第8話 大神殿の扉と、黒薔薇の文字列
大神殿の扉をくぐった瞬間、胸の奥に石を押し込まれたみたいに息が詰まった。
香の甘さが、急に土の匂いに変わる。耳の奥で、鐘が鳴っていないのに鳴る。
視界の端に、黒い文字が走った。
黒薔薇の宝珠。
浄化儀礼。
開戦。
わたくしは歩幅を崩し、床の幾何学模様を踏み外しかけた。
「レティシア」
背中に手が添えられる。クロード様の掌は冷たいのに、落ちる未来だけは止めてくれる。
その手に縋りたい衝動を、歯で噛み切った。
「扉は人を選ぶんだってさ」
隣でユリウス殿下が、さらりと言った。
冗談の口調なのに、目が笑っていない。
「選ばれたい趣味はございませんわ」
「でも君は、選ばれる側の顔をしてる」
返す言葉が見つからない。喉の奥が、乾いた紙みたいに貼り付く。
神官が案内役として先に立つ。若い神官だ。頬の赤みだけが健康的で、制服みたいな法衣がまだ馴染んでいない。
テオと名乗った彼は、緊張で声が裏返りそうになりながらも、礼拝の作法を説明した。
「こちらでは、左膝を……その、先に……」
わたくしは反射で右膝を折りかけ、途中で止めた。
王国と逆。指先の震えが、ひどく目立つ。
リディア殿下が、小さく笑う。
「迷った?」
「迷いません。確認しただけですわ」
「確認は大事。数学でも政治でもね」
救われたのは、笑われたからじゃない。リディア殿下が、わたくしを試験の答案みたいに見ないからだ。
回廊の壁には、白い薔薇の浮彫が延々と続く。光を浴びて綺麗なのに、棘の部分だけ妙に鋭い。
その棘が、わたくしの視界の中で黒く染まりかけるたび、さっきの文字列が蘇る。
祭壇の間へ入った。
中央の台座に、宝珠があった。
黒薔薇を模した宝珠。薔薇の花弁の形に削られた黒曜石が、何重にも重なり、中心に暗い光が沈んでいる。
見た瞬間、胃が裏返った。
前世の画面。攻略本の小さな挿絵。あの儀式。あの戦争。
全部が、同じ輪郭で重なる。
宝珠の表面が、鏡みたいにわたくしを映した。
次の瞬間、鏡が割れる音がした気がした。
黒い文字が、今度ははっきり浮いた。
白い棘。
黒い葉。
根。
名前じゃない。呼び名だ。誰かの手帳の中の、分類だ。
背筋に冷たい汗が走り、膝が抜けかける。
「触れるな」
クロード様の声が、低く落ちた。
いつもの静けさより、さらに深い。内側に刃がある声だ。
「触れませんわ。触れたくもないです」
わたくしの声は思ったより高かった。怖さを隠せていない。
ユリウス殿下が、半歩だけ前に出る。
「大司教が来る前に、ざっと見ておきたい。リディア、君も」
「わたくしは賛成。ただし、距離は保つ」
理性の会話に、わたくしは追いつけない。
宝珠の中心が、呼吸しているみたいに暗く脈打つ。
あの暗さに飲まれたら、また誰かが血を払う。王国が。帝国が。わたくしの国が。
わたくしは目を閉じた。
閉じても、文字は残った。
開戦。
濡れ衣。
断交。
あまりに理不尽で、腹の底から怒りが湧いた。
誰が決めた。誰が書いた。わたくしの努力を、誰の台詞で消すつもりだ。
怒りの熱が、震えを押し止めた。
目を開ける。
宝珠の表面に、今度は別の文字が走った。
閲覧権限。
拒否不可。
わたくしは、笑いそうになった。笑うしかないからだ。
拒否不可。なんて便利な言葉。責任を誰かに押し付けるための、綺麗な免罪符。
次の瞬間、視界が白く飛んだ。
薔薇の花弁が舞う。血みたいに赤い。雪みたいに白い。どちらも床に落ちて、踏まれて汚れる。
誰かの叫び。誰かの命令。旗が裂ける音。
わたくしは息を吸えなくなり、喉を押さえた。
「レティシア」
クロード様が、わたくしの肩を掴む。
痛いほど強い。痛みがあるから、現実に戻れる。
「……破滅ルートは拾いませんの」
やっと出た言葉は、かすれていた。
「ならば、2度と拾わせない」
クロード様は、わたくしの額に自分の額を寄せるみたいに近づいて、低く言った。
この場で甘いことを言う人じゃない。だから、胸の奥が変に熱くなる。
その熱のせいで、ユリウス殿下の視線がやけに刺さった。
「なるほど。これが王国の宰相か」
「殿下、感想は後ほど」
クロード様の敬語が、急に硬くなる。
リディア殿下が肩をすくめた。
「今は喧嘩してる場合じゃない。宝珠は、わたしたち全員を見てる」
宝珠の暗い光が、たしかにこちらを見返している気がした。
大司教セルジオが入室したのは、その直後だった。
穏やかな笑み。丁寧な言葉。指には光る指輪。薔薇の意匠がある。棘が強調されていて、嫌に生々しい。
わたくしはその意匠から、目を逸らした。見てはいけない気がした。
「遠路はるばる、よくお越しくださいました。浄化儀礼は、両国の未来にとって祝福です」
「祝福という言葉は、便利ですね」
ユリウス殿下が笑う。声は軽いのに、距離を取った笑いだ。
「殿下、祝福は受け取る者の器を選びます」
セルジオは、わたくしに視線を移した。
「そして……器は、すでにここに」
背筋が凍る。
わたくしは笑顔を作った。社交界で何度も使ってきた、無害な微笑だ。
「わたくしは器ではなく、客人ですわ」
「もちろん。客人には、正しい席をご用意しましょう」
席。椅子。居場所。
その単語が、宝珠より冷たく刺さった。
視察は予定どおり続いた。
しかし、予定どおりに進むほど、胸の奥の石は重くなる。
案内の最後に、テオが「地下の小礼拝堂もご覧になりますか」と言った時、わたくしは断れなかった。
断った瞬間に、何かが決定してしまう気がしたからだ。
階段を降りるたび、空気が湿る。
灯りが減り、言葉の響きだけが濃くなる。
地下礼拝堂の扉の向こうで、誰かが祈っていた。
聖歌に似ている。でも、単語が違う。
「物語を正すために」
「棘を恐れず」
「花は枯れても、根は残る」
「ならば再び咲かせよう」
合唱じゃない。確認だ。
わたくしの心臓が、早鐘を打った。
テオは何も気づかない顔で、扉の前で頭を垂れる。
「……あの、ここは、浄化の前に心を整える場所で」
純粋な説明が、逆に恐ろしい。
クロード様がわたくしの前に半身を入れる。
守る姿勢。見せるつもりのない独占の形。
扉が少しだけ開き、蝋燭の匂いが流れ出た。
その匂いの奥に、鉄が混じる。
祈りの声が、こちらに気づいたみたいに止まった。
沈黙。呼吸。布擦れ。
そして、誰かが囁く。
「白い棘が来た」
耳元で言われたみたいに、はっきり聞こえた。
次の瞬間、扉は内側から静かに閉じられた。
まるで、招待を拒むみたいに。
わたくしは唇を噛んだ。
ここにいる。大神殿の中に。あの人たちが。
その場を離れたのは、リディア殿下の判断だった。
「見えた。充分。ここで騒げば、相手の思うつぼ」
わたくしたちは人の気配の薄い控室へ通された。
扉が閉まる。外の聖歌が遠ざかる。ようやく息ができた。
ユリウス殿下が、机の上の式次第を指で叩く。
「止めるなら今だ。でも止めた瞬間、僕らが悪者になる」
「止めれば、彼らは別の口実を作ります」
クロード様が即答する。冷静な声。宰相の声だ。
リディア殿下が頷いた。
「儀礼の夜、宝珠は台座から降ろされる。地下へ。そこが狙い目」
わたくしは、宝珠の黒い文字を思い出す。
閲覧権限。拒否不可。
なら、こちらも使うしかない。
「儀式そのものは止めません」
わたくしは言った。自分の声が、意外に落ち着いていて驚く。
「その代わり――脚本の裏側に手を突っ込みます」
誰も笑わない。
ただ、ユリウス殿下が短く息を吐いた。
「君の言い方は物騒だ。でも嫌いじゃない」
その瞬間、控室の外で鐘が鳴った。
昼の鐘じゃない。低い。夜の音だ。
扉の隙間から、紙が滑り込んできた。
白い紙。黒いインク。短い文。
黒薔薇の夜。
そして、宝珠で見た文字列が、また目の奥で走った。
開始まで、6時間。
ここまでお読みくださりありがとうございます。黒薔薇の夜まで残り6時間――次話は地下礼拝堂の正体へ踏み込みます。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで応援していただけると執筆の励みになります。




