表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「完結済」婚約破棄された悪役令嬢の私は前世持ち。断罪の舞踏会で王太子ざまぁしたら、腹黒宰相様に溺愛求婚されました 〜ざまぁのその先は、宰相閣下と甘い政略ライフ〜  作者: 夢見叶
第2部 国庫再建と闇商会、薔薇の使徒の資金源を断て

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/42

第10話 温泉と焚き火、宰相と婚約者のまだ途中の約束

「閣下、このままでは来週を迎えられません」

 診察台の横で、王城侍医が淡々と言い切った。見慣れたはずのクロード様の指先が、黒い帳簿の角を掴んだまま硬い。

 紙の匂い、インクの匂い、徹夜の匂い。国庫の赤線を消すために積み上げた夜が、ここへ来て肉体の方から反乱を起こした。


「誇張だ」

「誇張ではありません。脈が嘘をつきません」

 医師は書類にさらさらと線を引き、最後に赤い印を押した。陛下の許可印まで揃っている。


「強制休暇、です」

 その言葉が、剣より鋭く刺さった。

 クロード様が誰かに命じられる姿を、わたくしはまだ見慣れていない。


「宰相として申し上げるなら、今は手を止められん」

「宰相として申し上げるなら、閣下が倒れた時の損失が最大です」

 医師の声は容赦がない。容赦がないから、信頼できる。


 クロード様の視線がわたくしに向いた。助けを求めるでもなく、責めるでもなく、ただ現実を共有する目だった。

 胸の奥が、いやに熱い。


「レティシア」

 名を呼ばれた瞬間、わたくしの方が先に動いていた。


「承りました、侍医殿。閣下は休ませます」

「君まで巻き込む必要はない」

「巻き込まれるのではありません。同行します」

 言い切ってから、言葉の重さに自分で驚く。

 政治の理屈でも、国庫の数字でもない。これは、婚約者としての我儘だ。


「……短期間で戻る」

「ええ。ですがその短期間は、仕事抜きで」

 わたくしが微笑むと、医師が満足そうに頷いた。


 クロード様は敗北した顔をしない。けれど、そのまつ毛の影だけが、ほんの少し落ちた。

 その影を見て、わたくしは胸の内で小さく勝ったと思ってしまう。悪役らしい勝ち方だ。


 湯治場は王都から馬車で半日。山の空気が冷たく、肺が洗われる。

 到着してもクロード様の手は自然に鞄へ伸びた。書類を探す癖だ。


「禁句ですわ」

「何が」

「帳簿。会議。金環会。薔薇の使徒。帝国。ついでに『宰相として』も」

 わたくしが指を折りかけて、やめた。癖で数えるのは、今夜は似合わない。


 クロード様は唇を結び、観念したように鞄を閉じた。

 この人が、わたくしの言葉で手を止めた。立場が反転した瞬間が、湯けむりより柔らかく胸に満ちる。


 湯は硫黄の匂いがして、肌がほどけていく。わたくしは湯船の縁に頬杖をつき、窓の外の木々を見た。

 静けさが怖い。静けさが贅沢だ。どちらも本音だ。


「君は、子どもの頃は何になりたかった」

 クロード様が、珍しく先に話題を出した。仕事の切り口ではない問いだ。


「台所を救う人ですわ」

「……台所」

「火が弱いと鍋が焦げますし、水が濁ると腹を壊します。地味ですが、毎日です。毎日が崩れると国は崩れますもの」

 言い終えて、しまったと思う。政治に寄せた。禁句を踏み抜いた。


 けれどクロード様は笑わなかった。代わりに、目元だけが柔らかくなる。


「私は、本を読むだけで食べていける職が欲しかった」

「それは随分と贅沢ですわね」

「贅沢だ。だから諦めた」

 諦めたと言いながら、今も本を読む目を捨てていない。だからこの人は恐ろしい。


 湯けむり越しに、クロード様の横顔がいつもより若く見えた。書類の山を背負っていない顔だ。

 わたくしは、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。守られる側でいることへの警戒が、ふっと緩む音だ。


「……仕事がないと、不安になるものですね」

 わたくしの呟きに、クロード様が頷く。


「不安になる。だが」

「だが」

「君がここにいるなら、耐えられる」

 湯の熱とは別の熱が、頬に上がった。

 耐えられる、なんて。そんな言葉で、わたくしを抱き寄せないでほしい。抱き寄せてほしいのに。


 夜、宿の裏庭で焚き火が燃えていた。客のための火らしい。星が近い。火の粉が跳ねて、闇に消える。

 わたくしたちは並んで立ち、炎の呼吸を眺めた。


「音楽がないと踊れませんの」

 軽口のつもりだった。けれど、クロード様は真面目に手を差し出した。


「足取りは覚えている。君が教えた」

 断罪の舞踏会の夜。あの時は音楽があり、嘘があり、勝利があった。

 今は音楽がなく、嘘もなく、ただ火がある。


 指先が重なる。体温が重なる。

 ステップは慎重で、けれど確かだった。火の明かりが、銀縁眼鏡に揺れて映る。


「レティシア」

 呼び方が、いつもより近い。


「君は、私の計算を狂わせる」

 胸が跳ねる。危険な告白の前触れだ。


「それは、宰相として失格では」

「宰相としては失格だ」

 即答だった。息が詰まる。

 否定されると思っていた言葉が、肯定されて落ちてきた。


「だが……いつか、仕事の山が少しだけ低くなったら」

 焚き火がぱち、と鳴った。


「ただの男として、君の前に立ちたい」

 君。

 その呼び名だけで、わたくしの世界が揺れた。仕事相棒の席から、別の席へ移動させられる感覚。椅子を引かれる前に、足が浮く。


「クロード様、わたくしは」

 続ける言葉が見つからない。見つけたくないわけではない。見つけた瞬間、戻れなくなるだけだ。


 その時、砂利を踏む音がした。宿の者ではない、硬い足音。

 暗がりから現れたのは、王城の伝令だった。煤けた外套、濡れた封蝋。


「宰相閣下。至急の書状です」

 伝令の視線が、わたくしの手に絡んだままのクロード様の指先へ落ちて、すぐ逸れた。見なかったことにしたふりが上手い。


 クロード様が封を切る。紙が擦れる音が、やけに大きい。

 わたくしは横から覗き、そこで文字を拾ってしまった。


 フェルディナンド帝国。使節団。

 そして、わたくしの名。

 皇太子妃候補としての関心。


 焚き火の熱が、急に遠くなる。黒い帳簿の端で見かけた帝国の名が、今夜は紙の上で息をしていた。

 クロード様の指が、紙を握り潰しそうに震える。


「……休暇は、終わりだな」

 その声は静かで、静かなほど怖かった。

 わたくしは焚き火を見つめたまま、次の舞台の匂いを嗅いでしまう。


 用意されたルートではない。けれど、誰かが用意した椅子が、また増える。

 帝国が、わたくしを呼んでいる。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

焚き火の熱より怖い「帝国からの呼び出し」、次話から王都の常識がひっくり返ります。レティは候補として連れ出され、クロードは宰相として手を伸ばせるのか。


面白かった、続きが気になった、と思っていただけたら、ブックマークと広告下の【☆☆☆☆☆】評価で応援して頂けると励みになります。感想も一言でも大歓迎です。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ