第2話 宰相邸へ・空席の椅子の家
『庭は剪定される。棘に触れた者から。』
馬車の揺れに合わせて、膝の上の紙が微かに鳴った。
甘い匂いがまだ指先に残っているのが、不快だ。
昨夜の舞踏会の香水とは違う。薔薇でもない。もっと湿って、土に近い香り。
これを門扉に挟んだのは誰。
わたくしの喉元に触れた刃は、見えないまま移動している。
窓の外には、侯爵家の紋章を付けた護衛が並走していた。
父が付けた盾だ。けれど盾は、刺客を遠ざけるだけで、相手の正体までは教えてくれない。
指で紙の端を折り返し、裏面を確かめる。
何もない。ただの脅しだと笑えたら楽だったのに、笑えない。
脅しが、言葉の形をした合図にも見えるからだ。
前世の記憶が、勝手にページをめくる。
乙女ゲームの中で「庭」だの「棘」だのは、だいたい詩的な比喩だった。
けれど今の王都は、比喩で人が死ぬ。
昨夜だって、台詞と帳簿で王太子が落ちた。
宰相邸へ向かう道は、知っているはずの景色なのに、ところどころが違う。
舗装の石の模様。警備の人数。街角の掲示板に貼られた布告の文言。
小さなズレが積もって、世界が別の盤面に置き換わった気配がする。
攻略サイトにも載っていなかった宰相ルート。
その入口に、脅し文が落ちている。
わたくしは息を整えた。
怖がっている暇はない。怖いなら、怖さごと利用すればいい。
「お嬢様、間もなくでございます」
御者の声に、背筋を伸ばす。
わたくしは紙を手袋の内側へ滑り込ませ、表情を作り直した。
門が見えた瞬間、空気が変わった。
宰相公爵家の屋敷は、城の延長のように無駄がない。
高い塀。鉄の門。庭は整いすぎていて、風の通り道まで計算されている気がした。
歓迎の花はあるのに、甘い匂いが薄い。香りまで節約しているのかしら。
馬車が止まる。
門の向こうに並ぶ使用人たちが、わたくしを見て固まった。
視線の温度が揃っていない。
敬意、警戒、好奇心、恐怖。
混ざったまま、わたくしのドレスの裾に触れてくる。
先頭の老紳士が進み出た。銀縁の眼鏡ではない。けれど、目の奥が鋭い。
宰相付き執事、オスカー。
その名は社交界の噂で聞いていた。
「レティシア・エルネスト公爵令嬢。遠路お疲れでございましょう」
「ご丁寧に。わたくしは元気ですわ。噂よりはずっと打たれ強いのですもの」
言い切ると、何人かが息を呑んだ。
悪役令嬢が泣いてすがるのを期待していたのなら、残念だったわね。
オスカーは表情を動かさないまま、ほんの少しだけ顎を引いた。
それが礼に見えるのが腹立たしい。試されている。
「閣下は会議中でございます。先に執務室へお通しを」
「執務室へ、ですの」
「客間ではなく、という意味でございます」
小さな逆転が起きた。
客人扱いではない。通される場所が、すでに「内側」だ。
喉の奥が熱くなるのに、笑みは崩さない。
鎖が掛かるのなら、せめて位置は選ぶ。
廊下を進む。
磨かれた床に靴音が吸い込まれ、余計な反響がない。
壁の装飾は控えめで、絵画も人物画ばかりだ。花の絵がほとんどない。
庭園はあるのに、花を室内に持ち込まない家。
それだけで、主人の性格が透ける。
曲がり角で、若いメイドが盆を抱えたまま立ち尽くしていた。
頬が青い。指が震えている。
リリアだろう。新人だと聞いている。
「お、お通りくださいませ……」
声が裏返り、盆の上の茶器が小さく鳴った。
わたくしは立ち止まり、視線を下げた。
紅茶用のカップ。白磁に金の縁。柄は薔薇ではない。幾何学模様だ。
この家は、薔薇すら政治にする。
「落とさないで。あなたのせいではなくても、責められるのはあなたですもの」
「は、はい……!」
リリアの肩がびくりと跳ねる。
わたくしはそれ以上、優しくも厳しくもせず、通り過ぎた。
ここで情を見せると、別の噂になる。
執務室の扉は重かった。
オスカーが鍵を外す音が、やけに大きく聞こえる。
中に入ると、紙の匂いが満ちていた。
書類の山。机の上だけではなく、壁際の棚にも、床の脇にも積まれている。
戦場だ。剣の代わりに紙で斬り合う場所。
窓から庭が見える。
剪定された枝が、静かに影を落としていた。
わたくしの手袋の内側の紙が、熱を持ったように感じる。
まるで、ここが「庭」の中心だと告げるみたいに。
そして。
机の横に、椅子がある。
主の椅子ではない。来客用でもない。
隣に置かれた、同じ背丈の椅子。
そこだけが、ぽっかりと空いている。
「……その椅子は」
口に出した瞬間、オスカーがわずかに視線を逸らした。
逸らした先は、椅子ではなく、わたくしの指先だ。
触れるな、と言外に釘を刺された気がする。
「閣下は、おひとりの時も、その椅子には誰も座らせません」
「なぜですの」
「さあ。噂がございますので」
噂。
屋敷中の視線の温度が、さっきより冷えた気がした。
「……座った方が、消えるとか」
「それは、随分と物騒ですわね」
物騒。そう言いながら、胸が波立つ。
消える。
この世界で消えるのは、処刑だけではない。
名誉も、未来も、役割も、簡単に消える。
わたくしは昨夜、悪役の役割を消した。
代わりに、宰相の婚約者という札が貼られた。
札を貼ったのは、あの男だ。
まだ顔すら近くで見ていないのに、息が詰まる。
椅子の背に、指を伸ばしたい衝動が湧いた。
試したい。確かめたい。
けれど、同時に怖い。
あの紙の文が、再び脳内で響く。
庭は剪定される。
棘に触れた者から。
この椅子は棘だ。
触れた瞬間、わたくしのルートが確定する。
わたくしは笑った。
薄く、上品に。自分の心臓を誤魔化すために。
指先が勝手に動いた。
椅子の背に触れると、革は冷たく、やけに滑らかだった。
「空席のままにしておくには、惜しい場所ですわね」
言ってしまった。
口が先に動いたのは、怖さの反動だ。
次の瞬間、背中に影が落ちた。
「惜しいなら、埋めるか」
低い声。
紙の匂いより冷たく、刃より静かな声。
振り向けない。
振り向いたら、鎖の形が見えてしまう気がした。
「……クロード様」
「まだ名で呼ぶ段階ではない。だが、私の屋敷で私の椅子に触れた。段階は進む」
背後の気配が近づく。
眼鏡の縁が光った気がした。
「君に聞きたい。あの紙を持っているな」
「……なぜ、それを」
「庭の匂いがする。侯爵家の護衛では、あれは防げない」
知りすぎている。
わたくしは息を呑んだ。
脅し文を見せてもいないのに、この男は言い当てた。
「ここから先は、私の管理下だ。嫌なら今すぐ帰れ」
「帰りません」
声が勝手に出た。震えはない。自分でも驚くほど、はっきりしていた。
背後で、布が擦れる音がした。
椅子が引かれる音。
わたくしの隣ではない。机の隣の、あの空席の椅子だ。
「ならば条件を聞け。今日のうちに決める」
クロード様の声が、耳元に落ちる。
「この椅子に、座るかどうかを」
ここまで読んでくださりありがとうございます。次話、レティが空席に座るのか……答えはすぐです。続きが気になったら、ぜひブックマークで追いかけてください。面白いと思えたら広告下の【☆☆☆☆☆】で評価も頂けると、更新の燃料になります。




