第1話 帝国からの招待状と、揺らぐ椅子
陛下の声は、紙より冷たかった。
「帝国から、皇太子妃候補として――そなたを寄越せと書いてある」
わたくしの喉が、ひゅ、と鳴る。
豪奢な謁見の間で、空気だけが先に凍った。扇子を閉じる音さえ、刃物みたいに響く。
差し出された招請状には帝国の双頭の鷲、その下に薔薇の意匠が押されている。
妃候補。
その単語は、剣よりも遠慮なく人を刺す。
横を見る。
クロード様は眼鏡の奥の目だけで紙面を読み切っている。表情は動かない。けれど指先が、ほんの少しだけ固い。
わたくしは口角を上げた。癖みたいな微笑みだ。
生き残るために身に付けた、悪役令嬢の仮面。
「陛下。帝国は、わたくしを欲しいのですか。それとも王国を試したいのですか」
「どちらもだろう」
陛下の答えは短い。
その短さが、政治の現実そのものだった。
紙面の端に目が留まる。飾り罫の角。インクの盛り方。折り目。
脳裏で、金環会の裏帳簿がめくれる。あの帳簿にも、同じ角飾りがあった。神殿宛ての請求書にだけ使われていた書式。
背中に冷たい汗が走る。
続編のタイトルが、嫌な音を立てて蘇る。
王都動乱と黒薔薇の皇子。
あの物語で、帝国はいつも綺麗な笑顔で、平和の名札をぶら下げて近づいてきた。
陛下が言う。
「帝国の皇太子は、理想主義者だと聞いている。表向きは和平の象徴として、そなたを求めるだろう」
表向き。
つまり裏がある。
わたくしは招請状に指を伸ばしかけて、止めた。
紙が怖いのではない。紙の向こうに、誰かの筋書きが透けて見えるのが怖い。
そのとき、クロード様が静かに息を吐いた。
「陛下。拒否は、帝国に口実を与えます」
「受諾は」
「王国に楔を打たれます」
楔。
その単語が胸の奥に刺さる。わたくしは、いつまで駒のままなのだろう。
陛下が玉座の肘掛けを叩く。
「ならば、策を言え。宰相」
クロード様は招請状を閉じ、わたくしの方を見た。
その視線は、政治ではなく人を見ているはずなのに、言葉だけが冷たい。
「侯爵令嬢。帝国へ行けますか」
胸の奥が、どんと揺れた。
行けますか。
行くな、ではない。
わたくしは唇を噛み、笑みを崩さずに答える。
「行けますわ」
自分の声が、思ったより澄んでいた。
震えているのは、心の方だ。
謁見の間を出て、控えの小広間へ移る。
机の上には地図と文書が並び、窓からの冬光が、紙の白さを残酷に際立たせた。
執事が紅茶を運ぶ。クロード様が砂糖壺に手を伸ばし、気づかぬまま角砂糖を落とした。
もう1つ。さらにもう1つ。
甘い香りが広がる。
わたくしの胸の内は、まったく甘くないのに。
「特使として渡航し、帝国の狙いを探る。留学生の名目も付ければ、拒否より角が立ちません」
クロード様の声音は丁寧すぎる。
まるで距離を測る定規みたいに、正確で、冷たくて。
わたくしはカップに口を付けた。甘さが舌に張り付く。
「……妃候補と書いてあるのに、特使で通りますか」
「通すのです」
言い切り。
それが、宰相の強さ。
陛下が腕を組む。
「帝国側は飲まぬだろう」
「飲ませます。こちらの返書に条件を付ける。妃候補の話は、留学の成果を見てから。そう書けば、帝国も体裁を保てる」
政治の言葉が重なっていく。
わたくしの名前が、外交の札として机上を滑る。
堪えきれず、言葉が漏れた。
「……わたくしは、王国の物ではありません」
静寂が落ちる。
陛下の目が鋭くなる。叱責が来る。そう思った。
けれどクロード様の方が先に、目を伏せた。
「その通りです」
あまりにも素直で、逆に息が詰まる。
「宰相として申し上げるなら、反対です」
心臓が跳ねた。
「しかし……私情としては、もっと反対です」
その言葉は、刃ではなく熱だった。
わたくしは視線を逸らした。顔が熱い。悔しい。
「なら、止めてみせてくださいませ」
「止める方法はあります。ですが、その方法は王国を傷つけます」
クロード様の指が、机の端を軽く叩く。
「貴女が守ろうとしてきたものを、貴女のために壊したくはない」
胸が痛む。
守ってきた。
そう言われると、逃げ場が消える。
わたくしは深呼吸し、背筋を伸ばした。
「分かりました。なら、わたくしが選びますわ。行く。ただし、妃候補としてではなく」
陛下が短く笑う。
「よい。娘よ。これは政略である前に、和平のための旅だ。忘れるな」
和平。
その文字が、紙の上で踊る。
紙の角飾りが、わたくしを見返す。
その日の夕刻。
大広間に帝国使節が通され、正式な招請状が読み上げられた。
儀礼は静かで、だからこそ残酷だ。
使節の背後で、従者が椅子を運び込む。
豪華な彫刻。薔薇の背もたれ。王国の広間には似つかわしくない高さ。
それは、誰の隣でもない場所に置かれた。
わたくしの正面。
椅子が、ひとりでにわたくしの未来を主張してくる。
宰相執務室の空席が、脳裏で揺れた。
使節が笑う。
「レティシア・エルネスト侯爵令嬢。皇太子殿下は、あなたの聡明さに強い関心をお持ちです」
関心。
その言い方が、求婚より怖い。
使節が礼をして、椅子へ手を差し伸べる。
「こちらへ」
わたくしの足が止まる。
座れば、帝国が用意した筋書きに足を踏み入れる。
座らなければ、外交の場で王国の面子を落とす。
空気が重い。
薔薇の彫刻が、棘を光らせる。
その瞬間、クロード様の手が、わたくしの手首に触れた。
強くはない。ただ、逃げられない温度。
耳元で、低い声が落ちる。
「……座るのは、まだ早い」
わたくしが返事をする前に、使節が続けた。
「船は7日後の暁に王都を発ちます。皇太子殿下は、帝都でお待ちです」
7日後。
期限が、音を立てて現実になる。
わたくしは椅子の背に視線を上げた。
薔薇の中心に、見覚えのある角飾り。
金環会の帳簿と同じ書式の印。
わたくしは、笑みのまま息を飲んだ。
これは招待ではない。
宣告だ。
椅子の影が床に落ちる。そこだけ、舞台の灯みたいに濃い。
使節の指先が、背もたれの薔薇をなぞった。
その薔薇の中心で、紙の角飾りと同じ形の印が光る。
見つめた途端、頭の奥で、読めない文字列が走った気がした。
意味は掴めない。けれど確かに、次の選択肢が開いた。
ここまで読んでくださりありがとうございます。次話では帝国の招待状に刻まれた印の正体と、7日後の出航までに迫る決断が動きます。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで応援いただけると励みになります!




