第7話 囮馬車、山道をゆく
馬車の床板に、紙が落ちた。
踏めば破れる薄さなのに、落ちた音だけが妙に大きい。
拾い上げると、粗い印刷の文字が目に刺さった。
――平等の庭を作れ。枝は折れ、根は残る。
背筋が冷える。
昨日、襲撃現場から届いた包みの中にも、同じ匂いがあった。煽動ビラの束。紐でまとめられ、薔薇の印が押されていた。
そして、もう1枚の小さな紙片。
北側の庭へ、白い棘を誘え。
誘う。囮。
わたくしは息を吸って、吐いた。
今日は、台本の次の頁だ。けれど書き手は、もう1人ではない。
扉の外で蹄の音が揃う。
馬車を揺らす振動が、胸の内側にも響いた。
「レティシア」
クロード様の声が近い。低くて落ち着いていて、だから怖い。
外套の留め具を直す指が、必要以上に丁寧だった。指先の温度が、計算を崩してくる。
「目立つ装いだな」
「目立たなければ、食いつきませんもの」
「食いつかせるのは私の仕事だ。君は……揺れに備えろ」
言い終える前に、クロード様の視線が馬車の窓へ走った。
まだ薄い霧の中、見送りの兵が離れていく。誰もが、笑顔を作ろうとして失敗していた。
わたくしは、膝の上のビラを折り畳む。
目立つ囮仕様のドレスは白を基調に、裾だけ深紅。遠目には祝いの衣装に見える。笑える。死地に向かうのに、祝祭の色だ。
「君が乗る必要はない」
出発前、クロード様は同じ言葉を繰り返した。
宰相としてではなく、男として。
その差が、わたくしの心臓を余計に痛ませる。
「必要ですわ。これは、わたくしのフラグですもの」
「その言い方をするな」
「では、筋書きと言い換えます」
クロード様の眉が僅かに動く。
怒りでも諦めでもなく、噛み殺した不安の形だった。
馬車が動き出す。
石畳の音が土の道へ変わり、車輪の響きが山に吸われていく。
護衛は見えない距離。そう決めた。見えないからこそ、想像が勝手に増える。
山道に入ってしばらく。
わたくしの記憶では、ここで最初の襲撃が起きる。
木々が密になり、視界が狭まる曲がり角。前世の攻略本の挿絵が、薄紙みたいに脳へ貼りつく。
だが、矢は飛ばなかった。
代わりに、倒木が道を塞いでいた。
根ごとではない。切り口が新しい。わざとだ。
御者が馬を止める。
護衛が前へ散り、木の周囲を確かめる気配が伝わってくる。声は低く、合図だけが飛ぶ。
馬車の窓を少しだけ開けた瞬間。
黒い外套の影が、木の上を跳んだ。
クロード様だった。
宰相の黒は、会議室で椅子に座るための黒だと思っていた。
けれど今の動きは、書類ではなく戦場の動きだ。足場を選び、体重を預け、剣の柄に指を掛ける。
呼吸が止まりそうになった。
「見えない護衛のはずでは」
わたくしが呟くと、返事はすぐ隣から来た。
「見えない距離とは、触れられない距離ではない」
声だけ。姿は木陰に溶けている。
なのに、近い。
わたくしの胸が勝手に落ち着いてしまうのが悔しい。
倒木は、精鋭が手早く片づけた。
だが道は狭い。列は詰まり、時間がずれる。
ずれるほど、胸の奥の針が増える。
次のポイント。
本来なら、ここで人質が出て、交渉が始まる。
けれど現実は、崖の上から小石がぱらぱら落ちるだけだった。
……いや。
落ち方が不自然だ。
崖の上。影が動く気配。
わたくしは窓の縁を握りしめた。
来る。来るはず。
けれど矢が飛ばない。代わりに、崖の途中から土煙が上がった。
小さな崖崩れ。
道の端が抉られ、馬車の車輪が通れない幅になる。
御者が舌打ちを噛み殺す。
護衛が叫ぶ前に、合図が走った。
誰も慌てない。慌てさせない訓練の結果だ。
わたくしだけが、慌てている。
襲撃を待っている自分がいる。待たなければ終わらないと分かっている自分が、ここにいる。
胸が焼ける。
ヨアンの笑顔が浮かび、マルクの名が遅れて刺さる。
数字の損失ではない。顔だ。声だ。家族だ。
わたくしは、膝の上のビラを開いた。
平等、平等、と同じ単語が踊っている。踊りながら、血の匂いを連れてくる。
この紙を撒けば、下町が燃える。
燃えたら、金の流れは変わる。薔薇の使徒は笑う。
手が震えた。
わたくしは震えを止めようとせず、紙を強く握った。
痛みがある方が、まだ生きている。
道は迂回になった。
本来のルートから外れる。フラグが外れる。
外れたのに、逃げた気がしない。
迂回路の入口に、木杭が打たれていた。
目印のつもりだろう。雑な薔薇の印。
昨日の包みと同じ粗さ。だが、わざとらしく目に入る位置だ。
杭の根元に、金属が落ちていた。
泥に半分埋まった小さな硬貨。表に薔薇、裏に輪の意匠。
薔薇と硬貨。金環会の匂いがする。
わたくしはそれを拾い、指先で泥を拭った。
冷たい。
冷たいのに、指が離せない。
「拾うな」
低い声が耳に触れる。
クロード様が馬車の脇へ近づいていた。影みたいに。
「証拠になりますわ」
「君の手に血がつく」
「数字は嘘をつきません。なら、金も嘘をつきませんわ」
「……強情だ」
その言葉が、叱責ではなく安堵に聞こえた。
わたくしは硬貨を握り込み、袖に隠した。
小さな逆転。
囮のはずのわたくしが、証拠を掴む側に回っている。
日が傾く。
夜営地に着いたのは、想定より遅かった。
焚き火はしない。
灯りはランプを布で覆い、声は風に溶かす。
反省会は、椅子のある執務室ではなく、荷車の影で行われた。
クロード様が地図を広げる。
紙の上の線が、現実の山道と微妙にずれている。ずれは偶然ではない。
「崖崩れは人為だ」
「倒木も」
「手際がいい。山賊の仕事ではない」
クロード様が言い切る。
言い切れるほど、現場を見ている人の声だった。
わたくしは喉の奥が乾くのを感じた。
「では、誰が」
「君の台本を読める者だ」
その言葉で、昨日の紙片が脳裏に蘇る。
北側の庭。白い棘。
「誘うのは、山賊ではなく……わたくし自身を、別の場所へ」
「そうだ。襲撃の時間をずらし、こちらの包囲もずらす」
クロード様の指が地図の端を叩く。
予定の合流地点ではない。もっと狭い谷。
逃げ道が少ない。包囲が完成しやすい。だからこそ、危険だ。
わたくしの呼吸が乱れた。
怖い。怖いのに、引き返す選択肢が見えない。
「君は餌ではない」
クロード様が、少しだけ声を落とした。
「君を取り戻すためなら、私は……宰相をやめても構わない」
冗談に聞こえない。
それが、もっと怖い。
「やめてくださいませ」
わたくしは言葉を選ぶ余裕がなくなった。
「宰相の椅子は重いのです。あなたが立てば、国が倒れます」
「国は倒させない。君も倒れさせない」
短い沈黙が落ちる。
布で覆った灯りの下では、表情が読めない。
だから言葉だけが、真っ直ぐ刺さる。
風が揺れ、草が擦れる音がした。
護衛が合図を返す。
クロード様の指が止まった。
「……見張りがいる」
「山賊ですの」
「違う。山賊なら、ここまで待たない」
クロード様は僅かに顔を上げた。
「若い商人風だ。姿勢がいい。こちらを測っている目だ」
金環会。
あの場で、レティの数字を褒めた若手の顔が浮かぶ。
柔らかい声。利益の匂い。倫理の残りカス。
「ロイ」
名前が、わたくしの口から落ちた。
そのとき。
馬が鼻を鳴らし、鎖が鳴った。
夜の音の中で、異物の音だけが跳ね上がる。
次の瞬間、闇から声が飛んだ。
「白い棘を、北側の庭へ」
同じ文。
昨日の紙片と、同じ匂い。
クロード様の手が、わたくしの手首を掴む。
痛いほど強く。熱いほど確かに。
「馬車へ戻れ。合図は私が出す」
「もう始まっているのでは」
「始まらせない。終わらせる」
わたくしが息を吸うより先に、遠くで弦の鳴る音がした。
闇の奥で、何かが光る。
矢が、来る。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
今夜の矢は誰の指示か、「白い棘」の意味は何か――次話で一気に動きます。
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