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「連載版」婚約破棄された悪役令嬢の私は前世持ち。断罪の舞踏会で王太子ざまぁしたら、腹黒宰相様に溺愛求婚されました 〜ざまぁのその先は、宰相閣下と甘い政略ライフ〜  作者: 夢見叶
第3部 隣国帝国編・皇太子妃候補とシリーズ最大の揺らぎ

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第8話 大神殿の扉と、黒薔薇の文字列

 大神殿の扉をくぐった瞬間、胸の奥に石を押し込まれたみたいに息が詰まった。

 香の甘さが、急に土の匂いに変わる。耳の奥で、鐘が鳴っていないのに鳴る。


 視界の端に、黒い文字が走った。

 黒薔薇の宝珠。

 浄化儀礼。

 開戦。


 わたくしは歩幅を崩し、床の幾何学模様を踏み外しかけた。


「レティシア」

 背中に手が添えられる。クロード様の掌は冷たいのに、落ちる未来だけは止めてくれる。

 その手に縋りたい衝動を、歯で噛み切った。


「扉は人を選ぶんだってさ」

 隣でユリウス殿下が、さらりと言った。

 冗談の口調なのに、目が笑っていない。


「選ばれたい趣味はございませんわ」

「でも君は、選ばれる側の顔をしてる」


 返す言葉が見つからない。喉の奥が、乾いた紙みたいに貼り付く。


 神官が案内役として先に立つ。若い神官だ。頬の赤みだけが健康的で、制服みたいな法衣がまだ馴染んでいない。

 テオと名乗った彼は、緊張で声が裏返りそうになりながらも、礼拝の作法を説明した。


「こちらでは、左膝を……その、先に……」

 わたくしは反射で右膝を折りかけ、途中で止めた。

 王国と逆。指先の震えが、ひどく目立つ。


 リディア殿下が、小さく笑う。

「迷った?」

「迷いません。確認しただけですわ」

「確認は大事。数学でも政治でもね」


 救われたのは、笑われたからじゃない。リディア殿下が、わたくしを試験の答案みたいに見ないからだ。


 回廊の壁には、白い薔薇の浮彫が延々と続く。光を浴びて綺麗なのに、棘の部分だけ妙に鋭い。

 その棘が、わたくしの視界の中で黒く染まりかけるたび、さっきの文字列が蘇る。


 祭壇の間へ入った。

 中央の台座に、宝珠があった。


 黒薔薇を模した宝珠。薔薇の花弁の形に削られた黒曜石が、何重にも重なり、中心に暗い光が沈んでいる。

 見た瞬間、胃が裏返った。

 前世の画面。攻略本の小さな挿絵。あの儀式。あの戦争。

 全部が、同じ輪郭で重なる。


 宝珠の表面が、鏡みたいにわたくしを映した。

 次の瞬間、鏡が割れる音がした気がした。


 黒い文字が、今度ははっきり浮いた。

 白い棘。

 黒い葉。

 根。


 名前じゃない。呼び名だ。誰かの手帳の中の、分類だ。

 背筋に冷たい汗が走り、膝が抜けかける。


「触れるな」

 クロード様の声が、低く落ちた。

 いつもの静けさより、さらに深い。内側に刃がある声だ。


「触れませんわ。触れたくもないです」

 わたくしの声は思ったより高かった。怖さを隠せていない。


 ユリウス殿下が、半歩だけ前に出る。

「大司教が来る前に、ざっと見ておきたい。リディア、君も」

「わたくしは賛成。ただし、距離は保つ」


 理性の会話に、わたくしは追いつけない。

 宝珠の中心が、呼吸しているみたいに暗く脈打つ。

 あの暗さに飲まれたら、また誰かが血を払う。王国が。帝国が。わたくしの国が。


 わたくしは目を閉じた。

 閉じても、文字は残った。


 開戦。

 濡れ衣。

 断交。


 あまりに理不尽で、腹の底から怒りが湧いた。

 誰が決めた。誰が書いた。わたくしの努力を、誰の台詞で消すつもりだ。


 怒りの熱が、震えを押し止めた。

 目を開ける。


 宝珠の表面に、今度は別の文字が走った。

 閲覧権限。

 拒否不可。


 わたくしは、笑いそうになった。笑うしかないからだ。

 拒否不可。なんて便利な言葉。責任を誰かに押し付けるための、綺麗な免罪符。


 次の瞬間、視界が白く飛んだ。

 薔薇の花弁が舞う。血みたいに赤い。雪みたいに白い。どちらも床に落ちて、踏まれて汚れる。

 誰かの叫び。誰かの命令。旗が裂ける音。


 わたくしは息を吸えなくなり、喉を押さえた。


「レティシア」

 クロード様が、わたくしの肩を掴む。

 痛いほど強い。痛みがあるから、現実に戻れる。


「……破滅ルートは拾いませんの」

 やっと出た言葉は、かすれていた。


「ならば、2度と拾わせない」

 クロード様は、わたくしの額に自分の額を寄せるみたいに近づいて、低く言った。

 この場で甘いことを言う人じゃない。だから、胸の奥が変に熱くなる。


 その熱のせいで、ユリウス殿下の視線がやけに刺さった。


「なるほど。これが王国の宰相か」

「殿下、感想は後ほど」


 クロード様の敬語が、急に硬くなる。

 リディア殿下が肩をすくめた。

「今は喧嘩してる場合じゃない。宝珠は、わたしたち全員を見てる」


 宝珠の暗い光が、たしかにこちらを見返している気がした。


 大司教セルジオが入室したのは、その直後だった。

 穏やかな笑み。丁寧な言葉。指には光る指輪。薔薇の意匠がある。棘が強調されていて、嫌に生々しい。

 わたくしはその意匠から、目を逸らした。見てはいけない気がした。


「遠路はるばる、よくお越しくださいました。浄化儀礼は、両国の未来にとって祝福です」

「祝福という言葉は、便利ですね」

 ユリウス殿下が笑う。声は軽いのに、距離を取った笑いだ。


「殿下、祝福は受け取る者の器を選びます」

 セルジオは、わたくしに視線を移した。

「そして……器は、すでにここに」


 背筋が凍る。

 わたくしは笑顔を作った。社交界で何度も使ってきた、無害な微笑だ。


「わたくしは器ではなく、客人ですわ」

「もちろん。客人には、正しい席をご用意しましょう」


 席。椅子。居場所。

 その単語が、宝珠より冷たく刺さった。


 視察は予定どおり続いた。

 しかし、予定どおりに進むほど、胸の奥の石は重くなる。


 案内の最後に、テオが「地下の小礼拝堂もご覧になりますか」と言った時、わたくしは断れなかった。

 断った瞬間に、何かが決定してしまう気がしたからだ。


 階段を降りるたび、空気が湿る。

 灯りが減り、言葉の響きだけが濃くなる。


 地下礼拝堂の扉の向こうで、誰かが祈っていた。

 聖歌に似ている。でも、単語が違う。


「物語を正すために」

「棘を恐れず」

「花は枯れても、根は残る」

「ならば再び咲かせよう」


 合唱じゃない。確認だ。

 わたくしの心臓が、早鐘を打った。


 テオは何も気づかない顔で、扉の前で頭を垂れる。

「……あの、ここは、浄化の前に心を整える場所で」

 純粋な説明が、逆に恐ろしい。


 クロード様がわたくしの前に半身を入れる。

 守る姿勢。見せるつもりのない独占の形。


 扉が少しだけ開き、蝋燭の匂いが流れ出た。

 その匂いの奥に、鉄が混じる。


 祈りの声が、こちらに気づいたみたいに止まった。

 沈黙。呼吸。布擦れ。

 そして、誰かが囁く。


「白い棘が来た」

 耳元で言われたみたいに、はっきり聞こえた。


 次の瞬間、扉は内側から静かに閉じられた。

 まるで、招待を拒むみたいに。


 わたくしは唇を噛んだ。

 ここにいる。大神殿の中に。あの人たちが。


 その場を離れたのは、リディア殿下の判断だった。

「見えた。充分。ここで騒げば、相手の思うつぼ」


 わたくしたちは人の気配の薄い控室へ通された。

 扉が閉まる。外の聖歌が遠ざかる。ようやく息ができた。


 ユリウス殿下が、机の上の式次第を指で叩く。

「止めるなら今だ。でも止めた瞬間、僕らが悪者になる」


「止めれば、彼らは別の口実を作ります」

 クロード様が即答する。冷静な声。宰相の声だ。


 リディア殿下が頷いた。

「儀礼の夜、宝珠は台座から降ろされる。地下へ。そこが狙い目」


 わたくしは、宝珠の黒い文字を思い出す。

 閲覧権限。拒否不可。

 なら、こちらも使うしかない。


「儀式そのものは止めません」

 わたくしは言った。自分の声が、意外に落ち着いていて驚く。

「その代わり――脚本の裏側に手を突っ込みます」


 誰も笑わない。

 ただ、ユリウス殿下が短く息を吐いた。

「君の言い方は物騒だ。でも嫌いじゃない」


 その瞬間、控室の外で鐘が鳴った。

 昼の鐘じゃない。低い。夜の音だ。


 扉の隙間から、紙が滑り込んできた。

 白い紙。黒いインク。短い文。


 黒薔薇の夜。


 そして、宝珠で見た文字列が、また目の奥で走った。

 開始まで、6時間。

ここまでお読みくださりありがとうございます。黒薔薇の夜まで残り6時間――次話は地下礼拝堂の正体へ踏み込みます。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで応援していただけると執筆の励みになります。


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