第5話 帝都の門と、飄々たる皇太子
「ようこそ、帝都へ。王国の黒薔薇令嬢」
城門の影から出てきた青年が、そう言って微笑んだ。
港の湿った風が、金属と香辛料の匂いを運んでくる。石造りの城壁は王都より高く、旗は多い。軍の鷲と、光薔薇教の紋章と――黒薔薇を模した意匠まで、目につく場所へ誇らしげに掲げられていた。
私の胸の奥が、ひやりとした。
黒薔薇。帝国でその語は、ただの花ではない。
「お迎えが早すぎますわね、殿下。まるで逃がさないと告げているみたい」
「逃がしたら、僕が怒られる。皇帝にね」
彼は言い切って、私へ手を差し出した。指先に迷いがない。
帝国式の挨拶だ。握手……そのまま、手袋越しに口づける。
脳裏のどこかで、前世のゲームのフレーバーテキストがぱちりと点いた気がした。私は余計な間を作らず、手袋の甲を差し出す。
唇が触れる直前、彼は視線だけで私の顔色を確かめた。
「怯えてない。やっぱり噂どおりだ」
「噂は当てになりませんわ。殿下も、わりと」
「痛い。君、初対面で刺すのが上手いね」
笑いながらも、彼の瞳は冷たいほど澄んでいた。
「フェルディナンド帝国皇太子、ユリウス・フォン・フェルディナンド。歓迎するよ、レティシア・エルネスト公爵令嬢」
名乗りが終わる前に、帝国の将校が儀礼の声を張る。
「王国よりお越しの、皇太子妃候――」
「違う」
ユリウス殿下が、柔らかい声で遮った。
「彼女は王国の特使だ。僕の客人。言葉を選んで」
将校の背筋が、音を立てそうに硬直する。
その瞬間、私の認識が裏返った。
帝国は私を飾りにする気だと思っていた。けれど、少なくとも皇太子は、私の札を「妃候補」から「特使」へ戻した。
ありがたい。けれど同時に、怖い。これは貸しでも保護でもなく、取引だ。
「恐れ入ります、殿下」
隣でクロード様が、やけに丁寧な敬語を置いた。口調が整いすぎていて、逆に刺々しい。
「王国宰相、クロード・フォン・ラグランジュ。特使代表として、礼を」
「礼はいい。君は相変わらず固いね、宰相殿」
「柔らかくして、得をする局面が見当たりませんので」
氷のように滑らかな返答に、ユリウス殿下が愉快そうに目を細めた。
「僕は柔らかい方が好きだよ。特に、君の婚約者には」
クロード様の眼鏡の奥が、わずかに光った。
私は咳払いで会話を切る。
ここは国境ではなく、帝都の門前だ。耳が多い。
「殿下。私たちは船旅の塩をまだ落としておりませんの。まずは宿へ」
「宿じゃなく、僕の用意した離宮へ。移動中に帝都を見せたい」
「見せたい、ですか」
「君に。僕の国を。鏡を見せるみたいに」
馬車が用意されていた。帝国の車輪は分厚く、軸も太い。護衛の槍先が光り、街道の石畳は真っすぐだ。王都のような曲がり角が少ない。
揺れの少ない馬車の中で、ユリウス殿下は窓の外を指した。
「王国の首都に似てるだろ。わざとだ。真似ると、相手の癖も盗める」
「盗むのは癖だけにしてくださいませ。国境まで持っていかれると困りますわ」
「交渉が強い。君、好きだなあ」
褒め言葉の形をした距離の詰め方に、私は笑みを崩さないまま息を整えた。
外壁の内側へ入ると、旗が増えた。軍旗の列、神殿の塔、訓練場の土煙。整然とした街並みに、熱が混ざっている。
王都が積み重なった歴史なら、帝都は設計図の野心だ。
「君は、帝国を嫌っている?」
不意に投げられた問いは、軽口の温度ではなかった。
私は答えを急がない。言葉は武器だ。抜くなら狙いを決める。
「嫌いではありません。ただ、怖い。力が多い国は、方向を誤ると被害が大きい」
「同感だ」
ユリウス殿下は即答した。
「だから僕は、戦争をしたくない。勝っても負けても、残るのは名簿と傷だ」
その言い方は、現場を見た人間の短さだった。
クロード様が低い息をつく。
「殿下が平和派だという噂は、王国にも届いております」
「噂ね。君は信じる?」
「噂は当てになりませんので」
「君の口からは、その台詞しか出ないのか」
「必要な時にだけ出ます」
丁寧なのに刺がある。嫉妬は、言葉の角度に出る。
馬車が丘を登り始め、視界が開けた。
皇城の手前、大神殿の塔が空を裂く。その周りを放射状の大通りが走り、光が流れる。王都の配置に似ているのに、どこか硬い。人の居場所ではなく、駒の位置みたいだ。
私は窓辺へ指を置いた。ガラス越しの冷たさが、胸の内側へ移る。
「君に用意した席がある」
ユリウス殿下が、さも当然のように言った。
私の心臓が、跳ねた。
「明日の御前で、君は僕の隣に座る。帝国では、そう見せるのが礼だ」
「殿下」
クロード様の声が、さらに整った。
「王国の特使を、妃候補の形に当てはめる必要はありません」
「必要だよ。君の国を守るためにも」
ユリウス殿下は笑っているのに、譲る気配がない。
守る。彼はその言葉を、簡単に使わない人だ。
だからこそ、胸が揺れた。ありがたいのか、危険なのか、判断が遅れる。感情が邪魔をするのが、いちばん厄介だ。
離宮の玄関を抜けると、回廊の先に広間が見えた。
そこに、椅子があった。
黒い布張り。背もたれには黒薔薇と鷲の刺繍。ほかの椅子はない。まるで舞台の真ん中に置かれた役名札みたいに、私だけの場所として。
私は歩みを止め、背に指を添えた。
瞬きの裏で、王国の宰相執務室が浮かぶ。机の隣の空席。誰も座らせない、と言われた椅子。
似ている。けれど、意味が違う。
「座らないのか」
ユリウス殿下が、興味深そうに問う。
「まだですわ」
私は手を離した。
座った瞬間、私の立場は固定される。帝国の物語に、私の名前が書き込まれる。
背後から、絹ずれの音と共に侍従が現れた。
「特使レティシア殿。明朝の御前にて、皇太子妃候補席をご案内いたします」
言い直さない。これが帝都の礼儀だ。
私は微笑みを貼り付けたまま、クロード様を見た。
彼の瞳は静かで、深い。
その静けさが、逆に怖かった。
明日、私はどの椅子に座るのだろうか。
考えた途端、クロード様の手が私の指先を包んだ。
「明日までに、帝国の座席表をひっくり返します」
読了ありがとうございます。帝都で用意された「席」が、レティの心も立場も揺らし始めました。続きで、クロードの一手がどう刺さるのか見届けてください。面白かった/続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで背中を押して頂けると励みになります。ひと言感想も大歓迎です。




