第9話 黒い帳簿と、揺れる敵幹部
黒い革表紙が机に置かれた瞬間、部屋の空気が重く沈んだ。
封蝋は割られているのに、まだ血の匂いが残っている気がする。
表紙の内側に押された印は、薔薇と硬貨。
そして最初の頁に、さらりと書かれていた。
『黒薔薇聖堂 献納』。
王城監査局長バルトロメウスが、眼鏡の奥で目を細める。
「これが金環会の裏帳簿ですな。合法の顔をした黒字の作り方が、全部書いてある」
「……帝国の神殿にまで流れているのですね」
「ええ。王国の血を抜いて、隣国に肥料をやっている。実に手際がよろしい」
私は国庫帳簿を開いた。
赤線で引かれた数字の列が、まだ痛々しい。
けれど黒い帳簿と並べると、線の意味が変わる。
ここからここまでが、金環会の噛んだ流通。
ここから先が、薔薇の使徒の吸い上げ。
そう見えた途端、怒りより先に寒気が来た。
「この支払い。孤児院の穀物配給が削られた月と合致します」
私の声は自分でも驚くほど平たい。
指先が震えたので、机の縁を掴んで止める。
「……あの子たちの皿が軽くなった理由が、数字で分かるなんて」
クロード様が背後に立ち、私の手を上から覆った。
暖かいのに、逃げ道のない重さ。
「見ておけ。目を逸らせば、また同じ手口で刺される」
「分かっています。分かっておりますけれど」
喉の奥が焼ける。
私が選んだのは、恋の椅子ではない。
国の椅子だ。
分かっているのに、私は弱い。
「局長。押収品の中に、契約書もありました」
クロード様が淡々と告げる。
「山賊に渡した装備の代金。支払元は金環会、受取人の符丁は『棘』」
バルトロメウスが低く唸った。
「棘。園芸の趣味かと思いましたが、物騒ですな」
私は言葉の端を拾う。
庭。
棘。
種まき。
前世の攻略本に、こんな内輪言葉は載っていなかった。
なのに、胸の奥だけが知っている顔をする。
頁をめくるたび、黒字の柱が現れる。
反対側で、赤線の意味が削れていく。
痛快さと同じ速度で、胃が冷えた。
勝利の形が、喜びにならない。
救うべき人数が、数字で見えるから。
「国庫への返納額は、この金額で確定します」
バルトロメウスが紙を差し出した。
「没収分を充てれば、来季の配給削減は戻せる」
私は息を吸い込んでから、頷いた。
「戻しましょう。今すぐ」
「善良ですな」
「善良ではありません。損得です。飢えた民は、いつか火になります」
口にした瞬間、自分の言葉が冷たくて嫌になった。
それでも、私は帳簿を閉じない。
閉じたら、この黒さが世界から消える気がした。
昼過ぎ、王城の小会議室に呼ばれた。
金環会当主は縄を打たれ、椅子に座らされていた。
あの男の目は、まだ商売の目だ。
罪の重さを秤にかけ、釣り合う言い訳を探している。
「財産は没収。組織は王家管理下に置く。違法取引の責任として当主は拘束」
裁定は短く、冷たい。
王は感情を見せない。
それが政治の優しさでもあり、残酷さでもある。
そして。
「若手幹部ロイは、監視付きで業務を継続せよ」
隣で立っていた男が、わずかに眉を動かした。
ロイ。
金環会の中で、数字だけで話が通じた相手。
私は彼の反応を見逃さない。驚き。屈辱。安堵。混ざった色。
当主が嗤った。
「甘いな。そいつは使える。だから生かす。平等だの改革だのと叫ぶ輩を黙らせてきたのは、誰だと思っている」
その台詞に、背筋がぞわりとした。
教団の匂いが混じっている。
当主はただの商人ではない。棘の手を借りて、南の土を荒らしてきた。
「口を慎め」
クロード様の声が鋭く落ちた。
当主の顔から笑みが消える。
そして私は気づく。
クロード様は、当主の背後まで知っている。
知りすぎている。
裁定が終わり、人がばらけた廊下でロイが私にだけ頭を下げた。
「……侯爵令嬢。いや、宰相閣下の婚約者殿」
「呼び方はどちらでも結構です。条件は理解しましたか」
「はい。監視役の名前まで渡されました。逃げたら即、首だと」
「逃げないのですか」
私が問うと、ロイは短く笑った。
「逃げれば市場が荒れます。民が困るのは長期的には損です」
その言葉が、妙に胸に残った。
敵の口から出たのに、正しい。
正しいから、痛い。
「あなたは教団に忠誠を誓っているわけではない」
私が低く言うと、ロイの睫毛が僅かに揺れた。
「忠誠という概念は、商人には重すぎます」
「では、あなたが重いと思うものは」
問い返した瞬間、ロイは口を閉ざした。
言いかけて飲み込む癖がある。
そこが、彼の生存戦略なのだろう。
夜。
宰相邸の執務室に戻ると、いつもの反省会の卓が用意されていた。
今日は少し豪華だ。
甘い焼き菓子と、湯気の立つスープ。
私が椀を受け取って、無意識に具を多めにすくってしまう。
次の瞬間、背後で控えていた使用人が小さく息を呑んだ。
……見られた。
「自覚はあるか」
クロード様が書類から目を上げずに言った。
「何のです」
「そなたは私を過労死させる気か。仕事と、甘やかしで」
「過労死させるほど甘やかしておりません。まだ生存圏です」
言い切ってから、私は自分の言葉に赤くなりかけた。
生存圏、とは何だ。
クロード様は笑わない。
けれど口元だけが、ほんの少し緩む。
「ならば安心だ。私はまだ死ねん」
机の
黒い帳簿と、揺れる敵幹部
黒い革表紙が机に置かれた瞬間、部屋の空気が重く沈んだ。
封蝋は割られているのに、まだ血の匂いが残っている気がする。
表紙の内側に押された印は、薔薇と硬貨。
そして最初の頁に、さらりと書かれていた。
『黒薔薇聖堂 献納』。
王城監査局長バルトロメウスが、眼鏡の奥で目を細める。
「これが金環会の裏帳簿ですな。合法の顔をした黒字の作り方が、全部書いてある」
「……帝国の神殿にまで流れているのですね」
「ええ。王国の血を抜いて、隣国に肥料をやっている。実に手際がよろしい」
私は国庫帳簿を開いた。
赤線で引かれた数字の列が、まだ痛々しい。
けれど黒い帳簿と並べると、線の意味が変わる。
ここからここまでが、金環会の噛んだ流通。
ここから先が、薔薇の使徒の吸い上げ。
そう見えた途端、怒りより先に寒気が来た。
「この支払い。孤児院の穀物配給が削られた月と合致します」
私の声は自分でも驚くほど平たい。
指先が震えたので、机の縁を掴んで止める。
「……あの子たちの皿が軽くなった理由が、数字で分かるなんて」
クロード様が背後に立ち、私の手を上から覆った。
暖かいのに、逃げ道のない重さ。
「見ておけ。目を逸らせば、また同じ手口で刺される」
「分かっています。分かっておりますけれど」
喉の奥が焼ける。
私が選んだのは、恋の椅子ではない。
国の椅子だ。
分かっているのに、私は弱い。
「局長。押収品の中に、契約書もありました」
クロード様が淡々と告げる。
「山賊に渡した装備の代金。支払元は金環会、受取人の符丁は『棘』」
バルトロメウスが低く唸った。
「棘。園芸の趣味かと思いましたが、物騒ですな」
私は言葉の端を拾う。
庭。
棘。
種まき。
前世の攻略本に、こんな内輪言葉は載っていなかった。
なのに、胸の奥だけが知っている顔をする。
頁をめくるたび、黒字の柱が現れる。
反対側で、赤線の意味が削れていく。
痛快さと同じ速度で、胃が冷えた。
勝利の形が、喜びにならない。
救うべき人数が、数字で見えるから。
「国庫への返納額は、この金額で確定します」
バルトロメウスが紙を差し出した。
「没収分を充てれば、来季の配給削減は戻せる」
私は息を吸い込んでから、頷いた。
「戻しましょう。今すぐ」
「善良ですな」
「善良ではありません。損得です。飢えた民は、いつか火になります」
口にした瞬間、自分の言葉が冷たくて嫌になった。
それでも、私は帳簿を閉じない。
閉じたら、この黒さが世界から消える気がした。
昼過ぎ、王城の小会議室に呼ばれた。
金環会当主は縄を打たれ、椅子に座らされていた。
あの男の目は、まだ商売の目だ。
罪の重さを秤にかけ、釣り合う言い訳を探している。
「財産は没収。組織は王家管理下に置く。違法取引の責任として当主は拘束」
裁定は短く、冷たい。
王は感情を見せない。
それが政治の優しさでもあり、残酷さでもある。
そして。
「若手幹部ロイは、監視付きで業務を継続せよ」
隣で立っていた男が、わずかに眉を動かした。
ロイ。
金環会の中で、数字だけで話が通じた相手。
私は彼の反応を見逃さない。驚き。屈辱。安堵。混ざった色。
当主が嗤った。
「甘いな。そいつは使える。だから生かす。平等だの改革だのと叫ぶ輩を黙らせてきたのは、誰だと思っている」
その台詞に、背筋がぞわりとした。
教団の匂いが混じっている。
当主はただの商人ではない。棘の手を借りて、南の土を荒らしてきた。
「口を慎め」
クロード様の声が鋭く落ちた。
当主の顔から笑みが消える。
そして私は気づく。
クロード様は、当主の背後まで知っている。
知りすぎている。
裁定が終わり、人がばらけた廊下でロイが私にだけ頭を下げた。
「……侯爵令嬢。いや、宰相閣下の婚約者殿」
「呼び方はどちらでも結構です。条件は理解しましたか」
「はい。監視役の名前まで渡されました。逃げたら即、首だと」
「逃げないのですか」
私が問うと、ロイは短く笑った。
「逃げれば市場が荒れます。民が困るのは長期的には損です」
その言葉が、妙に胸に残った。
敵の口から出たのに、正しい。
正しいから、痛い。
「あなたは教団に忠誠を誓っているわけではない」
私が低く言うと、ロイの睫毛が僅かに揺れた。
「忠誠という概念は、商人には重すぎます」
「では、あなたが重いと思うものは」
問い返した瞬間、ロイは口を閉ざした。
言いかけて飲み込む癖がある。
そこが、彼の生存戦略なのだろう。
夜。
宰相邸の執務室に戻ると、いつもの反省会の卓が用意されていた。
今日は少し豪華だ。
甘い焼き菓子と、湯気の立つスープ。
私が椀を受け取って、無意識に具を多めにすくってしまう。
次の瞬間、背後で控えていた使用人が小さく息を呑んだ。
……見られた。
「自覚はあるか」
クロード様が書類から目を上げずに言った。
「何のです」
「そなたは私を過労死させる気か。仕事と、甘やかしで」
「過労死させるほど甘やかしておりません。まだ生存圏です」
言い切ってから、私は自分の言葉に赤くなりかけた。
生存圏、とは何だ。
クロード様は笑わない。
けれど口元だけが、ほんの少し緩む。
「ならば安心だ。私はまだ死ねん」
机の上に、黒い帳簿の写しが置かれた。
バルトロメウスの署名。
そして、帝国の商会名が幾つも並ぶ頁。
私は指でなぞる。
知らない名前。けれど、同じ匂い。
王国の赤を吸った黒は、国境を越えている。
「帝国が動くのは確実です」
私が言うと、クロード様は淡々と頷いた。
「以前から目をつけていた。遅かれ早かれ、こうなる」
私は息を止めた。
以前から。
この部屋に来る前から。
彼はどこまで知っていたのだろう。
「クロード様は、どれほど前から薔薇の使徒を追っているのですか」
問いは、喉の手前で棘になった。
口に出せば、何かが変わる気がした。
けれど今は、変えてはいけない。
私は黙って帳簿を閉じる。
そのとき、綴じ目から薄い紙片が滑り落ちた。
書かれているのは、短い合言葉。
薔薇の印。
そして。
『北側の庭に、棘を増やす』。
私は紙片を裏返す。
日付は近い。
インクが新しい。
誰かが、これを今ここに混ぜた。
背後でクロード様が立ち上がる気配がした。
「……レティシア」
呼ばれた声が、低く割れる。
次に机へ落ちたのは、封蝋のついた別の封筒だった。
封蝋の紋章は、王国ではない。
薔薇の形をした帝国の印が、淡く光っていた。
読んでくださってありがとうございます。黒い帳簿で勝っても、薔薇の棘はまだ残りました。帝国の封蝋の中身は次話で――。
「続きが気になる」「レティとクロードの距離が好き」と思っていただけたら、広告下の【☆☆☆☆☆】から評価、ブックマークで応援いただけると執筆の燃料になります。感想も一言でも嬉しいです。




