第4話 薔薇で覆われた地図
赤い糸が、王都の地図を喰っていた。机の上に広げた紙ではない。壁を覆うほどの巨大な地図に、釘と糸で脈が走り、血のように滲んで見える。
「見ないふりは出来んか」
「出来ません。見ないふりをした人から刺されます」
クロード様の眼鏡が、赤い線を追って僅かに光る。わたくしは息を呑んだ。線が結ぶ先は、街の外れの倉庫だけではない。教会の施療院、寄付を集める福祉基金、貴族の集会所。善意の顔をした場所ほど、糸が太い。
釘に留められた札には、見覚えのある名前が並ぶ。毒を混ぜた伯爵夫人の茶会、金環会の倉庫、帝国神殿で押収した聖具の出所。別々の事件だと思っていた傷が、赤い線で縫い合わされていく。
監査局長バルトロメウスが、帳簿の写しを差し出した。紙の端に押された印が、薔薇の花弁を思わせる。指先が冷える。
「福祉基金の入金に、送り主不明が混じっております」
声が、無駄に落ち着いていた。数字の番犬は、感情を混ぜない。
地図は国の皮膚で、赤い糸は血管だ。そこへ病巣が入り込むと、見た目だけは健康に見える。熱が出る頃には、もう全身に回っている。
「病巣、か」
「ええ。……切るなら、血管ごとではなく、病巣だけ」
クロード様が唇だけで笑った。笑うべき時ではないのに、その表情はわたくしの胸の奥を少しだけ整える。
地図の端には小さな紙片が留められていた。孤児院の寄付台帳の控え。わたくしの署名が、丁寧に真似られている。
胸の奥が沈んだ。舞踏会の灯りの下で、わたくしの名が悪役として呼ばれた時と、同じ重さ。
けれど今は、糸の先にいる誰かを想像出来る。わたくしの名で金が動けば、孤児院の子どもたちが最初に傷つく。
「……誰が、これを」
クロード様は答えなかった。代わりに紙片を外し、折り目を伸ばす。慎重なのに、怒りが透ける手つき。
「君の字を真似た者は、いずれ自分の首も縛る。俺が引きずり出す」
その言葉だけで、胸の底の冷えが少し緩む。彼の手が、わたくしの指先を覆った。熱が戻る。
ぞわりとした。まだ何も起きていない。けれど、起きる前から形が出来ている。
前に似た感覚があった。山道の宿で、机に地図を広げた夜。机の地図は揺れない、と冗談めかして言った時。揺れていたのは、わたくしの心臓だった。
「……勝ち筋を示せるか」
クロード様の問いは短い。答えを急かすのではなく、わたくしが立っていられる足場を確かめている。
「示します。……ただ、敵は街角の若者ではありません」
赤い糸は下から上へも伸びている。炎は路地で上がる。だが火種は、もっと高い椅子の下で乾いていた。
わたくしはクロード様の隣の椅子に手を置いた。空席に見えるのに、そこには責任が座っている。
扉が開き、会議室の空気が変わった。
「宰相閣下。軍は準備が出来ている。暴徒の芽は潰す」
ラグナード将軍が地図を見下ろす。黙っていられない軍部強硬派の代表だ。言葉の速さが、彼の正義感の直線を示していた。
「芽を潰すのは簡単ですわ」
「なら」
「芽を潰した手で、明日のパンを焼けますか」
将軍の眉が跳ねた。
「反乱を見たことがあるか」
「あります。そして反乱より先に、飢えを見ました」
口から出る声は冷たかった。社交の扇子ではなく、ここでは数字と地図が武器だ。
続いて、香水の残り香を連れて男が入る。王の従兄弟であるヴァレンシュタイン公爵ゲオルグ。礼儀は完璧で、微笑は穏やかで、視線だけが硬い。
「改革とは、民のためのもの。だからこそ急ぎ過ぎてはならない」
正しい。正しい言葉は、いつだって遅さの盾になる。
「急いでいるのは……わたくしではなく、敵のほうですわ」
公爵の指が赤い糸の束に触れた。まるで傷口を撫でる医者のように、躊躇がない。
最後に、祭服の影が差す。王都教会の顔であるセラフィヌス大司教。口元に慈愛を乗せながら、その慈愛で人を裁ける目をしている。
「民の怒りは、信仰の試練でもあります」
「試練を与えるのは神で、あなたではありません」
沈黙が落ちる。耳に残るのは、糸が微かに震える音だけだった。
「……古い伝承をご存じですかな」
大司教が囁く。
「教団には、世界の筋書きを読んだ者がいた、と」
背中に氷を流し込まれた気がした。
前世の画面。選択肢。分岐。炎上の結末。わたくしだけが知っているはずだった筋書きが、別の誰かの手にも渡っていたら。
この部屋の誰かが、わたくしと同じ種類の目を持っているのなら。
喉が渇く。けれど、ここで怯えた顔を見せれば、それもまた糸で縛られる。
「伝承は便利ですわね。責任の所在を煙に出来る」
言い切って、わたくしは地図を指した。赤い糸の交点。金と信仰と派閥が重なる場所。
「読むなら、まず現実から。……この交点を切ります」
人払いのあと、クロード様がわたくしの肩へ外套を掛けた。指先が熱い。熱いのに、押し付けがましくない。
「顔が白い」
「白いのは紙だけで足ります」
自分でも驚くほど、声が震えなかった。
「今夜、王都教会の古文書庫を見たいです。教団の古参が何を『読んだ』のか……確かめたい」
クロード様は頷いた。止めない。止める代わりに、隣に立つ。
「なら、俺も行く。君が読まされる側に回るな」
短い言葉が、胸の奥の糸を切った気がした。
返事の代わりに息を吐くと、彼の眼鏡の鎖が微かに鳴った。仕事の音なのに、今はお守りの鈴みたいに聞こえる。
背中を押す力が、軍でも法でもなく、この人の静かな執着だと気付いてしまう。
わたくしは再び地図へ向き直った。赤い糸が絡み合う中、ある場所だけが異様だった。釘はある。紙のしわもある。なのに、線が0本。
まるで、書き込む前の白紙のように。
指を伸ばした途端、背後でクロード様の声が低く落ちた。
「そこは……触れるな」
なぜ。
問いが口になる前に、壁の地図が灯りを吸い込み、空白だけが暗く深く見えた。
ここまでお読みくださりありがとうございます。レティの空白の正体、そしてクロードが止めた理由――次話で一気に踏み込みます。面白かった、続きが気になったと思っていただけたら、広告下の【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆評価】で応援して頂けると励みになります。感想も大歓迎です!




