第4話 船上の夜と、帝国使節の影
「帝国は、王国ほど王様の顔色を気にしませんので」
湯気の立つ皿の向こうで、帝国側の文官が涼しい顔で言った。船の食堂は昼でも薄暗く、波のうねりが床板をゆっくり押し上げる。
私はスプーンを止めた。王の言葉に怯え、宰相の判断に救われてきたこの国で育った身には、軽く投げられたその差が刺さる。
隣にいるクロードは黙っている。黙り方が、いつもより硬い。彼は私の皿の手前に置かれた白い布を、必要以上に丁寧に折り直した。
「顔色を気にしない、というのは羨ましい響きですわね」
微笑んで返す。口角だけで。
文官は、こちらの反応を値踏みするように目を細めた。
「羨ましい、ですか。では王国は楽でしょう。命じる者が明確だ」
「明確なぶん、歪みも明確に溜まりますの」
クロードの視線が私の横顔に触れた。ほんの少し、息が浅くなる。
軍服の男が大きく笑い、食器を鳴らした。
「歪みなら帝国にもあるさ。議会の連中は、剣を握ったこともないくせに戦の話をする。口は達者でな」
その言葉に、私の背筋が冷える。戦。
潮の匂いより先に、古い記憶の匂いが鼻を刺した。前世で遊んだ、あの物語の分岐点。平和が、音もなく戦に変わる瞬間の手触り。
私はスープを飲んで、胃の底に落とした。落ち着け。ここはゲームの画面じゃない。私は駒じゃない。
「帝国は軍拡を進めていると聞きましたわ」
私がそう言うと、軍人は肩をすくめた。
「進めているのは隣の小国も同じだ。海の向こうは広い。守るなら、備えるしかない」
文官が口を挟む。
「守る、という言い方が気に入らない議員も多い。皇帝陛下の権威は強いが、帝国は陛下だけで回っていない。貴族も商会も宗教も、みな席を欲しがる」
席。
その単語だけで、胸の奥に椅子の背もたれが浮かぶ。帝国で用意される席は、私にとって居場所なのか、それとも檻なのか。
私は敢えて、話を数字へ引き寄せた。
「席を欲しがるなら、税の配分は揉めますでしょう。航路税と港湾税、帝国はどちらを重く見ますの」
文官の目が見開かれた。スプーンが止まる。軍人が「なんだそれ」と笑いかけて、途中で口を閉じた。
「……王国の令嬢が、その切り口を?」
「宰相の隣にいると、嫌でも耳に入りますの」
クロードが小さく咳払いをした。
その音だけで、文官の背筋が伸びる。
「失礼。王国特使代表、ラグランジュ公爵閣下でしたね」
「形式は船の揺れに弱い。呼び方は簡略でいい」
淡々とした声。けれど、その淡々が刃物みたいに鋭い。
文官は汗を拭い、慌てて言い直した。
「では、ええ……港湾税が主です。帝都の議会は海運に口を出したがる。ですが、殿下は」
殿下。皇太子ユリウス。
私の鼓動が、波と別のリズムを刻み始める。
若い神官が、祈るように両手を組んだ。
「殿下は、民の飢えを嫌います。光薔薇教も、飢えは心を荒らすと説きますから」
光薔薇教。王国でも名は聞く。だが帝国では、宗教は礼拝堂の外まで影を落としている。
「神官さま、船でも説教ですか」
軍人が茶化す。神官は頬を赤くしながらも、真面目に続けた。
「説教ではなく……歴史の話です。帝国には昔、世界を変えると叫んだ古い教団があったそうで。今は伝説ですが、神殿の奥では今も……」
言葉が途切れた。神官が自分の舌を噛みそうになり、目を泳がせる。
その瞬間、クロードの声が半音だけ低くなった。
「神殿の奥で、何がある」
神官は慌てて首を振った。
「い、いえ、ただの昔話です。光薔薇の教えは穏やかで、帝国の秩序を守っていて」
秩序。守る。
軍人の笑い声が消えて、食堂の空気が少し重くなる。私は息を整え、話題を料理へ逃がした。
「この香辛料、海沿いの都市の名物でしたわね。酸味を強くして、保存を優先する」
神官がぱっと顔を上げた。
「ご存じなのですか」
「書で読んだだけですの」
嘘ではない。前世の、薄いフレーバーテキストで。
文官は困ったように笑い、私の皿を見た。
「王国の黒薔薇令嬢は、随分と準備がいい」
黒薔薇。
その呼び方が、からかいなのか称賛なのか分からない。分からないまま、私の胸をかすめる。帝国に来た瞬間から私は名前で切り取られ、物語の役を与えられるのだろうか。
クロードが私の茶杯に手を伸ばした。砂糖の香りが、いつもより濃い。
「甘すぎますわ」
「海の塩気が強い」
言い訳が下手すぎる。
私は笑いそうになって、笑えないまま口を閉じた。甘いのは、茶ではなく彼の警戒だ。
食堂の話題は再び政治へ戻り、私は必要な言葉だけ拾って飲み込んだ。議会。軍。神殿。椅子の取り合い。
それらが、静かに私の足元へ網を広げてくる。
*
夜。甲板へ出ると、風が頬を切った。
海は黒く、星は白い。水面は鏡みたいに空を映し、船の軋みが遠い呼吸のように続く。
私は手すりに指を置き、冷たさで意識を固定した。
「帝国は、この水面に映る王国みたいなものかもしれませんわね」
隣で、クロードがゆっくり息を吐いた。
「映っている空は同じでも、沈むのは水の方だ」
その比喩が、胸の奥に沈んだ。沈むのは水。揺れるのは海。けれど、本当に沈むのは。
「……私が、沈むとでも」
言葉が勝手に出た。
クロードが私を見た。視線が真っ直ぐで、逃げ場がない。
「沈ませない」
短い断言。宰相としての命令みたいで、男としての祈りみたいでもある。
胸が熱くなって、同時に怖くなる。私は彼の言葉に甘えたいのに、甘えた瞬間に足元が消えそうだ。
風向きが変わる。潮の匂いに、灯油の匂いが混じった。
遠くで、点のような光が増えていく。海の向こうに、帝国港の灯りが浮かび上がった。
そのとき、背後から靴音が近づく。
振り向く前に、クロードの体が僅かに前へ出た。
「公爵閣下、黒薔薇令嬢。帝都より急使です」
船員が差し出した筒には、黒い蝋で封がされていた。押し型は薔薇ではない。けれど、私の心臓は嫌な跳ね方をした。
「殿下が……今夜の入港後、直々にお迎えになると」
海が鏡なら、ここから先は誰の物語だ。
私は答えられないまま、帝国港の灯りを見つめた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。帝国港に灯が近づくほど、レティとクロードの距離も、危うく甘く揺れていきます。次話は殿下の直々の迎えから一気に波乱へ。続きが気になったら、ブックマーク&広告下の【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると、執筆の燃料になります。感想も一言でも嬉しいです。




