第2話便利で塗りつぶす赤線と、金環会の抗議文
紙束の先頭に、太い筆で『石鹸 入荷停止』『灯油 値上げ』と並んでいた。最後の行だけが短い。『原因 金環会か』。宰相府の会議室で、その紙が回った瞬間、誰も咳をしなかった。
国庫の赤線は、机の上の帳簿だけではない。町の棚にも引かれている。
「在庫が消えたのは昨夜からです」
財務官が声を落とす。
「表向きは不作と輸送遅延、ですが買い占めの動きが……」
クロード様は頬杖のまま、視線だけで続きを促した。
わたくしは息を吸う。赤字と欠品の列が、前世のイベント画面みたいに並ぶ。ここで黙れば、台本どおり民が怒り、誰かが煽り、火が付く。
「不足は不満を生みますわ、なら不足そのものを減らしましょう」
わたくしは立ち上がり、黒板を引き寄せた。
白墨が鳴る。指が勝手に動く。
「石鹸の改良、保存食、簡易コンロ、安価なランプ」
「……急ですね」
年配の官吏が眉を寄せる。
「国庫が赤いからといって、令嬢の思いつきで市場を動かすのは危険では」
言い方は丁寧でも、刺す場所だけは正確だ。
わたくしは微笑みを崩さない。悪役の仮面は、相手が上品なほどよく効く。
「思いつきではありません、赤線の正体は生活必需品の細い首です」
「首?」
「石鹸がない、灯りが高い、保存が利かない、すると病が増え、夜が伸び、食が腐ります、税が落ちる前に人が倒れます」
会議室の空気が硬くなる。誰も反論しない。反論できない。
クロード様が、静かに手元の資料をめくった。
「試験地は」
「エルネスト領と宰相領です、材料と職人が揃っています、まずは小さく回し数字と評判を取ります」
白墨で地図の形を描き、領地に印を付ける。点が増えるほど、責任が重くなる。
前世の記憶が喉に絡む。市場争奪戦。価格戦争。悪意ある噂。正しいことをしても燃やされる分岐。
胸が熱くなり、次に冷える。怖い。数字の列より、沈黙の民衆の方が怖い。
指先が震えた。白墨が折れ、粉が黒板に落ちる。
「レティ」
クロード様が、わatくしの名を呼んだ。呼び方だけが、会議用の距離ではない。
わたくしは折れた白墨を握り直し、手を止めた。
「契約で縛ります」
声が少しだけ割れた。
「搾取も買い叩きも金環会と同じ土俵になりますもの、職人に前金、価格は段階制、材料の横流し防止の条項も入れます」
「君が書くのか」
「ええ、宰相の隣で書類から逃げるつもりはございません」
その瞬間、椅子の軋みが鳴った。
国王陛下が、机を軽く叩く。
「宰相、侯爵令嬢の案を採用する」
「承りました」
クロード様は立ち上がり、わたくしの椅子の背へ手を添えた。
そして、会議卓の端ではなく、王の視線が届く側へ椅子を滑らせる。
「ここだ」
短い命令。
席が動く。それだけで立場が動く。さっきまで婚約者の飾りとして見ていた視線が、盤面の駒を見る目に変わった。
わたくしの中で、怖さの形が変わる。逃げたい怖さではなく、前へ出る怖さだ。
午後。宰相邸ではなく、王都の裏通りへ向かった。
新事業の話は会議室で終わらない。紙の上で綺麗な線を引いても、現場の手が汚れていなければ回らない。
小さな工房の扉を叩くと、獣脂と薬草の匂いが押し返してきた。
作業台の向こうに、痩せた男と、手の荒れた女。足元には小さな子がいて、灯りの芯を編んでいる。
「宰相閣下の……婚約者さま?」
男の声が震える。
噂は広い。悪役令嬢の噂も、国庫再建の噂も、同じ速さで広がる。
「仕事のお話ですわ、あなた方の石鹸を王都の孤児院へ流したい」
「うちの石鹸は高くありません」
「だからです、高い物は金環会が奪い合います、安い物は潰されます、なら安くても潰せない形にします」
わたくしは契約書を広げた。紙は薄い。けれど、ここに未来の重さを詰める。
前金の額。材料の調達先。納期。品質の基準。病院と孤児院への優先供給。利益の配分。
男が読み、女が頷き、子が指先で紙の端をなぞる。
「……こちらが損をしたら?」
女が小さく尋ねた。目は強い。生活は人を弱くしない。
わたくしは言葉を選ぶ。貴族の都合で笑われる言い方だけはしたくない。
「損は分けます、あなた方だけに背負わせません、だから誤魔化しも許しません」
わたくしの言葉に、男の背が少しだけ伸びた。
「名前を」
クロード様が促す。
男は羽根ペンを握り、震えを抑えながら署名した。
紙に落ちた墨の黒が、今朝の赤線よりずっと眩しく見えた。
わたくしはその黒を見て、胸が痛くなる。便利で塗りつぶすとは、誰かの手を使うことだ。
間違えれば、救うはずの手を焼く。
夜。宰相執務室。
昼の資料が積み直され、紅茶と焼き菓子が置かれている。昨日より香りが濃い。宰相領の焼き菓子だと、給仕が囁いた。
戦略反省会の2回目。甘さが増えた分だけ、戦場が近い。
「今日は動いたな」
「動かされましたわ、席も責任も」
「望んだ形だろう」
「望んだのは赤線が減る未来です、今日の黒はその代価の色です」
クロード様はカップを置き、わたくしの指先を見た。
白墨の粉が爪の間に残っている。工房の匂いも、まだ袖に絡む。
「怖いか」
胸の奥が跳ねた。答え方を間違えれば、可哀想な令嬢になる。強がれば、独りになる。
「怖いです、でも怖がっている暇もありません」
「なら、怖さを共有しろ」
「宰相閣下が?」
「婚約者が」
その声は低いのに、熱がある。
わたくしは笑うつもりだったのに、喉が上手く動かない。代わりに、焼き菓子を小さく割って口に入れた。
甘い。妙に甘い。涙の味を誤魔化すのに丁度いい。
机の端に、昼の事業計画書が積まれている。
その最上段の紙が、少しだけずれていた。
引き抜くと、白い封筒が挟まっている。封蝋は金の輪。その中心に、棘を描いた薔薇の刻印。
わたくしの背が冷えた。
早すぎる。まだ商品は形になっていない。
「金環会からですわね」
わたくしは封を切った。紙は上質で、字は端正だった。脅しの言葉を、礼儀で包んでいる。
『貴殿の提示する価格は安すぎる。市場を乱す。明日12時、協議の場を求む。拒めば材料の供給は停止する』
末尾に、短い追記。
『民が困るのは、長期的には損です』
その言い回しが、不思議と耳に残った。
クロード様が紙を取り、目を細める。
「この筆は……」
言葉が途切れた。
わたくしは封蝋の薔薇を見つめる。金の輪の中で棘が笑っている。
明日12時。会議より正確な期限。
便利で塗りつぶすつもりの赤線が、今夜はわたくしの喉へ引かれている。
ここまで読んでくださりありがとうございます!明日12時、金環会との協議が始まります。相手の狙いと筆跡の正体は――次話で。面白かったら、広告下の【ブックマーク】&【☆☆☆☆☆評価】で応援いただけると、とても励みになります。




