第10話 温泉と焚き火、宰相と婚約者のまだ途中の約束
「閣下、このままでは来週を迎えられません」
診察台の横で、王城侍医が淡々と言い切った。見慣れたはずのクロード様の指先が、黒い帳簿の角を掴んだまま硬い。
紙の匂い、インクの匂い、徹夜の匂い。国庫の赤線を消すために積み上げた夜が、ここへ来て肉体の方から反乱を起こした。
「誇張だ」
「誇張ではありません。脈が嘘をつきません」
医師は書類にさらさらと線を引き、最後に赤い印を押した。陛下の許可印まで揃っている。
「強制休暇、です」
その言葉が、剣より鋭く刺さった。
クロード様が誰かに命じられる姿を、わたくしはまだ見慣れていない。
「宰相として申し上げるなら、今は手を止められん」
「宰相として申し上げるなら、閣下が倒れた時の損失が最大です」
医師の声は容赦がない。容赦がないから、信頼できる。
クロード様の視線がわたくしに向いた。助けを求めるでもなく、責めるでもなく、ただ現実を共有する目だった。
胸の奥が、いやに熱い。
「レティシア」
名を呼ばれた瞬間、わたくしの方が先に動いていた。
「承りました、侍医殿。閣下は休ませます」
「君まで巻き込む必要はない」
「巻き込まれるのではありません。同行します」
言い切ってから、言葉の重さに自分で驚く。
政治の理屈でも、国庫の数字でもない。これは、婚約者としての我儘だ。
「……短期間で戻る」
「ええ。ですがその短期間は、仕事抜きで」
わたくしが微笑むと、医師が満足そうに頷いた。
クロード様は敗北した顔をしない。けれど、そのまつ毛の影だけが、ほんの少し落ちた。
その影を見て、わたくしは胸の内で小さく勝ったと思ってしまう。悪役らしい勝ち方だ。
湯治場は王都から馬車で半日。山の空気が冷たく、肺が洗われる。
到着してもクロード様の手は自然に鞄へ伸びた。書類を探す癖だ。
「禁句ですわ」
「何が」
「帳簿。会議。金環会。薔薇の使徒。帝国。ついでに『宰相として』も」
わたくしが指を折りかけて、やめた。癖で数えるのは、今夜は似合わない。
クロード様は唇を結び、観念したように鞄を閉じた。
この人が、わたくしの言葉で手を止めた。立場が反転した瞬間が、湯けむりより柔らかく胸に満ちる。
湯は硫黄の匂いがして、肌がほどけていく。わたくしは湯船の縁に頬杖をつき、窓の外の木々を見た。
静けさが怖い。静けさが贅沢だ。どちらも本音だ。
「君は、子どもの頃は何になりたかった」
クロード様が、珍しく先に話題を出した。仕事の切り口ではない問いだ。
「台所を救う人ですわ」
「……台所」
「火が弱いと鍋が焦げますし、水が濁ると腹を壊します。地味ですが、毎日です。毎日が崩れると国は崩れますもの」
言い終えて、しまったと思う。政治に寄せた。禁句を踏み抜いた。
けれどクロード様は笑わなかった。代わりに、目元だけが柔らかくなる。
「私は、本を読むだけで食べていける職が欲しかった」
「それは随分と贅沢ですわね」
「贅沢だ。だから諦めた」
諦めたと言いながら、今も本を読む目を捨てていない。だからこの人は恐ろしい。
湯けむり越しに、クロード様の横顔がいつもより若く見えた。書類の山を背負っていない顔だ。
わたくしは、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。守られる側でいることへの警戒が、ふっと緩む音だ。
「……仕事がないと、不安になるものですね」
わたくしの呟きに、クロード様が頷く。
「不安になる。だが」
「だが」
「君がここにいるなら、耐えられる」
湯の熱とは別の熱が、頬に上がった。
耐えられる、なんて。そんな言葉で、わたくしを抱き寄せないでほしい。抱き寄せてほしいのに。
夜、宿の裏庭で焚き火が燃えていた。客のための火らしい。星が近い。火の粉が跳ねて、闇に消える。
わたくしたちは並んで立ち、炎の呼吸を眺めた。
「音楽がないと踊れませんの」
軽口のつもりだった。けれど、クロード様は真面目に手を差し出した。
「足取りは覚えている。君が教えた」
断罪の舞踏会の夜。あの時は音楽があり、嘘があり、勝利があった。
今は音楽がなく、嘘もなく、ただ火がある。
指先が重なる。体温が重なる。
ステップは慎重で、けれど確かだった。火の明かりが、銀縁眼鏡に揺れて映る。
「レティシア」
呼び方が、いつもより近い。
「君は、私の計算を狂わせる」
胸が跳ねる。危険な告白の前触れだ。
「それは、宰相として失格では」
「宰相としては失格だ」
即答だった。息が詰まる。
否定されると思っていた言葉が、肯定されて落ちてきた。
「だが……いつか、仕事の山が少しだけ低くなったら」
焚き火がぱち、と鳴った。
「ただの男として、君の前に立ちたい」
君。
その呼び名だけで、わたくしの世界が揺れた。仕事相棒の席から、別の席へ移動させられる感覚。椅子を引かれる前に、足が浮く。
「クロード様、わたくしは」
続ける言葉が見つからない。見つけたくないわけではない。見つけた瞬間、戻れなくなるだけだ。
その時、砂利を踏む音がした。宿の者ではない、硬い足音。
暗がりから現れたのは、王城の伝令だった。煤けた外套、濡れた封蝋。
「宰相閣下。至急の書状です」
伝令の視線が、わたくしの手に絡んだままのクロード様の指先へ落ちて、すぐ逸れた。見なかったことにしたふりが上手い。
クロード様が封を切る。紙が擦れる音が、やけに大きい。
わたくしは横から覗き、そこで文字を拾ってしまった。
フェルディナンド帝国。使節団。
そして、わたくしの名。
皇太子妃候補としての関心。
焚き火の熱が、急に遠くなる。黒い帳簿の端で見かけた帝国の名が、今夜は紙の上で息をしていた。
クロード様の指が、紙を握り潰しそうに震える。
「……休暇は、終わりだな」
その声は静かで、静かなほど怖かった。
わたくしは焚き火を見つめたまま、次の舞台の匂いを嗅いでしまう。
用意されたルートではない。けれど、誰かが用意した椅子が、また増える。
帝国が、わたくしを呼んでいる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
焚き火の熱より怖い「帝国からの呼び出し」、次話から王都の常識がひっくり返ります。レティは候補として連れ出され、クロードは宰相として手を伸ばせるのか。
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