第5話 宰相補佐・仮採用と、毒殺フラグの招待状
「そうしろ、私の隣で」
その言葉が耳の奥に残ったまま、わたくしは封筒の端をなぞった。
優雅な会名の下に、差出人の名がある。
ローゼンベルク伯爵夫人。
喉の奥が、ひやりと冷えた。
前世で遊んだ乙女ゲームの画面が、勝手に立ち上がる。
薔薇の庭、白いカップ、倒れる貴婦人。紅茶がドレスの薔薇柄を赤黒く染める。
あれは事件の始まりだった。わたくしが何度やり直しても、誰かが倒れる場所。
現実の紙は、ただ軽い。
けれど指先だけが、紙の重さではなく先の筋書きを掴んでしまう。
「……顔色が悪い」
クロード様の声が、執務室の静けさを切った。
「問題ありませんわ、薔薇の香りが強いだけです」
「香りで人は死なぬ」
「香りそのものではなく、香りが呼ぶものが」
言いかけて、飲み込む。
ゲームの話など、信じろと言われても困るだろう。
だからわたくしは、封筒を机の端に揃えて置いた。逃げずに、置く。
机上の書類山が、さっきより高い。
オスカーが運び入れたばかりなのだろう。封蝋の赤が点々と並び、まるで戦場の旗印みたいだ。
「続きだ、今度は本気で頼む」
クロード様が、ペン先で山を示した。
脳内に、見慣れた表示が浮かぶ。
クエスト更新、宰相執務の補佐。失敗条件、国家機能の遅延。
わたくしは息を整え、紙に触れた。
緊急、重要、担当部署。昨日より手が迷わない。
迷っている暇がないことを、身体が覚え始めている。
「右の束は、同じ部署が3枚に分けて同じ言い訳をしているだけですわ」
「読む前から切り捨てるのか」
「読む前から分かる嘘は、節約です」
クロード様の口元が、ほんの僅かに動いた。
笑う寸前で止める、癖みたいな動き。
「宰相補佐として正式に雇いたいくらいだ」
「婚約者手当込みでお願いしたいですわね」
「危険手当は払わん」
「危険の発生源が目の前にいるからですか」
「そうだ」
扉が叩かれ、若い文官が顔を出した。
視線がわたくしに刺さる。噂の悪役令嬢を、仕事の場でどう扱うべきか迷っている目だ。
「閣下、至急の嘆願書でして」
「彼女に渡せ」
「ですが」
「仮採用だ」
文官の喉が鳴った。
わたくしの手元に紙が落ちる。紙面をちらりと見て、必要な行だけ拾う。
「対象は税ではなく輸送許可の遅延ですね、原因は担当の名ではなく書式の不備です、ここを直して再提出なさいませ」
「……それだけで通ると」
「通らなければ、遅延の責任の所在を明文化して差し上げます」
声は柔らかいまま、逃げ道だけを閉じる。
文官は息を呑み、深く礼をして下がった。噂が、業務に切り替わった瞬間だった。
クロード様が、机の端から小さな印章箱を押し出した。
黒い革に収まった、小ぶりな印。
「これを使え、内部の回覧にだけだ」
わたくしは思わず指を止めた。婚約者に渡すには、実務の道具すぎる。
「よろしいのですか」
「君に口を出されるより、君の字で動いた方が速い」
「……速さで人は救えますものね」
言った瞬間、胸がきゅっと縮む。
救えない速度の方が、前世の記憶には多い。
ひと区切りついたところで、クロード様が顎で部屋の奥を示した。
例の椅子だ。宰相机のすぐ横にある、空席。
座れば戻れない、と言った椅子。
「座ってみるか」
「冗談はお上手ですのね」
「冗談だ、だがいつかは必要になる」
「必要になっても、わたくしの足で歩いて座ります」
「強情だな」
「慎重と言ってくださいませ」
椅子は黙っている。
けれど、黙ったまま重い。
あれは家具ではなく、立場だ。
その重さを背中に感じながら、招待状の山へ戻る。
手のひら返しの封筒は、白、薄桃、金、そして妙に濃い紅。
封蝋の薔薇は、どれも花弁が整っているのに、棘だけがやけに目立つ。
廊下の向こうから、使用人たちの小声が漏れた。
「王太子派の奥方方が勢揃いですって」
「ローゼンベルク伯爵夫人の会合だとか……」
わたくしは、指先で封蝋を撫でた。棘が指腹に引っかかる。
前世の画面が、また揺れる。
乾杯の前、誰かの手が震える。置かれるカップの位置が、ほんの少しだけ違う。
そこから先は、いつも早い。笑い声が途切れ、息が詰まり、色が変わる。
怖い。
怖いのに、目を逸らせない。
わたくしは、破滅ルートを折ったはずなのに、世界は別の角度から同じ刃を差し込んでくる。
「行くべき理由は、ありますか」
自分の声が思ったより低かった。
「ある、向こうの手札を見せてもらう」
クロード様は即答した。
「君を盾にする気はない、だが君の目は必要だ」
胸の奥が、熱くなって、次の瞬間に冷える。
必要と言われて嬉しいのに、必要とされる場所が危険だ。
「毒の匂いがする、と言えば信じますか」
わたくしは笑って言ったつもりだった。声が少しだけ割れた。
クロード様の目が、僅かに鋭くなる。
机上の紙ではなく、わたくしの喉元を見ている目だ。
「匂いの正体を知っているなら、隠すな」
「……今は言葉が足りません」
「足りないなら、手で補え」
クロード様が、招待状の余白を指で叩く。
日付。会場。主催。出席者の名簿。
盤面の情報は、ここにある。
「条件がある、護衛はつける、席順と給仕の動線を頭に入れろ」
「承知いたしました」
「飲み物から目を離すな、君自身もだ」
その言葉が、痛いほど優しい。
わたくしは、封筒の名をもう1度見た。
ローゼンベルク伯爵夫人、薔薇園にて、貴婦人茶会。
深く息を吸って、吐く。
逃げるためではなく、歩くための呼吸だ。
「承りましたわ、婚約者として、きちんと笑ってみせます」
「そうしろ」
クロード様の視線が、例の椅子をかすめ、わたくしに戻る。
「私の隣で」
封蝋の棘が、指に小さく痛みを残した。
この招待状は、ただの社交ではない。誰かが次の章を始める合図だ。
――やはり。ここは、まだゲームと同じ地雷原の上なのだ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。次回、薔薇園の茶会で“誰が誰を狙うのか”が動きます。面白かった、続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】からの評価&ブックマークで応援いただけると執筆の励みになります。感想も大歓迎です。




