第7話 公開裁判と、宰相の隣の椅子
鐘が鳴った瞬間、広間の空気が凍った。
玉座の前に据えられた椅子は、ただの家具ではない。
黒く塗られた背もたれは高く、足元だけがやけに開けている。
座った人間を、誰にでも見せるための形だ。
処刑台ではないのに、処刑台にしか見えなかった。
扉が閉まる音が、外の世界を切り離す。
天井の高みには紋章旗が垂れ、蝋燭の匂いが甘く刺さった。
貴族席の扇が風を作り、庶民席の呼吸がそれに押し返される。
視線は波だ。
押し寄せて、足首に絡みつく。
わたくしの隣に並ぶはずだった椅子。
執務室で、まだ触れさせてもらえなかった椅子。
その代わりに、ここでは罪人候補の椅子が用意されている。
世界が、わたくしをまた同じ役に戻そうとしている気がした。
護衛の手が、わたくしの肩を押す。
鎖の重みが手首に残っている錯覚が抜けない。
罪状は「国家反逆」と「横領」。
短い言葉なのに、胸の奥を削る刃だけは鋭かった。
前を歩くクロード様が、振り向かずに言う。
「目を逸らすな」
「逸らしませんわ。逸らせば負けますもの」
役人が棒の先で椅子を示した。
「被告人、席へ」
そのとき、靴音が床を割った。
クロード様が前へ出る。
黒い外套の裾が揺れ、広間の視線がそこへ吸い寄せられる。
彼の表情は冷たいままなのに、声だけが微かに荒れていた。
「待て」
「宰相閣下、手続きに従え」
「従う。だからこそ申し上げる」
クロード様が玉座へ向けて頭を下げた。
「陛下」
「彼女は宰相補佐であり、この国の未来を共に担う者だ」
「せめて、私の隣に座らせていただきたい」
ざわめきが波になる。
貴族席の扇が止まり、庶民席の息が揃う。
わたくしの喉だけが、音もなく乾いた。
胸の奥が痛いのに、姿勢を崩せない。
この椅子は、崩れた人間から先に折れる。
王は答えない。
沈黙が、時間そのものの重さになって落ちてくる。
やがて、玉座の指が軽く動いた。
「宰相の要請を認める」
広間が揺れた。
役人が青ざめ、椅子が軋む音がする。
黒い被告席が横へ滑らされ、代わりに宰相席の隣へ、別の椅子が運ばれる。
ほんの少しの距離なのに、世界が反転した気がした。
わたくしの呼吸も、そこでやっと戻る。
わたくしは導かれるまま、クロード様の隣へ座った。
背筋を伸ばした瞬間、彼の指が机の端を叩く。
とても小さな合図。
逃げるな、見ろ、覚えろ。
そう言われた気がして、胸の震えが別の形に変わった。
裁判官が宣誓文を読み上げ、鐘が再び鳴る。
証言が始まった。
「彼女に命じられました」
腐敗した貴族が、ためらいなく言う。
「福祉基金の金を移し替えろと」
「反対すれば、宰相の権威で潰すと」
言葉は整いすぎていた。
怖いほどに滑らかだ。
紙に書かれた台詞を、暗記して吐き出している。
誰かが用意した筋書きの匂いがした。
次の証人は教会側だった。
白い法衣の胸元に、薔薇を模した飾りが光る。
その薔薇は、祝福の花というより、刺すための飾りに見えた。
「彼女は平等の理念を利用したのです」
「民に向けて、秩序を壊す言葉を撒いた」
「物語を正すために……いえ、教義のためにと」
今、変な言い回しが混じった。
証人は自分で気づいたのか、咳払いで言葉を切る。
けれど、もう遅い。
広間のどこかで、誰かが薄く笑った気配がした。
わたくしの背中に、冷たい指が触れたような感覚が残る。
市民代表として呼ばれた男は、帽子を握りしめたまま震えていた。
「俺たちの区画に、ビラが降ってきた」
「宰相邸の印があるって」
「孤児院の子が泣いてた。裏切られたって」
庶民席から嗚咽が漏れる。
わたくしの胸も同じように痛む。
あの子たちの涙は、偽物の帳簿よりずっと重い。
今すぐ立って否定したいのに、発言を求めても裁判官は視線すら寄こさない。
わたくしは罪人候補で、椅子に縛られた飾りだ。
そういう構図を、誰かが丁寧に作っている。
クロード様の声が広間を切る。
「証言の形式は整っている。だが、内容が噛み合っていない」
「福祉基金の出納は、監査局と会計局の承認が必須だ」
「被告が単独で動かせる仕組みではない」
「署名が本物でも、帳簿が本物とは限らない」
彼は数字と法の言葉で、淡々と矛盾を並べる。
それでも貴族席は冷笑で返した。
「宰相が守りたいだけでは」
「婚約者に情が移ったのだろう」
その瞬間、わたくしの感情が大きく揺れた。
怒りより先に、怖さが来る。
クロード様が、わたくしのせいで傷つけられる。
その想像だけで、息が詰まる。
ここでわたくしが崩れれば、彼の盾に穴が開く。
そう分かっているのに、手が震える。
わたくしは彼を見上げた。
彼は、こちらを見ない。
けれど指先が、椅子の肘掛けの内側を確かめるように触れた。
あれは癖だ。
決める前に、必ず触れる。
わたくしは知っている。
だからこそ、彼が今、決めていることの重さが分かる。
「情で動くなら、そもそも私はここに立っていない」
クロード様の声が低くなる。
「感情論は嫌いではない。ただ、それだけでは裁けない」
「ならば諸君も、同じ条件で話せ。証拠を出せ」
裁判官が木槌を打ち、鐘が短く鳴った。
休廷の合図だ。
人々がざわめき、記録係の机がきしむ。
若い書記官が羽ペンを走らせ、墨の匂いが立つ。
その手が、誰も話していない瞬間にも動いた。
余白に、何かを足している。
わたくしの視界の端で、インクが小さく滲んだ。
休廷の間、クロード様はわたくしの方へ身を寄せた。
声はほとんど、息の温度だけだ。
「今は耐えろ」
「耐えるのは得意ですの」
「得意であっても、今後は癖にするな」
胸の奥が熱くなる。
助けられることに、まだ慣れない。
けれど隣の椅子は、逃げ場ではなく居場所だ。
そう理解した瞬間、涙が出そうになって、わたくしはまぶたの裏へ押し込めた。
わたくしが泣けば、誰かが勝利の合図にする。
それだけは嫌だ。
鐘が鳴り、審理が再開する。
裁判官が紙をめくり、次の証人名を淡々と告げた。
「元王太子アーサーを召喚する。続いて、マリア・ベルを」
広間が別の意味でざわついた。
わたくしの心臓が、椅子の中で跳ねる。
これは証言か、それとも新しい刃か。
クロード様の隣で、わたくしは初めて、次の鐘の音が怖いと思った。
ここまでお読みくださりありがとうございます。第4部は脚本どおりの動乱を、レティとクロードがどう書き換えるかが山場です。次話はついに、あの人物が表舞台へ。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで応援いただけると励みになります。感想も一言だけでも大歓迎です。




