感情の暴徒
夜の風が屋上を吹き抜け、ソーの黒い翼を揺らした。
ミオの泣き声が、まだ耳の奥に残っている。
胸が痛い。
痛くて、息ができない。
――近づかないで。
あんな言葉、本当は言いたくなかった。
でも、言うしかなかった。
ソーは拳を握りしめた。
鋭い爪が掌に食い込み、じわりと血が滲む。
痛みは、むしろ救いだった。
心の痛みより、ずっとましだから。
「……ミオ」
名前を呼ぶだけで、翼が震える。
胸の奥が熱くなる。
心臓が跳ねる。
獣人化してから、ソーは自分の体が“感情に反応する”ことを嫌というほど思い知らされた。
ミオの匂いが近づくと、呼吸が乱れる。
声を聞くだけで、翼が勝手に広がりそうになる。
足音が近づくと、心臓が暴れ出す。
名前を呼ばれたら――もう制御できない。
治療師の言葉が頭にこびりついている。
「最も危険なのは“恋情”だ。その相手には、決して近づくな。感情が高ぶれば、翼も爪も牙も、すべて暴走する」
ソーはその意味を、誰よりも理解していた。
ミオの前に立つと、翼が震える。
爪が伸びる。
呼吸が荒くなる。
視界が赤く滲む。
――触れたら、壊してしまう。
その恐怖が、ソーを縛りつけていた。
「ミオに……触れたいのに……」
呟いた声は、夜風に消えた。
触れたい。
抱きしめたい。
あの日のように、小指を絡めたい。
でも、それが一番危険だ。
ミオの肌は柔らかい。
自分の爪は鋭い。
翼は力が強すぎる。
抱きしめたら、折ってしまうかもしれない。
ミオの涙を拭いたいのに、
その涙を流させているのは自分だ。
「……守りたいんだ。ミオを」
ソーは胸元を押さえた。
心臓が痛いほど脈打っている。
「だから……拒絶するしかないんだよ……」
ミオを傷つけないために。
ミオを守るために。
ミオを壊さないために。
ソーは自分の翼を抱きしめ、膝をついた。
「好きだから……近づけないんだ……」
その本音だけは、
ミオにだけは、絶対に言えなかった。




