第1話 宰相婚約者と噂の朝
「王太子失脚! 舞踏会で断罪!」
「悪名高き令嬢、宰相閣下の婚約者に!」
「今度は宰相をたらし込んだのか、と市民は激怒!」
門前から聞こえる新聞売りの声が、朝の空気を乱暴に切り裂いた。
昨夜まで、わたくしは卒業舞踏会の光の中にいたはずなのに。
気がつけば、王都はもう次の物語を売り歩いている。
エルネスト侯爵家のサロンは、いつも通りに整っていた。
白いクロス。磨かれた銀器。窓辺の薔薇。
けれど、テーブルの上の新聞だけが、場違いなほど黒い。
わたくしはカップを持ち上げ、香りを確かめてから口をつけた。
この家の紅茶は、安心の味がする。
だから余計に、紙面の文字が苦い。
父が新聞を指先で弾いた。
外交官らしい落ち着きのまま、声だけが少し低い。
「レティシア。見出しは派手だが、肝はここだ」
「どこですの」
「陛下が宰相の判断を全面的に支持するとコメントを出している。これが公式の線だ」
母は新聞の別欄を覗き込み、目を輝かせた。
「まあ……公爵家当主からの求婚。しかも公の場で。これは伝説の始まりですわね」
「母上、伝説は厄介です」
「厄介でも、素敵よ。だって皆が驚くもの」
母の声は弾んでいるのに、背筋に冷たいものが走った。
皆が驚く。
つまり、皆が勝手に物語を決める。
昨夜、わたくしは確かに勝った。
王太子アルノルトは拘束され、マリア様も調査対象になった。
ゲームならそこで画面が切り替わって、破滅回避おめでとうの文字が出る。
でも現実は、祝福より先に噂が走る。
悪役令嬢が宰相を篭絡した。
王太子を陥れた女が、次は国を操る。
その言葉は、紙面から立ち上がって喉を締めた。
父がわたくしを見た。
政治家の目だ。
同時に、父親の目でもある。
「恐れているな」
「当然ですわ。昨日まで、わたくしは悪役の役を押し付けられていたのですもの」
「だからこそ、宰相はおまえを選んだ」
「選んだ理由が才覚なら、まだ救いがありますわね。もし盾なら」
「盾だとしても、おまえは折れない。そこは父として誇っている」
誇り。
その言葉だけで涙が出そうになって、わたくしはカップの縁を見つめた。
泣くのは後。
泣ける場所を確保してから。
母が手を伸ばし、わたくしの指先にそっと触れた。
「怖いのは分かるわ。でも、あなたは昨夜、自分の言葉で立ったのよ」
「借りております。証拠集めには、たくさんの人の手が」
「それでも、最後に立ったのはあなたよ」
母の体温が、紅茶の温度より優しかった。
胸の奥が揺れて、笑いそうになるのに、笑えない。
この揺れが、恋の前触れなのか。
それとも、破滅の記憶がまだ離れていないだけなのか。
わたくしは昨夜の光景を思い出した。
宰相クロード・フォン・ラグランジュ。
黒髪に銀縁眼鏡。
前に出て、淡々と求婚を告げた声。
あの瞬間、会場の空気が変わった。
王太子を失った貴族たちが凍りつき、笑う者が消えた。
そして、胸元や指輪に薔薇の意匠を持つ婦人たちが、わたくしから視線を外した。
避けるように。
まるで、何かを計り直すように。
自室に戻ると、窓の外は穏やかな青だった。
不自然なほど、何も起きていない朝。
だから、起きたことの異常さが際立つ。
わたくしは鏡の中の自分に微笑んだ。
金髪碧眼の令嬢。
前世のわたくしが画面越しに見ていた悪役令嬢。
攻略サイトには載っていない。宰相ルートは、情報が薄すぎる。
未知のルート。
つまり、落とし穴も未知だ。
昨夜の求婚が、救いなのか罠なのか。
その答えは、誰も教えてくれない。
なら、わたくしが決めるだけだ。
政略婚でも構わない。
今度は、わたくしがハンドルを握る。
誰かの台本に乗るのではなく、こちらから条件を出す。
仕事も、立場も、身の守りも。
全部、交渉して獲る。
机の引き出しから、薄い帳面を出した。
表紙の内側に、前世の癖で書きつけた単語が並ぶ。
フラグ。分岐。好感度。
笑える。
けれど、わたくしを救ってきたのも、この滑稽な整理術だ。
紙の上で、昨夜の出来事を盤面に落とし込む。
王太子派は崩れた。
ただ、消えたわけではない。
むしろ、静観の皮をかぶって息を潜める。
扉がノックされた。
侍女が入ってきて、封のされた書状を差し出す。
「宰相官邸よりでございます。急ぎとのことです」
「もう……早いですわね」
封蝋は黒。
刻まれた印は、見慣れないほど簡素だった。
わたくしは封を切り、中の短い文を読んだ。
『本日、午後。宰相官邸にて。形式は不要。必要なのは覚悟のみ。――クロード』
喉が乾いた。
形式は不要。
つまり、遠慮も甘さも不要という意味だ。
それでも、文末ののみが妙に真っ直ぐで。
思考の奥のどこかが、じり、と熱くなる。
書状を畳んだ指先が震えた。
怖い。
当然だ。
でも、それだけではない。
サロンに戻ると、父がすでに馬車の手配を終えていた。
「午後までに身支度を。同行は私だけだ。侯爵家として顔を立てる」
「ありがとうございます、父上」
「礼は後だ。宰相は忙しい。遅れれば、それだけで立場が歪む」
母は迷う素振りもなく、別室へ向かった。
「ドレスを選びましょう。噂の主役は、粗相をしないのが最強よ」
「母上、最強はやめてください。新聞がまた増えます」
「増えさせなさい。噂は刃にも盾にもなるわ」
盾。
父の言葉と重なり、わたくしは息を止めた。
さっきまで盾にされる恐れで苦しかったのに。
今は盾を持てることが、少しだけ心強い。
正午前、馬車に乗り込む。
窓の外で、新聞売りがまた叫んでいる。
「宰相の婚約者は悪女か、救世主か!」
どちらでも構わない。
決めるのは世間ではなく、わたくしだ。
けれど馬車が門を出る寸前、御者が小さく舌打ちした。
「また、これか」
振り返ると、門扉の隙間に薄い紙が挟まっていた。
誰の手か分からない。
けれど、紙に残る匂いだけが妙に甘い。
わたくしは指先でそれを抜き取り、裏を見た。
黒いインクで、短い文。
『庭は剪定される。棘に触れた者から。』
胸が冷えた。
昨夜、視線を外した婦人たちの薔薇の意匠が脳裏をよぎる。
そして、宰相の書状の言葉が重なる。
形式は不要。
必要なのは覚悟のみ。
こうしてわたくしは、断罪の翌日にはもう次の婚約者のもとへ向かうだけでなく。
誰かの刃が、こちらの喉元に触れていることまで知ってしまった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。噂に呑まれるか、噂を武器にするか――レティシアの選択が始まりました。続きが気になったら、広告下の【ブックマーク】と【☆☆☆☆☆評価】で応援していただけると執筆の燃料になります。次話、宰相官邸で“覚悟”の対価が提示されます。




