第11話 庭園の求婚と、選び直す国と男
「政治を抜きにしても、僕は君を選ぶ」
帝都の内庭は、夜の石の冷たさを忘れたみたいに陽を吸っていた。白い薔薇の香りが淡く漂い、噴水の音が、昨夜の追跡の靴音を上書きしていく。
けれど、胸の内のざらつきだけは消えない。地下回廊の粉塵。黒い核の震え。あの闇から届いた声の低さ。
そして、目の前の青年の視線の熱。
断罪されるはずだった悪役が、帝国の未来として求められる。立場が裏返って、笑い方を忘れそうになる。
ユリウス殿下は、いつもの軽さを捨てていた。肩にかかる金の飾りも、今日は目立たない。ここは式典の舞台ではなく、告白の場所だと宣言しているみたいだった。
「……殿下。ご冗談を言う空気ではありませんわ」
「冗談なら、君の顔を見てから言う。今の君は、笑えない」
言葉が刺さる。笑顔を作る癖が、社交界で生き延びるための鎧だと見抜かれた気がした。
わたくしは庭の小径に視線を落とす。足元の砂利は丁寧に均され、薔薇の枝は短く整えられている。剪定。昨夜、大司教が口にした、あの嫌な比喩が蘇る。
庭を正すための剪定。
世界を正すための剪定。
それを、穏やかな声で言える人間がいた。
殿下の背後、少し離れた場所に護衛が控えている。視線は外へ向け、聞かぬふりを徹底していた。帝国のやり方は、いつも正しく、そして冷たい。
「昨夜の続きを、ここで言わせて」
「続きを……」
「僕は、君を欲しい。妃として。協力者として。政治の道具としても、そして……僕個人としても」
喉が鳴った。答える前に、息が乱れる。乱れれば弱さを渡す。わたくしはそうやって戦ってきたのに、今は剣も帳簿もない。あるのは、告白だけだ。
不思議だ。戦争の芽を折るための交渉より、こういう言葉の方が怖い。
だってこれは、勝ち負けの形が、目に見えない。
「君の国を思う姿勢が、僕には眩しかった。帝国のために君を欲しい、と最初は思った」
殿下は少し間を置き、視線を逸らさずに続けた。
「でも途中で気づいた。君は、僕の帝国を救うための駒じゃない。君は君で、誰の台本にも従わない」
台本、という言葉が胸に落ちる。
昨夜、闇の奥から聞こえた声が重なる。
脚本を書き換えようとする者は、どの世界にもいる。
わたくしは、書き換える側だ。破滅を避けるために。誰かの筋書きを踏み潰すために。
それなのに。
その書き換えが、誰かの恋の選択肢まで動かすなんて、想定していなかった。
「君と過ごした時間で、僕は自分の弱さも知った。平和を望むくせに、守るためなら冷酷にもなれる」
「殿下は……それを、誇っていらっしゃるのですか」
「誇ってない。だからこそ、君が必要だと思った。君の冷たさは、温度を残している」
褒め言葉の形をした、重い鎖。
帝国の皇太子妃候補として招かれた時から、こうなる可能性はあったのだろう。けれど、わたくしはずっと、別の危機だけを見ていた。
教団。軍部。聖遺物。黒い核。
恋の刃は、もっと静かに刺さる。
クロード様の顔が浮かぶ。
地下回廊で、わたくしの前に半歩出た背中。
殿下の外套が肩を覆った場面と重なって、胸が痛んだ。
守られることに慣れてはいけない。そう思っていたのに、守られた記憶が、こんなにも鮮明だ。
わたくしの足が、庭の端に置かれた白い鉄の椅子に触れた。飾り脚が細く、座ればすぐに折れそうな椅子だ。
それでも椅子は椅子で、誰かの場所を主張している。
王国の宰相執務室にあった、あの空席の椅子。
あの椅子は、重かった。責任と、信頼と、たぶん……恋の分まで背負わされていた。
わたくしは、まだ迷いなく座れていない。けれど、触れた指先が離れなかった。
殿下は、わたくしの沈黙を急かさない。噴水の水音だけが時間を刻む。
そして、その優しさが、逆に残酷だ。
選べ、と言われている。
もし前世の筋書き通りなら。
わたくしは悪役で、ヒロインが殿下を救い、帝国の物語に迎えられる。
でも今、殿下の視線はわたくしだけを捉えている。
世界はもう、原作の形ではない。
だからこそ、選び直しは、逃げ道がない。
「殿下」
声が、思ったより柔らかく出た。腹の奥が熱くなるのを、必死で抑える。
「わたくしは、ありがたく思っています。帝国が、王国を鏡のように見てくれたことも。殿下が、戦争を止めるために手を汚せる人だということも」
「なら」
「ですが……わたくしは、自分の国と、そこにいる宰相を選びました」
言い切った瞬間、肩の内側の筋がほどけた。恐怖が消えたわけではない。けれど、足元が固くなる。
選択肢が閉じる音がした。
ユリウス殿下は、目を細めた。怒りでも屈辱でもない。苦笑に近い表情だった。
「君は、残酷だね」
「残酷なのは、わたくしではなく……立場ですわ」
「そうだ。立場はいつも人を利用する。だから僕は、君に利用されたいと思ったのかもしれない」
そこで殿下は、短く息を吐いた。
「負けを認めるのは嫌いだ。でも、君とその男の選択は尊重しよう」
「……ありがとうございます」
礼を言うのは簡単だ。礼が、免罪符にはならないと知っていても。
「ただ、覚えていて。僕は帝国の皇太子で、君の国の敵にも味方にもなれる」
「脅しですか」
「宣言だよ。君が選んだ国を、君が守れるようにするための」
その言い方が、怖いほど真っ直ぐだった。
殿下は恋を、政略の包装紙で隠さない。隠さないから、痛い。
わたくしは深く頭を下げ、踵を返した。背中に視線が刺さる。振り向けば、揺らぐだろう。
揺らいだら、わたくしは王国にもクロード様にも嘘をつくことになる。
歩きながら、気づく。
クロード様の不在が、こんなにも大きい。
今この場で、彼の声が聞けたら、わたくしはもっと簡単に笑えただろう。あるいは、もっと乱れただろう。
どちらにせよ、隣にいてほしかった。
庭の出口で、黒い外套が待っていた。
リディア殿下だ。今日の殿下は飾り気の少ない衣で、目だけがやけに冴えている。
「顔を見れば分かる。言われたのね」
「……ええ」
「答えも」
「ええ」
リディア殿下は、わたくしの肩越しに庭を見た。噴水のきらめきが、刃のように光る。
「兄は、本気になると面倒よ。けれど、あの人は嘘をつかない」
「嘘をつかない方が、優しいとは限りませんわ」
「そう。だから」
殿下は、わたくしの手元に視線を落とした。指先が、まだ椅子の冷たさを覚えている。
そして、短く言った。
「国も、自分も、ちゃんと自分で選びなさい」
その言葉が、胸の奥の芯に触れた。
選んだ。選び直した。けれど、選び続ける覚悟は、まだ問われていない。
教団の最古参は逃げた。
皇帝ですら掴めない闇がある。
筋書きは、まだ終わっていない。
回廊を進むと、使いの兵が小走りで近づいてきた。形式ばった礼の角度が深い。
「侯爵令嬢レティシア。王国特使代表より、書状を預かっております」
封は黒。蝋の上に、見慣れた紋章。
指が震えそうになり、呼吸を整えてから受け取った。
紙は短い。けれど、言葉の温度だけで分かる。
執務室の声ではない。男の声だ。
『今夜、出航前に話がある。逃げるな』
逃げるつもりなどない。
ただ、あの人が何を言うのかを想像した瞬間、心臓が跳ねた。
揺れているのは、噴水でも花弁でもない。
わたくしの選んだ椅子が、今夜、わたくしを呼んでいる。
ここまでお読みくださりありがとうございます。殿下の求婚を退けたレティの選択が、今夜どんな答えを呼ぶのか――次話は「出航前の密談」。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで応援いただけると、執筆の燃料になります。




