第5話 もしも王都が燃えたなら
箱の底から出てきた紙束の表紙に、黒いインクで書かれていた。
『王都炎上 段取り』。
紙の端には、小さな薔薇の印が押されている。棘が強調された、不吉に整った意匠。
前話で壁の地図に引いた赤い線が、脳内で勝手に脈打った。金と信仰と貴族派閥。それが、火へ繋がる。
次の頁をめくった瞬間、わたくしの胃が冷えた。
火の回り方まで、決められていたからだ。
市場、路地、橋、倉庫、そして――孤児院。
合図は鐘。群衆の導線。逃げ道を塞ぐ柵の位置。魔術灯の破壊順。
さらに別紙で、同じ文体のビラ原稿が束になっている。正論の皮を被った煽り文句。末尾の署名欄は空白だ。
罪を被せる名まで、用意されている。
その欄に、わたくしの名前があった。
「レティシア、顔色が落ちたな」
背後から低い声。振り向くより先に、クロード様の指が紙の角を押さえた。
「……落ちても不思議はありませんわ」
「脅しに見えるか」
「脅しではなく、設計図です」
椅子の背が、掌に痛い。わたくしは立ったまま、息を整えるふりをした。
あの夜。断罪の舞踏会の天井から落ちてきた光の粒が、いまは火の粉に見える。
攻略画面では、ここで王都が燃えた。燃えて、終わった。
けれどこの紙は、画面ではない。燃えるのは、実際の人だ。
クロード様は無言で、別の束を引き寄せた。
そこには、きれいすぎる帳簿の写し。福祉基金、孤児院支援、施薬院――わたくしが触れてきた項目ばかり。
署名は、わたくしの筆跡に似せてある。似ているのに、どこか冷たい。呼吸の温度がない文字。
「……これで、わたくしを焼く前に縛るつもりですのね」
声が平坦になった。怒りより先に、理解が来る。理解は、痛い。
「縛らせない」
「また、その言い方」
「必要だからだ」
クロード様の視線は、紙の上ではなく、わたくしの指先に落ちた。
震えは隠せない。机の上の文字列が、炎の匂いを持ち始める。
彼はもう1つの箱を開けた。封蝋の欠片と、煤の匂いが混じった布包み。
中から転がり出たのは、黒い珠だった。光を吸うような暗さで、指先が冷たくなる。
「それには触れるな」
制止は遅かった。珠に触れた瞬間、視界が揺れた。
石畳が赤い。空が低い。煙が舌にまとわりつく。
鐘が鳴る。祝福の音ではなく、逃げ道を塞ぐ音。
泣き声と怒号の間に、誰かが叫ぶ。
――悪役を焼け。
わたくしの喉が勝手にひきつる。足が動かない。炎の向こうに、孤児院の窓が見える。
子どもの影が、手を振った。助けを求めているのに、声が届かない。
燃え上がる屋根の下で、誰かが笑った。正義の顔で。
「レティシア」
名前で引き戻された。肩に回った腕が、熱をくれる。
クロード様の外套が煙の幻を押しのけ、現実の空気が戻る。
わたくしは珠を落としそうになり、指を丸めて握り潰した。
「……見ました」
「見せられたな」
「わたくしが……また、燃料になる未来を」
言葉にした途端、胸の奥が崩れた。
泣くまいと歯を噛んだのに、息が震える。情けない。けれど、怖い。
改革の数字や条文では埋められない種類の恐怖がある。炎は論破できない。
「燃やさせない」
クロード様は短く言った。短いのに、命令の形をしていなかった。
わたくしを宥めるための甘さでもない。事実の宣言だ。
「……その根拠は」
「根拠なら、ここにある」
彼は計画書の余白を指でなぞった。そこには、暗号めいた書き癖があった。
句読点の位置、同じ単語の癖、無駄に丁寧な敬語。紙の上の人格。
さらに、欄外に走り書きされた合言葉がある。
根に報せよ。花弁を散らせ。棘は静かに笑え。
意味を考える前に、背中が冷えた。言葉だけで血の気が引く。
そして、欄外に残る名。
ラグナード将軍。
ヴァレンシュタイン公爵ゲオルグ。
セラフィヌス大司教。
決定打にはならない。けれど、疑いの種としては充分すぎた。
「……誰を疑わせたいのか。そこが先ですわね」
「同意だ。だから今夜、書庫へ行く」
「今夜」
「紙の嘘は、紙で裂く」
クロード様がそう言って、わたくしのほうへ椅子を引いた。
宰相の隣の椅子。まだ正式に座ったことがない場所。
けれど今日は、立っているほうが怖かった。わたくしは黙って腰を下ろす。
革の冷たさが背骨に伝わり、呼吸が戻る。怖いのに、ここが安全だと体が覚えてしまうのが悔しい。
「行きます。……置いていかないでください」
「置くわけがない」
返事が、やけに静かだった。静かすぎて、独占に聞こえた。
夜の書庫は、紙の匂いが濃い。灯りは魔術の小さな火で、燃え移らないよう硝子に閉じ込められている。
クロード様は古文書の束を机に置き、例の珠を布の上にそっと載せた。
「この珠は、黒薔薇の宝珠に似ている。……似ているだけかもしれんが」
「似ているだけで、人は焼けますわ」
わたくしが吐き捨てると、クロード様は眉を寄せた。
怒ったのではない。痛みの場所を探る顔だ。
「若い頃、教会の倉で見た。押収品の整理をしていた時だ」
「教会の……倉」
「ああ。光薔薇教の奥に、妙な棚がある。そこに、筋書きの断片があった」
「その棚に、根も」
「名は覚えていない。だが、空気は覚えている。祈りのふりをした支配の匂いだ」
わたくしの背筋が凍った。
筋書き。そんな単語を、彼が口にするはずがない。はずだった。
この世界で、脚本という概念を自然に口にできるのは……わたくしのはずだった。
「……それを、読んだのですか」
「読めたとは言えん。だが、忘れられない文がある」
クロード様は古文書の頁をめくり、指先である行をなぞった。
わたくしは、その動きに既視感を覚えた。画面のテキスト送り。指先で世界を進める所作。
「こう書いてあった。『楽園とは、選べぬ未来を手放した者にだけ開く』」
息が止まった。
その文は、前世のゲームで見た。トゥルーエンドの最後に、淡い文字で浮かぶ台詞。
攻略サイトにも載らない、隠し条件の先。わたくしが誰にも言わなかった、画面の終端。
わたくしの視線が、クロード様の横顔に貼りつく。
この人は、なぜ知っている。
なぜ、その言葉を、いまのタイミングで、こんなふうに言える。
わたくしが特別だと思ってきた部分が、静かに崩れていく。代わりに、別の恐怖が立ち上がる。
脚本を知る者は、わたくしだけではない。そうなら、敵もまた――。
「レティシア」
呼ばれて、わたくしはやっと瞬きをした。
「……その文を、誰かに教わったのですか」
「いや。教わっていない。だが――」
クロード様が続きを言う前に、扉が叩かれた。
規則的で、遠慮のない音。宰相邸の者の手つきではない。
「宰相閣下。王城監査局より、急使です」
執事の声が、書庫の静けさを割った。
クロード様の指が、布の上の珠から離れる。
彼は立ち上がり、扉の隙間から差し出された封書を受け取った。
赤い封蝋。薔薇ではない、王城の印。
封を切る音が、やけに大きい。
紙を開いたクロード様の目が、ほんの少しだけ暗くなった。
「……来たか」
わたくしの名が、文頭にあった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。封書の中身で、レティシアの立場が一気に揺れます。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】から評価&ブックマークで応援していただけると執筆の励みになります。




