第3話:宦官の影と秘密の帳簿
宮廷に朝日が差し込むころ、私は早くも今日の仕事に取り掛かっていた。
小さな器を抱え、廊下を歩くと、昨日の毒事件の余韻がまだ残っている。匂い――甘く、硫黄が混ざった微かな香り――が、宮廷の隅々まで染み付いているように感じる。
「瑠璃さん、ちょっといいか?」
背後から宦官・涼が呼び止める。情報屋として知られる彼は、宮中の影の動きを掌握している。手元には小さな帳簿を差し出した。
「医局の動きと、薬草の在庫。怪しい取引があるかもしれない」
私は帳簿に目を通す。数字と文字の羅列の中に、不自然な在庫の変化と不明瞭な支出。意図的な隠蔽の匂い――嗅覚でなくても、これは見抜ける。
「誰かが意図的に薬を回している……ただの管理ミスではないわ」
杜コウが横で小声で言う。「瑠璃さん、怖くないですか?」
「怖いけど、嗅ぎ分ける仕事だからね」
私は微笑む。笑顔で誤魔化すが、心の奥では不安もある。宮廷の闇は、単なる毒や病気以上に深い。
その日の午後、私は側室の回復を確認しつつ、黎と短く顔を合わせる。
「進展は?」
黎は無表情で訊くが、目だけは私を追っていた。昨日よりも、微かに警戒心が和らいでいるように見える。
「怪しい帳簿を見つけました。医局の一部が薬を横流ししている可能性があります」
「なるほど……信用できるのか?」
「嗅覚と観察眼を信じてください」
その言葉に、彼は一瞬だけ頷いた。
夜になり、帳簿の記録と匂いの情報を基に、解毒薬と調査用の薬草を調合する。
桂皮、甘草、茴香――微妙な香りの違いを頼りに、誰が関与しているかを推理する。
「匂いを頼りに、証拠を集める……それが私の仕事」
杜コウは手伝いながらも、好奇心と少しの恐怖を交えた表情で見つめる。
すると、涼が低い声で告げた。「注意しろ。誰かが帳簿の動きを探っている」
その瞬間、私の背後に微かな硫黄の香りが漂った。昨日と同じ、だがわずかに鋭く尖った匂い。
「次の標的……?」
心の中で呟き、私は身構えた。
宮廷の影は深く、甘い香りの裏には必ず毒が隠れている。
黎の視線が私を追う。道具としての関心か、それとも――微かに揺れる心か。
匂いで真実を嗅ぎ分ける私の仕事は、まだ始まったばかりだった。