第3話 政略婚の条件と、まだ座らない椅子
「この椅子に、座るかどうかを」
クロード様の声が、首筋に冷たく触れた。
振り向けば、黒髪と銀縁眼鏡が距離を詰めている。噂通りの腹黒宰相。けれど噂より静かで、噂より目が醒める。
「……わたくしに、決めろと」
「決めろ、だが意味を理解してからだ」
机の隣、空席の椅子を顎で示す。王城の議場と同じだ。椅子は家具ではなく立場だと、この男は言外に告げている。
わたくしは手袋の中で、あの紙の角を押さえた。
庭の匂いがする、と言い当てられた脅し文。見せてもいないのに。
管理下だ、と言われても不思議ではない。むしろ遅いくらいだ。
「嫌なら今すぐ帰れ、とおっしゃいましたわね」
「そうだ」
「帰りません」
自分の声が、思ったより澄んでいた。
怖いのに、引き返したくない。鎖の気配がするのに、視線を外せない。前世の画面にはなかった選択肢が、現実には山ほどある。
クロード様は息を吐く気配すら控えめに、机の向こうへ回った。
椅子に腰を下ろす動きが無駄なく、背筋がやけに真っ直ぐだ。目線だけがこちらを測り、書類を読むようにわたくしを読む。
「では条件を聞け、今日のうちに決める」
「こちらも条件を出しますわ」
わたくしが言うと、眼鏡の奥の瞳が僅かに細くなった。驚きではない。想定内だという顔。
「まず、エルネスト家を人質のように扱わないこと」
「当然だ」
「家を盾にすれば、君の思考が鈍る」
即答が、冷たいのに妙に優しい。
胸が跳ねて腹立たしい。安心してしまう自分が、いちばん危ない。
「次に、わたくしの身辺警護は貴殿の責任で手配すること」
「侯爵家の護衛では防げない、と言っただろう」
また言い当てる。
わたくしは唇の裏を噛んだ。知られている。どこまで。
「そして婚約は形式だけでは終わらせない」
「終わらせたくないなら、ですけれど」
「……ほう」
「わたくしは飾りではありません、噂の素材でもありませんの」
言い切った瞬間、胸の奥が熱く震えた。
感情が前へ出るのは苦手だ。けれど今ここで引いたら、また誰かの台本に戻る。
クロード様は指先で机を軽く叩いた。音が小さいのに、室内の空気が整列する。
ベルが鳴り、オスカーが無音の足取りで紅茶を運んできた。
銀器は磨き抜かれているのに、カップの柄は驚くほど地味だ。装飾で油断させない、という趣味なのだろうか。
わたくしは取っ手に触れる前に香りを確かめた。葉の渋みが立っている。甘い香りで誤魔化す茶ではない。
「慎重だな」
「生き残るには必要ですわ」
「その慎重さを、外でも保て」
その言葉が、未来の警告のように耳に残った。温かい湯気より先に、冷たい想像が喉へ落ちる。
「宰相の婚約者は、社交の看板ではない」
「政務の延長だ」
「ええ、そこは承知しておりますわ」
「承知していない者が多いから、確認する」
「君は明日から、私の執務の補佐をする」
明日から。息が詰まった。
甘い言葉ではない。褒美でもない。労働の宣告だ。
なのに、心が浮いた。
怖さと同じくらい、嬉しい。
わたくしは前世で、攻略対象の背後に積まれた書類を眺めるだけの観客だった。今は違う。触れていい。口を挟める。
「ひとつ、確認を」
「言え」
「わたくしを、盾にするおつもりは」
「ない」
「必要なら盾になるのは私だ」
言葉が刃のように真っ直ぐで、逆に信用したくなる。
そんなの、危険だ。信用は、契約より強い鎖になる。
「それはご立派な建前ですこと、では本音の勘定はどちらにお付けになるおつもり?」
わたくしの皮肉に、クロード様は口角を上げないまま目だけで笑った。
「本音を言えば、君の才覚が要る」
「殿下派の残党は、静観の皮をかぶって息を潜める」
「次に動くのは社交だ」
社交。
その単語で、背中が冷える。舞踏会の床。薔薇の香り。視線の棘。
「わたくしは、社交界で生き残る方法を知っていますわ」
「知っているだけでは足りない、誰かが君を消そうとする」
「消す、ですの」
椅子の噂が脳裏をよぎる。座った者が消える。
名誉も未来も役割も、簡単に消える。
わたくしは息を整え、わざと笑った。
悪役令嬢の仮面は、こういう時に役に立つ。
「筋書き通りに転ぶほど、退屈な女ではありませんので」
クロード様の視線が僅かに揺れた。感情ではない。興味だ。
その揺れが、わたくしの中の恐怖を別の形に変える。逃げではなく、挑戦の恐怖へ。
彼は顎で、例の椅子を示した。
「では座れ」
心臓が跳ね上がった。
ここで座れば、わたくしの札が貼られる。宰相の隣。誰も座らせない席。
わたくしは椅子へ近づき、指先を背に触れかけ――止めた。
そして、あえて立ったままカーテシーをする。
「まだ早いですわ、座るのはわたくしがこの席に値すると証明してから」
室内の空気が、また整列し直す気配がした。
クロード様は椅子を引いたまま、数拍置いてから口を開いた。
「……いい判断だ」
褒め言葉が、むしろ怖い。
けれど、胸の奥が少しだけ軽くなる。座らなかった。選んだのは、わたくしだ。
「条件は概ね合意とする」
「住まいは当面、侯爵家でよい」
「だが護衛と連絡網は私が握る」
「監禁ではありませんのね」
「必要ならする、だが君は檻の中で腐るタイプではない」
言い切られて、悔しいほど当たっている。
クロード様はベルを鳴らし、オスカーを呼んだ。
執事が静かに入室し、短い指示が飛ぶ。言葉は少ないのに、屋敷が動くのが分かる。
「明朝、執務室で」
「遅れるな」
「承知しましたわ」
退出を促され、わたくしは廊下へ出た。
屋敷の静けさが、さっきより耳に痛い。わたくしの足音だけが、契約書の署名みたいに残る。
曲がり角で、使用人たちの囁きが聞こえた。
「例の伯爵夫人のお茶会……閣下の婚約者様も、お出になるとか」
「まあ、王太子派の奥方も多いと聞きますわ」
紅茶、という単語が混ざった。
脳裏に、白いカップの縁が浮かぶ。次の瞬間、そこへ黒い染みが滲む幻が走った。
わたくしは足を止めた。
前世の記憶が、映像のように差し込む。笑顔。乾杯。静かな悲鳴。
まだ何も起きていないのに、喉が乾く。
背後から、扉の開く音がした。
振り向く前に、あの低い声が落ちる。
「招待状は届く」
「君は行け」
「私の婚約者として」
命令は淡々としているのに、逃げ道を塞ぐ鍵の音がした。
わたくしは笑みを作った。
怖い。けれど、退屈よりはずっといい。
「……承りましたわ」
ここまでお読みくださりありがとうございます! レティは座らない椅子を選びましたが、次は社交界の茶会が舞台です。『この続きも見届けたい』と思っていただけたら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価と【ブックマーク】で応援して頂けると、とても励みになります。皆さまの反応が次話の熱量になります。




