第6話 悪役令嬢、薔薇庭園に座る席
招待状の封蝋を割った瞬間、紙が指先に噛みついた気がした。
中から落ちたのは、追加の小さな札。席次表。そこに印刷された私の名は、主催者のすぐ右に置かれていた。
前世の記憶が、色付きの挿絵みたいに脳裏で弾ける。薔薇の庭。白いテーブル。手を伸ばす貴婦人たち。誰かが倒れる。
……毒殺イベントの席だ。
鏡の前で息を整えながら、私は頭の中に見えもしない表示を並べた。
好感度:陛下派 やや上向き。
好感度:旧王太子派 底。
危険度:貴婦人お茶会 最上。
生存条件:笑顔、観察、証拠、そして運だけは信用しない。
背後で布が鳴った。
「お嬢様、背中をお締めいたします」
新人メイドのリリアが、声を震わせないよう努力している。努力が可愛い。可愛いが、今日は可愛いで済まない日だ。
「息を吸って」
「はい……っ」
彼女の指が少しだけ震えた。私のせいだ。宰相邸の空気は戦場で、社交界はもっと戦場だ。
「こちらの色は、陛下派の奥方方に評判でございます」
メイド長アデラが、淡い灰青のドレスを掲げる。布地は静かな光を返し、派手さより格を主張する。
「旧王太子派の方々は、もう少し甘い色を好まれますが……お嬢様は甘く見られる必要がございません」
「つまり、今日は可憐さで殴るより、正論で刺す日ですのね」
「お嬢様、物騒な比喩はお控えくださいませ」
私は笑ったまま、喉の奥が乾くのを感じた。
正論で刺す。いつも通りだ。けれど今日は、刺した返り血が紅茶に混ざるかもしれない。
扉の向こうで足音が止まり、低い声がした。
「準備は?」
クロード様だ。銀縁眼鏡の向こう、視線が私の装いを数える。書類の確認と同じ速度で。
「整っております……ただ、席が良すぎましたの」
「良すぎる席は、危険の目印だ」
即答。宰相として、が隠れていない声音。
私は席次表を差し出す。彼は目を落とし、眉を微かに動かした。
「主催者の右。挑発だな」
「ええ。前世の私なら、ここで失敗して終わっていました」
「ならば、終わらせない」
短い言葉の硬さが、胸の奥に残った。
仕事の言葉だ。けれど、私の心臓はそれを勝手に甘い音に翻訳する。
馬車の中で、私は手袋の縫い目をなぞった。
指先が冷えるたび、前世の映像が戻ろうとする。私はそのたびに、今日の目的を言い直した。
毒があるなら見つける。誰かが倒れる筋書きなら、書き換える。
悪役令嬢らしく、舞台の上で。
ローゼンベルク伯爵邸の門をくぐると、空気が薔薇の香りに変わった。
庭園は手入れが行き届き、赤も白も桃も、咲き方の癖まで揃えられている。揃いすぎていて、息が詰まる。
東屋の下、白いクロスの長卓。椅子の背に結ばれたリボンが風に揺れ、私の胃もそれに合わせて揺れた。
「レティシア・エルネスト侯爵令嬢様でいらっしゃいますね」
執事が丁寧に頭を下げ、札を示す。席札。印字は美しい。美しすぎて、罠に見える。
主催者が近づく。エリザベート・ローゼンベルク伯爵夫人。
穏やかな笑み。柔らかな声。けれど目だけが、笑っていない。
「ようこそ。お噂は、よく」
「良い噂でしたら幸いですわ」
「噂はお庭の薔薇と同じで、風向きで香りが変わりますもの」
そう言って、彼女は胸元に指を添えた。
赤い薔薇のブローチ。棘の意匠が、やけに鋭い。飾りにしては攻撃的だ。
私の視線に気づいたのか、夫人は微笑みを深くした。
「最近、物騒な噂も多いでしょう? 平等を叫ぶ輩など」
軽い世間話の形で、喉の奥に針を落としてくる。
私はうなずく。
「美しい言葉ほど、使い方で毒になりますわね」
席に案内される。
夫人の右が私。私の右に、問題児と噂される貴婦人が座っていた。オディール・ベルノワ伯爵夫人。淡い顔色で、笑みの端が薄い。
私の左には、落ち着いた子爵夫人。さらに向こうに商家の娘と紹介された少女が、背筋を伸ばして座っている。別の端には、中立派と噂の夫人が控えめに扇子を揺らした。
……全員の視線が、私の顔に刺さっている。刺さるだけなら慣れている。問題は、次に何を刺してくるかだ。
そして、ティーカップ。
席ごとに柄が違う。私の前には、白地に小さな紫の花。右のベルノワ伯爵夫人は金縁で、蔦の模様。左の子爵夫人は淡い水色の波。主催者のカップは赤薔薇の群れ。
卓上に並んだ小さな違いが、視線の迷路になる。私は覚える。柄、位置、取っ手の向き。砂糖壺の影が落ちる角度まで。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます」
夫人が席に着き、手袋の指を揃える。その動作に、無駄がない。無駄がない人間は、たいてい無駄を作らないために他人を削る。
挨拶が終わった途端、狙いは来た。
「レティシア様。殿下を陥れたというお話、真実なの?」
声の主は、取り巻きを連れた令嬢。カロリーヌ。名前だけで、胃がきしむ。
「殿下は、あんなにお優しかったのに」
取り巻きが頷き、涙の代わりに好奇心を光らせる。
感情が跳ねた。胸の奥が熱くなる。前世で、私はここで何度も悪役を演じた。台詞を言わされ、断罪され、笑われた。
けれど今は、台本を握る手が私に戻っている。
私は扇子を軽く開き、声をやわらかくした。
「陥れた、という表現が曖昧ですわね。具体的には、どの罪状のことでしょう」
「罪状……?」
「殿下が横領に関与していた件。学園の寄付金が消えた件。審議会の議事録改竄。どれも監査局の資料にございます」
私は言いながら、彼女の瞳孔が揺れるのを見た。数字は、嫌われる。言い逃れを狭めるから。
「そんな……でも、殿下は」
「殿下が何を思っていようと、金は消えませんわ」
扇子の端で、机の上の砂糖壺を指す。甘いものほど、量が決め手だ。
「寄付金の帳簿は、月ごとに合計が出ます。改竄しても、合計が合わなければ露見いたします。殿下の側近が合うように直していた痕跡も、残っております」
沈黙が落ちた。落ちたのは私への非難ではなく、カロリーヌの自信だ。
中立の子爵夫人が、静かに紅茶の香りを吸い込む。商家の娘が、私の言葉を値札でも読むみたいに真剣に聞く。
……小さな逆転。私は責められる側から、説明する側へ立ち直った。
カロリーヌは唇を噛み、別の矢を放つ。
「でも、マリア様は泣いていたわ。あなたがいじめたって」
その名で、胸が冷えた。前世の画面に、ヒロインの涙が重なる。
私は目を伏せ、息を数える。怒りで声を尖らせれば、彼女たちの望む悪役に戻るだけだ。
「泣いている方が正しい、と決めるのは危険ですわ」
顔を上げる。笑顔の形だけ、整える。
「わたくしは、殿下の婚約者でした。婚約者として、規律を守れと言いました。学園の規則を守れと……それが、いじめに見えたのでしょうね」
夫人の指が、ブローチの棘を撫でた。
カロリーヌは勝ったつもりで息を吐くが、周囲の空気が微妙に動いた。規律。規則。貴族が嫌いな単語ではない。むしろ、盾にしたい単語だ。
私は続ける。
「殿下をお慕いするお気持ちは理解いたします。でも、陛下のお困りになることを、殿下のためと呼ぶのは……少々、酷ではありませんかしら」
最後は疑問形にして、刃を丸めた。丸めた刃は、相手が勝手に握って血を出す。
「……っ」
カロリーヌの取り巻きが視線をそらす。夫人の目が細くなった。笑っているふりのまま。
その時、背後で陶器が触れ合う音がした。
給仕の列。銀盆の上で、カップがわずかに揺れている。
リリアだ。宰相邸のリリアが、ここでも補助に回されている。緊張で指が震え、盆の縁を白く握っていた。
彼女の目が、私のカップではなく、夫人のカップに吸い寄せられているのが見えた。
私の感情が大きく揺れた。
怖い。怒りより、もっと根の深い怖さ。前世で見た結末が、今の空気に重なる怖さ。
私は扇子を閉じ、膝の上で手袋の指を折り曲げた。ここで逃げれば、誰かが倒れる。残れば、私が倒れるかもしれない。
それでも私は、座っている。椅子から降りない。
……この世界の脚本に、簡単に席を譲る気はない。
夫人が穏やかな声で言った。
「皆さま、楽しいお話を。わたくしの庭は、花が多くて……手入れが大変ですの」
庭。手入れ。棘の薔薇。
何でもない雑談の形で、暗い合言葉みたいに耳に残る。
紅茶が注がれ、湯気が立つ。香りが広がる。
私の前の紫の花のカップからは、いつもより甘い匂いがした。気のせいかもしれない。気のせいであってほしい。
夫人が立ち上がり、全員に視線を配った。
「さあ、皆さま。陛下のご健康を祝して」
カップに手が伸びる。取っ手に指がかかる。陶器が小さく鳴る。
前世では、ここから連続毒殺編が始まった。……次に倒れるのは、どの椅子の主だろう。
ここまでお読みいただきありがとうございます。薔薇庭園の乾杯まで辿り着きましたが、次は誰のカップが落ちるのか――。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】で評価、そしてブックマークで応援していただけると執筆の燃料になります。感想も一言でも嬉しいです。




