第2話:影に潜む香り
宮廷の朝は、予想以上に冷たい。
外の庭園に差し込む光は柔らかいのに、廊下を満たす空気は湿気を含み、何かを隠しているようだった。私、白石瑠璃は、小さな器を抱えたまま、初めての“正式な毒見”に臨む。
「瑠璃、準備はいいか?」
皇太子・黎の声が背後から響く。冷静で、感情をほとんど見せない声。けれどその声の奥には、わずかな苛立ちが混ざっている。私が宮中での経験が浅いことを見抜いているのだろう。
「ええ、大丈夫です」
私は答えながら、器の中の液体を再び嗅ぐ。甘く、微かに金木犀の香りが混ざる――しかし、鋭い硫黄の匂いが、昨日よりも濃く漂う。計算された混合だ。人の手による毒の証拠。
「側室の体調は?」
「倦怠感と軽い発熱。まだ初期症状だ。早めに見つけられれば、致命的にはならない」
宦官の涼が低い声で報告する。彼の情報網は広く、宮中の細かな動きまで漏れなく追っている。だが、彼の目には微かな警戒心もある。
私は器の液体を慎重に調べながら、症状と匂いの組み合わせを頭の中で整理する。
「この毒は、熱で揮発しやすく、長時間放置すると症状が薄れる……つまり、朝のうちに投与された可能性が高い」
心の中で呟くと、杜コウが私の隣で目を輝かせた。「すごいです、瑠璃さん。匂いだけでそんなにわかるなんて!」
「匂いは、記憶とセットで読むものよ」
私の声は小さい。宮廷の廊下には、私たち二人以外の音はほとんどない。だが、壁の向こう、豪華な部屋の奥で、誰かが私たちを観察している気配がする。
その夜、側室の部屋で薬を調合する。私の手は震えない。冷静に、症状に合わせた解毒薬の組み合わせを試す。桂皮、甘草、微量の水銀――慎重なバランスで調合しなければ、毒よりも薬の方が危険になる。
「これで、きっと……」
私の声は囁きになった。手の中の器をそっと揺らす。薬は、ゆっくりと金色に光る液体となった。
翌朝、側室は穏やかな表情で目を覚ました。微かに青白い頬ではあるが、呼吸は安定している。ほっと胸を撫で下ろす。
杜コウは嬉しそうに跳ねる。「瑠璃さん、本当に助かりました!」
しかし、私はまだ安心できなかった。匂いの奥に残る、微かな不自然さ――それは、誰かが次の一手を考えている証拠だった。
黎が私の背後に立ち、低い声で言った。「次も同じように頼む。宮廷には、まだ多くの影が潜んでいる」
その言葉に、私は小さく頷く。
毒と嘘と陰謀――宮廷はまだ始まったばかりだった。