第1話 赤字まみれの王冠と、薔薇刻まれし帳簿
「――この赤線をすべて消すには、王都10個ぶんの薔薇園を売り払っても足りませんわね」
国庫帳簿の頁は、血管の図みたいに赤い線で埋まっていた。
赤字。赤字。赤字。
線はまっすぐなのに、見ているだけで脈が乱れる。誰かの出血が、机の上に静かに広がっているようだった。
頁の端を指で押さえる。紙が乾いている。なのに指先だけが冷えた。
押収資料の山の中から、この帳簿が出てきた時、クロード様は眼鏡越しにただ言った。
「読め」
命令みたいで、けれど逃げ道も同じだけ用意された声だった。
頁の隅に、ほんの小さな凹みがある。薔薇と硬貨を重ねた印章。金環会の金の輪とは違う、別の輪郭。
そして、そのすぐ横に細い字で商会名が紛れていた。
フェルディアのラーデン商会。
帝国の名が、国庫の赤線のそばで呼吸している。まだ意味は掴めない。けれど、嫌な匂いだけは確かだった。
扉が叩かれ、侍従が顔を出す。
「侯爵令嬢。陛下が財政会議へお呼びです」
膝の上で手袋の指が勝手に折れる。私の席は、また増えた。椅子が増えるたび、背骨に重みが積もる。
王城の会議室は、寒いほど整っていた。
机は長く、椅子の背は高い。背の高さが、そのまま言葉の強さになる場所だ。
玉座に近い上座にレオンハルト陛下。右手にクロード様。黒と白の配色が、ここでも空気を締める。
反対側には古参の財務官僚たち。紙の匂いより先に、ため息の匂いが来た。
私は……机の端に置かれた小さな椅子へ案内される。宰相の隣ではない。隣の隣でもない。発言するなら、まず視線を泳がせて許可を探す距離。
椅子が、立場を説明していた。
「では始める」
陛下の声が落ちる。書記官が頁をめくり、赤線が見える位置で止める。
「王太子の浪費の穴は塞いだ。だが国庫は息をしていない。宰相」
「税の前借りで延命は可能です。しかし、民の喉を締めます」
クロード様の言葉は淡々としている。淡々としているから、嘘が混ざらない。
古参の財務官が口を挟む。
「では支出を削るしかありますまい。王都の工事、救貧、地方への補助……」
「削れば、反発が出ます」
別の者が続ける。
「ならば売却だ。王家の庭園や別邸を。資産はある」
庭園。別邸。
さっき私が口にした薔薇園が、現実の提案になって戻ってくる。喉の奥が渇いた。
私は帳簿の赤線を追う。線の太さではなく、隣に並ぶ文字を見た。
日付が飛び、品目が変わり、担当局が変わる。なのに、同じ言葉が繰り返されている。
庭師代。
毒殺未遂の裁きで見た単語。比喩の顔をした金の流れ。
これがここにもある。しかも、ひとつやふたつではない。年をまたいで、息をするみたいに続いている。
心臓が嫌な跳ね方をした。
前世の攻略本の余白で読んだコラムが、紙面の赤線と重なる。教団は、金で庭を整える。棘を増やす。高い塔へ蔦を伸ばす。
……落ち着け。ここは会議室だ。私は令嬢の顔をして、数字を見ろ。
扇子を閉じ、膝の上で握る。手袋の革が軋む音が、自分の呼吸を思い出させた。
「陛下」
声が出る前に、古参がこちらをちらりと見る。若い女が口を出すな、と言わないだけで十分だという目。
私は笑みを作る。短い冷たさは武器になる。
「ご許可を。支出の列に、ひとつだけ不自然な呼吸がございます」
会議室の空気が止まった。
陛下の視線が、私の小さな椅子へ向く。玉座からではなく、同じ高さで測るような目だった。
「言え」
その瞬間、侍従が私の背後の椅子を引いた。
ぎ、と床が鳴る。私の椅子が、机の内側へ滑る。わずかな距離。されど世界がひとつ分変わる音。
小さな逆転。
私は椅子に座り直し、帳簿を開いたまま指先で列を叩く。
「浪費の穴は入口です。問題は、こちら。名目が毎回違うのに、支払先だけが揃いすぎております」
「支払先?」
バルトロメウス監査局長が眉を上げる。犬が匂いを拾った目だ。
「同じ商会が、救貧の粉にも、王都工事の資材にも、神殿の寄進品にも絡んでおります。しかも、単価が年ごとに微妙に上がっている。上がり方が、税でも物価でもなく……恐らく、合意の値ですわ」
古参が唇を尖らせる。
「合意とは。市場の変動だろう」
「市場なら、別の商会も上がるはずです」
私は頁の隅を示す。薔薇と硬貨の凹み。押した者の指圧がまだ紙に残る。
「この印章が入るものだけ、上がり方が揃っております」
誰かが息を呑む音がした。
クロード様の指が机を軽く叩く。肯定ではない。続けろ、の合図。
陛下が低く言う。
「監査局長。形にせよ」
「承知しました」
バルトロメウスが帳簿を引き寄せる。老獪な指が、赤線をなぞった。
古参の誰かが、ようやく声を絞り出す。
「しかし、そこまで広い取引網を持つのは……」
「金環会です」
クロード様が、私の代わりに答えた。
その名が落ちた瞬間、会議室の空気が変わる。噂だけが先に太った闇商会。生活必需品の流通を握り、表の顔は慈善家。
なのに、帳簿の赤線のそばで名前を聞くと、慈善の仮面が剥がれる気がした。
会議は決裁へ流れていく。監査の権限。輸送と市場の調査。法の整備。
私は頷きながら、頭のどこかで別の音を聞いていた。
赤線が増える音。民の怒りが溜まる音。王都がきしむ音。
私の感情が大きく揺れた。
怖い。怒りよりもっと深い怖さ。数字の列が、火種の場所を指で示してくる怖さ。
ここで間違えれば、断罪の舞踏会より派手に人が倒れる。花ではなく、家が燃える。
会議が終わり、席が立ち上がる。
椅子が引かれる音が重なり、私は自分の椅子の重さを確かめるように立った。
廊下へ出た途端、クロード様が私の歩幅に合わせる。護衛ではなく、同じ戦場の人間の歩き方だ。
「君は、よくそこに気づいた」
「わたくしは、帳簿の端を見ただけですわ」
「端ほど、刺さる」
短い言葉の裏に、別の意味が詰まっている気がして、私は頬の内側を噛んだ。
彼は最初から、金環会と薔薇の使徒が繋がっていると知っていたのではないか。知っていて、私に読ませたのではないか。
疑いは怖い。けれど、今は必要な怖さだった。
夜。宰相執務室。
机の上には会議の資料が積み直され、紅茶と焼き菓子が控えめに置かれている。戦略反省会の形。昼に削った分の空気を、ここで取り戻す儀式。
「今日は甘いものを用意した。君が苛立つと、紙が死ぬ」
「紙が死ぬ前に、宰相閣下が眠ってくださいませ」
「眠れば国庫が黒くなるなら、今すぐ寝る」
軽口の形を借りたため息が、少しだけ胸を緩めた。
私は椅子の背に指を置く。あの隣の椅子とは違う。けれど同じ重さがある。言葉を交わすほど、重みが私の側へも移ってくる。
クロード様は眼鏡を外し、帳簿を開く。赤線が灯りに浮かぶ。
「金環会は財布だ。だが、財布の持ち主がいる」
「薔薇の使徒」
私が口にすると、舌が冷える。
クロード様の目が、僅かに細くなる。
「その名を口にするなら、覚悟も揃えろ。ここから先は、庭の手入れでは済まない。棘が出る」
棘。教団の隠語が、彼の口から自然に出た。説明のためではなく、知っている者の癖として。
やはり、この人は前から内側を見ている。
私は帳簿の頁をめくり、またあの小さな文字に指が止まる。
フェルディアのラーデン商会。
帝国。金環会。薔薇の使徒。
線が線を呼び、赤が赤を増やす未来が見える。
息を吸う。吐く。逃げるためではなく、座るための呼吸だ。
「筋書き通りに転ぶほど、退屈な女ではありませんので」
私の声が、思ったより硬かった。
クロード様が小さく頷く。
「ならば、退屈にさせるな。君自身も」
紅茶の湯気が揺れ、薔薇の甘い香りが、ほんの短い間だけ混じった気がした。
私はその香りを、好きにはなれない。
ゲームのラスボス格の名が、現実の帳簿にまで刻まれているなんて。
ここまで読んでくださりありがとうございます。国庫の赤線の裏に、薔薇の匂いが混じり始めました。次話では帳簿の印章の正体と、帝国商会の影に宰相閣下が踏み込みます。続きが気になったら、広告下の【☆☆☆☆☆】評価とブックマークで応援していただけると励みになります。




