第12話 帰路の船と、揺れた世界のキス未遂
「この先、自分で選んだ物語を歩きなさい」
リディア殿下の声は、港の風よりも冷たく澄んでいた。なのに胸の奥では、言葉が鈍い痛みになって反響する。まるで、誰かに台詞を置かれたみたいに。
帝都フェルディアの軍港は、出航の喧騒で満ちていた。帆の軋み、鎖の鳴る音、号令。見送る旗の色すら整いすぎていて、わたくしは無意識に手袋の縁を握り込む。
「レティシア、聞いているの」
「ええ、殿下」
笑みは作れた。けれど喉が乾く。昨日、ユリウス殿下の求婚を断ったばかりだ。あの真っ直ぐな眼差しを思い出すたび、罪悪感と安堵が同じ速さで胸を刺す。
リディア殿下は、わたくしの両手を包んだ。指先が強い。研究室で紙を裂く人の手だ。
「貴女は賢い。賢いから、選べない顔をする。けれど選ばないことも選択よ」
その目が、わたくしの奥の奥を見抜く。
「次に揺れるのは、海じゃない。……気をつけて」
最後の囁きだけ、皇女としての仮面が落ちた。
汽笛が鳴り、舷側の影が伸びた。わたくしは深く礼をして、船へと足を向ける。
背中に、帝都の灯りが刺さる。あの街は鏡だ。似ていて、歪んでいて、目を逸らしたら自分の国の傷まで見失う。
甲板へ出ると、クロード様が既に護衛と航路の確認をしていた。黒い外套の裾が風に揺れ、横顔は宰相そのものだ。なのに、こちらを見た瞬間だけ、視線の温度が変わる。
「無事に乗り込みました」
「よろしい。……寒くないか」
その問いが不意打ちで、胸がほどけそうになる。
国と国の別れ際に、そんな言葉を挟む人ではなかったはずなのに。
「平気ですわ」
「ならいい」
短い返事。けれど、その先が続かない。わたくしの答えを待つように、彼の沈黙が寄り添ってくる。
錨が上がり、船はゆっくりと帝国の岸を離れた。波が砕け、軍港の灯が遠ざかる。
昨日まで、わたくしは帝国に救いも見た。ユリウス殿下の理想も、リディア殿下の痛みも、嘘ではなかった。
それでも、わたくしの椅子は王国にある。クロード様の隣の、あの硬い椅子に。
夜が落ちた。星が水面に散り、船底の振動が足裏を撫でる。
行きの航海でも、同じ夜を見た。けれど今夜は、世界の輪郭が薄い。目の端が、時々、妙に明るくなる。
人の気配が減った頃、クロード様が甲板へ現れた。護衛は距離を取り、潮風だけが会話の壁になる。
「……来たのですね」
「仕事が切れた」
それだけで、胸が熱い。わたくしは手すりへ寄り、星を映す海を見下ろした。揺れる黒い鏡だ。
「帝国は、この水面に映る王国みたいなものかもしれませんわね」
以前の言葉が、口から滑り出た。わたくしの中で、同じ構図をなぞらせる何かがいる。
「映っている空は同じでも、沈むのは水の方だ」
クロード様は淡々と答えた。いつもの比喩。いつもの冷静。けれど今夜は、その冷静が少しだけ脆い。
沈黙が落ちる。波が舷側を叩く音が、拍子みたいに規則正しい。
わたくしは言ってしまう前に、唇を噛んだ。帝国で起きたことを、全部、共有したい。けれど共有した瞬間に、彼がまた宰相に戻ってしまう気がした。
先に崩したのは、クロード様だった。
「帝国の皇太子に負けたくないと思っている時点で、私は宰相として失格かもしれん」
呼吸が止まった。嫉妬という単語が、こんなに静かに落ちることがあるのだろうか。
「……クロード様」
「国のためではなく、私個人の願いとして、そなたに隣にいてほしい」
その言い方は卑怯だ。国を盾にしない。正しさにも逃げない。
胸の奥が、大きく揺れた。嬉しいのに怖い。ここまで来てしまったら、戻れない。
わたくしは手すりから指を離し、彼へ向き直った。距離が近い。潮の匂いの奥に、彼の香木の匂いが混じる。
「わたくしは……もう選びました。王国も、貴方も」
声が震える。隠したいのに隠せない。
クロード様の瞳が細くなる。喜びを隠す表情なのに、隠しきれていない。
「なら……」
彼の手が伸びる。頬に触れる直前で、指が躊躇いを捨てた。
温かい。熱がある。宰相の手ではなく、男の手だ。
唇が近づく。星の光が、まるで祝福みたいに揺れる。
わたくしは目を閉じた。
――船が、跳ねた。
足元の板が持ち上がり、世界が斜めになる。体が傾く。クロード様の腕が咄嗟に腰を抱いた。
その瞬間、視界が真白に焼けた。
文字列。輪郭のない枠。聞き覚えのある硬質な音。
そこに、短い表示だけが浮かぶ。
END。
心臓が冷える。息が吸えない。あの画面は、わたくしの前世の指先が何度も見た終幕だ。
終わらせるな。
喉の奥で叫んだのに、声にならない。
わたくしはクロード様の外套を掴み、爪が沈むほど握り込んだ。自分の肉体の痛みで、ここに繋ぎ留める。
ここで終幕にはさせない。
白い光が引き、星空が戻る。波の音が戻る。クロード様の腕の力が戻る。
わたくしはようやく息を吐いた。
「レティシア、どうした。顔色が」
「……大丈夫ですわ。少し、眩暈がしただけ」
嘘だ。けれど今は、真実を言えない。言えばこの夜が壊れる。
クロード様は納得しないまま、額へ指を当てた。冷たくもなく熱くもない。なのに、その仕草が優しすぎて泣きたくなる。
「無理をするな」
「はい」
返事が掠れた。
キスは未遂のまま、潮風だけが口元を撫でた。甘さの代わりに、不穏が舌に残る。
その後、船は荒れた海域を抜け、朝の光が甲板を白く塗った。
わたくしは何度も、昨夜の表示を思い出してしまう。END。あれは嵐の揺れが見せた幻か。それとも、聖遺物の余波か。
考え始めると、世界の縁がまた薄くなる気がして、わたくしは指先で手すりの木目をなぞった。
昼過ぎ、見張りの声が上がった。帝国の小型艇が横付けされる。旗は皇城のもの。伝令が、濡れないよう油布で包んだ書状を差し出した。
受け取った封は重い。封蝋は赤く、薔薇の紋が押されている。
宛先は王国宰相府。けれど同封の短い紙片には、リディア殿下の筆跡があった。
「届く前に読んで。貴女には必要だから」
それだけ。説明はない。あの人らしい。
わたくしは油布を外し、同封物を確認した。穏健な文面の提案書。聖遺物管理の共同委員会。軍部の暴走を抑えるための議会手続。帝国が本気で和平を守ろうとしている痕跡だ。
胸が少しだけ軽くなる。救いは、まだ残っている。
けれど、最後に挟まっていた薄い紙が指に触れた瞬間、その軽さは消えた。
粗い紙。印刷の匂い。端に、黒い薔薇の簡素な刻印。
題は短い。
平等。
そして文頭に、見覚えのある比喩があった。
庭を正すための剪定。世界の筋書きを正すための痛み。
地下回廊で聞いた、あの穏やかな声の言葉の癖だ。
わたくしの背筋が凍る。帝国の火種は鎮めたはずなのに、火は別の場所へ移っている。
紙は薄いのに、掌が重い。
甲板の先で、海が光る。星のない昼の水面が、昨日の夜よりも不気味だ。
揺れているのは、海だけではない。世界そのものが、少しずつ、誰かの手で書き換えられようとしている。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。帝都で芽吹いた火種は、帰路の船で形を変えました。あの『平等』の紙片が、王国で誰の手に繋がっているのか――次回、答えが動き出します。面白かったら広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで応援いただけると励みになります。感想も1行でも嬉しいです。




