第4話 輸送計画と、山を越える小さな夢
地図の端に置かれた布切れが、机上の灯りに濡れていた。
煤で描かれた薔薇は、王城の印章みたいに気品がない。棘だけが多い、雑な薔薇。
それを持ってきた斥候は、土と汗の匂いのまま頭を下げた。
「街道脇の木に結ばれておりました、見張りの真似事かと」
「真似事でも、場所が悪い」
クロード様の指が、布切れではなく地図を叩く。
山越えの峠道。今週、新商品を運ぶ予定の線と重なっていた。
昨日まで、敵は机の上の帳簿と手紙だけだった。
けれど今日、敵は山にいる。そう言われた気がして、喉が乾く。
地図の周りには木製の駒が並ぶ。馬車。護衛。補給。宿場。
わたくしは無意識に、前世で何度も見た「危険地点」を探した。小さな×印が脳裏で点滅する。ここで襲撃、ここで誘拐、ここで救出。
なのに現実の紙面には、ただ川と道と、傾いた等高線だけがある。
「まずは速度だ、山で止まれば守るものが増える」
「護衛は少数精鋭、目立たない方がいい」
「目立たない輸送隊に、護衛の意味がございますの?」
「目立つのは荷だ、人ではない」
わたくしは細い川筋に指を置く。
前世の地図では、ここに朽ちた橋があった。崩れて足止めになり、山賊が出てきて――そういう筋書きだった。
「この橋は危険です、ここで止まると――」
「補修済みだ、昨年の洪水で壊れた時に軍が直した」
言い切られて、心の中の「確定」が1本折れた。
……そうだ。この世界は、わたくしの攻略本通りに進むための舞台ではない。
小さな逆転は、いつも静かに起きる。
未来を知っているつもりのわたくしが、今この場で、知らない側に落ちる。
怖い。けれど、その怖さは悪くない。
知らないから、選べる。書き換えられる。
「控え馬車を1台、荷を幾つかに分散して、峠の手前で待機させます」
「いい、君の案は守りに見えて攻めだ」
斥候が咳払いした。
「その……布切れの薔薇、同じものをもう2つ見つけました」
地図の上に、目印みたいに布切れが置かれていく。峠道の入口。谷へ落ちる崖の手前。
薔薇が、道に植えられている。
会議が終わったあと、わたくしは倉庫へ向かった。
石造りの倉庫の中は、新しい硝子と油の匂いが混ざっている。試作品のランプが並び、石鹸の箱が積まれ、保存食の樽が転がる。
数字が、物に変わる瞬間だ。
「侯爵令嬢様、いや……宰相閣下のご婚約者様」
輸送隊の隊長が帽子を取った。顔に日焼けの跡、腕は太く、目はよく動く。
「積み荷の検分で?」
「ええ、紙の上では軽い荷でも、現場では重いでしょう」
「重いのは荷より、期待です」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
商談の席で聞いたのは「安すぎる」という文句だった。けれどここで聞くのは、もっと素直で、もっと怖い。
期待。裏切れない言葉。
倉庫の隅で、若い御者が馬具を磨いていた。指先が真面目に動く。
荷役の女性が笑う。笑い方が優しい。
「その子、ずっと磨いてるのよ」
「妹がね、来年から学び舎に行きたいって、学費がいるんだと」
御者が顔を上げ、慌てて頭を下げる。
「すみません、聞こえていましたか」
「聞こえた方がいいわ、妹さんの夢は馬車の車輪より軽くありませんもの」
別の荷役が樽を抱えたまま息を吐いた。
「親父の薬がさ、冬になると咳がひどくて」
言い訳みたいに笑って、すぐ真顔になる。
「金環会の値段だと薬代を払うと飯が減る、今度の契約は助かる」
その言葉が刺さった。数字の列より重い。
倉庫の外では、子どもが新しいランプの硝子を覗き込み、跳ねるように走っていった。
あの灯りが伸びるのは、夜だけではない。未来もだ。
感情が大きく揺れたのは、その瞬間だった。
わたくしは戦場を帳簿に変えたつもりでいた。冷たい線で勝てると思っていた。
けれど、この倉庫には熱いものがある。生活。息。小さな夢。
それを失わせるなら、わたくしが書き換えた意味がない。
「明日、出発いたします」
隊長が言った。
「峠を越えて、北の市場へ、灯りを運ぶ」
「無事に帰ってきてくださいませ」
口にした瞬間、言葉が祈りに変わったのが分かった。
翌朝、馬車列はまだ薄い霧の中で動き出した。
車輪の音が石畳を規則正しく叩く。護衛の足取りは軽い。隊長は笑って手を挙げた。
わたくしはクロード様と同じ馬車ではなく、少し後ろの護衛馬車に乗った。現場の空気を吸うために、と言い訳しながら。
「君が乗る必要はない」
出発前にクロード様は言った。声は低いのに、手はわたくしの外套の留め具を確かめるように触れた。
「必要です、机の上の地図は揺れませんもの」
「揺れるのは君だ」
「揺れても、落ちませんわ」
峠へ近づくにつれ、道は細くなり、木々の影は濃くなる。鳥の声が減り、代わりに風が増える。
休憩で馬車列が止まった時、護衛の1人が何気なく斜面へ視線を投げた。わたくしもつられて見上げる。
木立の隙間に、布が揺れた気がした。
土に溶ける色、風に乱れる形。けれど薔薇だけは分かる。棘ばかりの、雑な薔薇。
目を凝らした瞬間、影はもう消えていた。
夜、宿場の小さな宿に灯りがともる。
狭い部屋の机に、クロード様と向かい合って座った。机の上には地図と、湯気の立つ茶と、保存食の試作品。
反省会4回目。型があるだけで、心が少し落ち着くのが腹立たしい。
「予定通りだ、峠の手前で休み、明朝に越える」
「……今日、斜面に旗が見えました」
「見張りか」
「薔薇でした」
クロード様の眼鏡の奥で光が揺れる。
わたくしは息を吸った。言葉にすると、筋書きが現実を追い越す感覚が怖い。
「このルート……どこか、誘拐の筋書きに似ています」
言った瞬間、空気が薄くなった気がした。
クロード様が茶を置く。指先が静かに止まる。
「誰が攫われる想定だ」
「……分かりません、ただ似ているだけです」
「似ているだけで、君は怯えるのか」
「怯えていません、警戒しています」
クロード様が何か言いかけた、その時。
扉が叩かれた。
「閣下、急報です」
護衛が封書を差し出す。封蝋は薔薇だった。だが硬貨の縁取りがない。歪んだ薔薇。棘が多い薔薇。
あの布切れと同じ、雑な薔薇。
クロード様が封を割る前に、わたくしの手が動いていた。
封蝋に触れた指先が、煤の匂いを覚える。
明日の峠は、ただの道ではない。
わたくしの中で、存在しないはずの警告音が鳴り始めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
歪んだ薔薇の封蝋――明朝の峠で何が起きるのか、レティとクロードは予定表ごと守り切れるのか。
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