した。
間違えたのか、直したのか。
わたくし以外、誰も気づいていない顔をしている。
「……侯爵令嬢様?」
右隣のベルノワ伯爵夫人が、唇だけで笑った。
「乾杯の前から怯えていらっしゃるの?」
「怯えているのではなく、香りを楽しんでおりますの」
喉の奥だけが乾く。
伯爵夫人の胸元、赤い薔薇のブローチが太陽を刺すように光った。
棘の意匠。飾りにしては攻撃的だ。
その棘が、わたくしの喉元へ向けられている気がする。
乾杯の輪が完成する。
細い腕、白い手袋、宝石の指輪。
誰の手も美しい。だからこそ、毒が似合ってしまう。
「さあ」
伯爵夫人が笑って促す。
わたくしはカップを持ち上げないまま、微笑んだ。
盾は必要だ。けれど盾だけでは、相手の手札が見えない。
わざと扇子を落とす。
布が膝へ滑り、手袋の指先がクロスをなぞった。
拾い上げる動作に紛れ、紫の小花のカップを、隣の金縁の蔦模様のカップとそっと入れ替える。
音は立てない。視線も動かさない。社交界で身に付けた、優雅な悪意の技だ。
入れ替えた瞬間、ベルノワ伯爵夫人の瞳が細くなった。
伯爵夫人は笑みのまま、わたくしの手元を見た。
向こう側の商家の娘は、カップではなくメイドの手を見ている。
中立派と噂の夫人は、扇子の影からこちらを短い間だけ覗いた。
候補は3人。
主催者の伯爵夫人。
王太子派に取り入りたい商家の娘。
どちらにも顔を出す中立の夫人。
そして、震えるメイド。
「乾杯をなさらないの?」
伯爵夫人が、優しく問う。
優しさの形をした圧だ。
「すぐに。少しだけ香りが強くて」
笑顔のまま返した瞬間、ベルノワ伯爵夫人が先に喉を鳴らした。
「――っ」
彼女はひと口も飲まない。
カップを戻そうとして指が滑り、白いクロスに紅茶が広がる。
蔦模様の金縁が横倒しになった。
甘い香りが、土の匂いへ変わった。
「……気分が」
声がかすれ、目が泳ぐ。
次の瞬間、肩が大きく揺れ、椅子の背に爪が立った。
笑い声が切れる。
息を吸う音。椅子を引く音。
そして最悪の囁きが生まれる前に、わたくしは立った。
「皆さま、そのカップから離れてくださいませ」
自分でも驚くほど声が通った。
悪役令嬢の仮面は、場を止める時だけは便利だ。
「レティシア様、あなた……!」
伯爵夫人が目を見開く。
驚きか、演技か。判断する暇はない。
「伯爵夫人、侍医を」
「給仕の方は手を洗って戻って」
短く指示する。
誰かが言いかけた。
「大げさな、ただの貧血では――」
その言葉が空気を決める前に、わたくしは首を振った。
「事実より先に空気が決まるのが社交ですわ」
「今は空気を止めるべきです」
胸の奥が熱くなり、次の瞬間に冷えた。
前世の画面がよぎる。倒れる貴婦人。悲鳴。濡れ衣。追放。
怖い。喉が乾く。指先が冷える。
けれど、この怖さを利用しないと、また台本に飲み込まれる。
「失礼いたします、薬の家の者が居合わせておりますわ」
左隣の子爵夫人が静かに言った。
彼女の背後に控えていた若い令嬢が、小さな硝子瓶を取り出す。
さきほどから紅茶の香りを確かめていた、視線の子だ。
「少しだけで結構です」
「布に染みた分を」
令嬢が紙片をこぼれた紅茶に触れさせ、瓶の滴を落とす。
淡い色が、鈍い灰へ沈んだ。
「これは……」
令嬢が息を呑む。
「毒、ですのね」
わたくしが言うと、場の空気が凍った。
扇子が落ちる音。口元を押さえる手。
ベルノワ伯爵夫人は青ざめたまま、浅い呼吸を繰り返す。
「だ、誰が……!」
「今それを叫ぶのは、犯人に時間を与えるだけですわ」
給仕のメイドが戻ってきた。
顔色が白い。目が潤み、唇が震える。
「わ、わたしは……間違えてません、ちゃんと……」
説明は、罪か恐怖のどちらかを連れてくる。
「大丈夫」
「今はあなたを裁きません」
言葉を短くする。長い優しさは、疑われる。
遠くで庭の門が開く音がした。
足音が規則正しく近づき、黒い服の男が東屋へ入る。
眼鏡の奥の目が鋭い。
宰相付き執事、オスカー。
「エルネスト侯爵令嬢様、閣下より命を受けております」
「異常時は即時保全いたします」
その瞬間、視線の矢がわたくしから外れた。
空気の主導権が、わたくしの手から別の手へ移る。
そしてその手は、味方だ。
「ベルノワ伯爵夫人を日陰へ」
「水は与えないで」
「口を濯ぐ布だけ」
指示を重ねても、声が震えない。
心臓は暴れているのに、声だけが冷たい。
けれど安心より先に、胃の底に硬い石が沈んだ。
入れ替えたカップを見てしまったからだ。
蔦模様の金縁。わたくしが触れたはずのカップ。
そこにわたくしの指紋は残る。
毒殺だけでなく、濡れ衣の台本まで用意されていたなら。
わたくしの動きは餌になり得る。
伯爵夫人が、そっと笑った。
優雅な笑み。目だけが花鋏みたいに冷たい。
「さすが宰相閣下の婚約者様」
「……お強いのね」
褒め言葉の形をした刃だ。
「強いのではありませんわ」
「生き残りたいだけですの」
その瞬間、ベルノワ伯爵夫人が苦しげに咳き込み、指先でクロスを掴んだ。
爪の間に、赤い染みが滲む。
紅茶の色ではない。
令嬢が震える声で呟く。
「この反応は……夜薔薇草の抽出液に似ています」
その毒名が、脳の奥を叩いた。
前世で読んだ攻略本の小さなコラム。
ファンディスクの追加シナリオ。
庭園で始まる連続毒殺編。
そこで使われた毒の名と、同じ響き。
背筋が冷えた。
誰かが、わたくしと同じ資料を読んでいる。
この世界は、わたくしの記憶だけのものではない。
ふと、皿の縁に指が触れた。
紫の小花のソーサーの裏に、薄い紙が貼られている。
剥がすと、甘い匂いが指先に絡みついた。
『庭は剪定される。棘に触れた者から。』
文字がにじんで見えた。
怖さの形が変わる。
これは予告だ。次の章は、もう始まっている。
わたくしは紙を握りつぶし、笑顔のまま顔を上げた。
伯爵夫人の薔薇の棘が光った。
そして理解する。
このお茶会、ゲームではここから連続毒殺編に突入したのだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。お茶会の棘はまだ序章。次話では、予告文の出どころと犯人の手口に一歩迫ります。続きが気になったら、ブックマーク&広告下の【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると励みになります。




