46.
「――だから、どうして教えてしまうのですか、あのひとは……!」
小姫を見るなり天を仰いだ乙彦は、そう言って額に手を当てた。
乙彦が潜んでいたのは、ほとんど人の訪れない、静謐な空気が流れる場所――古鏡湖だった。
セイが暴れたおかげで、随分と殺風景に様変わりしている。湖を取り囲む木々の葉は、紅葉する前に半分ほどがなくなり、細い枝は千切れ、中くらいの枝は折れている。地面に落ちたはずの木や葉も大半が風でどこかへ飛ばされ、残りは透き通る湖の表面に浮いていた。
岩の神に居場所を聞いた小姫は、その足でまっすぐ古鏡湖へ向かった。湖のふちに立ち、何度も名前を呼ぶと、乙彦が観念した様子で水の中から這い出してきた。彼は最後に見た時と同じ姿で、岩の神のように縮んでもいないし、セイのように成長してもいない。腕も足もあって、変わりはないように見えた。
乙彦はだるそうに水を払い、「約束の意味は」とか「私が今までどれだけ我慢をしてきたと思って」とかぼやいていたが、呆けたように立ち尽くしていた小姫がぼろぼろと涙をこぼし始めると、目を見開いて固まった。慌てて近寄ろうとしたのを、はっとして立ち止まる。
「な……っ、なぜ泣くのです。あの鴉は無事だったのでしょう?」
おろおろした乙彦が的外れなことを言うのを、小姫は否定も肯定もせず、そのまま聞き流した。唇が震えてなかなか声にならなかったが、ようやく声が出て、言葉をつなぐ。
「岩の……神さま……、乙彦と、約束したって……聞いて……」
「そ……、そうなのです。私の怪我が治るまでは、私の居場所は秘密にすると。そして、その間は、岩の神があなたを守ると言ったのです」
「……私のこと……、忘れても、いいって……言ったって……!」
「――う……っ」
見るからにうろたえた乙彦は、ばつが悪そうな顔をした。視線をそらす乙彦を、小姫は涙声でなじる。
「ひどい……、ひどすぎる……っ!」
岩の神が嘘をつくはずがないと思ったが、さっきまでは半信半疑だった。が、乙彦の後ろめたそうな態度から察するに、その言は真実だったのだろう。本当だとわかったとたん、さらに涙が溢れてくる。せっかく会えた乙彦の顔すら、目のふちに盛り上がった涙でよく見えなかった。
「そんな約束……、私を、忘れてもいいなんて……」
「……し、仕方なかったのです。あの時は、そうするしか――」
「そんな、簡単に……っ」
嗚咽が漏れて、小姫は顔を両手で覆った。
二人が最初に交わした約束は、乙彦が小姫を忘れる代わりに、岩の神が彼女を守るというものだった。だが、岩の神は、セイの記憶を封印するために大量の力を使ってしまった。結果、乙彦のそれを処理しうるだけの力が残らなかったのである。
それで岩の神は、最初の約束を反故にすることにしたという。他にも理由があるようだったが、「やりすぎたかも」「ついむかついて」とかいう単語が漏れ聞こえてくるだけで、詳しくは教えてくれなかった。
そうして、次に結び直した約束が、キンモクセイの花で装身具を作る代わりに小姫を守ること、ついでに乙彦の傷が癒えるまでその場所を秘密にしておくこと、だったらしい。
小姫を守るために交わした約束だから、それに文句を言うのはおかしい。しかし、乙彦が小姫とすごした日々をあっさり手放そうとしたことには、深く傷ついた。彼をなじる筋合いなんてないと頭ではわかっていても、恨み言を吐き出さずにはいられない。
だって。
「私なんて……、乙彦と一緒にいた、ときのこと……っ、一つも、忘れられないのに……」
「……え……」
それを聞いて、乙彦が瞬きをした。意外そうな顔をしたのが、また癪に障る。
乙彦にとってはたわいのないことだったのかもしれない。だが、小姫にはそうではなかった。
高校へ通うとき、家から繁華街までの道を一緒に歩いたこと。最初は手をつなぐのも嫌だった。乙彦もそんな素振りをしていたが、弥恵に強制されて仕方なく従った。その時も彼は、小姫の肌を傷つけないように、そっと指を絡めてくれた。
乙彦の住処のあった洞窟や山道も、乙彦が一緒だった。学校の中に現れたこともあった。夏祭りでは、花火の打ち上げ場所に通いつめ、腹いせに猫又の姿にさせられたこともあった。
どこにいても、乙彦との思い出がある。ことあるごとに引き寄せようとする腕や、触れたときのひんやりとした感触。からかうときの細めた目。涼しげに鳴る笹の耳飾り。
どれもこれも、忘れられないし、忘れたくない、大切な記憶。
だが、乙彦にとっては違ったのだろうか。すぐに忘れても構わないほど、どうでも良い出来事だったのだろうか。
「ち、違うのです、ヒメ……。そもそも、忘れるのはヒメのことではなく――」
そこまで言いかけて、乙彦は口をつぐんだ。小姫の目が吊り上がり、さらに赤くなった。
「……まだ、何か、隠してるんだ……!」
みるみるうちに涙の勢いが増す。自分でも驚くほどの涙の量に、小姫は体の水分がなくなってしまうのではないかと益体もないことを考えた。
「いえ、そういうことではなく……! い、いったん泣くのをやめるのです!」
小姫自身も止めたいところだが、勝手に出るのだから仕方がない。今まで全然泣けなかったのが嘘のようだ。尋常でなく青ざめた乙彦の顔を見て、小姫もわずかながら心配になった。
「うう……、涙腺が、壊れちゃったのかも……」
「ど……っ、どうやって直せば」
「――知らないわよ、馬鹿……っ!」
かんしゃくを起こした小姫に困り果てた乙彦は、おずおずと近寄って、包みこむようにその背中に腕を回した。頬にあたるひんやりとした感触に懐かしさを感じ、同時に圧倒的な安心感を抱く。そのせいで、涙は止まるどころかぶわっと溢れた。
逆効果だったかと乙彦が離れようとしたので、逃がすまいと着物をぎゅっと掴む。涙で着物の胸元が濡れてしまうが、それは乙彦のせいだから諦めてもらうことにする。
なんで涙が止まらないのか、ようやくわかった。乙彦がここにいるからだ。慰めてくれるひとがいるから、安心して泣ける。乙彦の胸の中は、小姫が最も安心できる場所なのだ。
「わ、悪かったのです……」
「…………」
「ですが、簡単に決めたわけではないのです。あのひとなら、見逃してくれそうだという打算もありましたし……。あのひとは、人間には優しいので」
「…………」
乙彦の弱り切った声が、とてつもなく愛おしい。彼を困らせているのだと思うと小姫の胸もチクリと痛むが、それは甘い毒のようで、ずっと身を浸していたいような気分にさせられる。
乙彦は湿った息を吐き、つぶやくように続けた。
「それに、忘れても……、おそらく私は、またあなたのことを――」
「――え?」
「い、いえ……」
また口をつぐむ乙彦への抗議の意味を込めて、着物を強く引っ張った。戸惑ったように、乙彦がもう少しだけ小姫を引き寄せた。
「……まだ、体が完全には治っていないのです。見かけだけは取り繕っていますが、妖力はあまり回復していないのです。……我を忘れて、あなたを食おうとした鴉のこと、忘れてはいないでしょう? 私が怖くはないのですか……?」
小姫を気遣う声の中に、傷つくことを恐れるような響きがこもっていた。
もしかしたら、乙彦も怖かったのかもしれない。小姫と会って、傷つくことが。小姫の瞳に、怯えの色を読み取ってしまうことが。
(そんなこと、あるわけないのに……)
小姫が乙彦を恐れるわけがない。乙彦を怖がるわけがない。
小姫は、誤解されないように、大きく首を横に振った。
「乙彦は、怖くないよ。私だけは絶対、乙彦を怖がらないよ……」
他の誰が怖がっても。他の誰が信じなくても。
乙彦自身が自分を信じられなくても、小姫だけは、乙彦を信じる。
「だって、私……、乙彦のこと、好きだから。――信じてる」
「――……っ」
乙彦が大きく息を吸った。両腕に力を込め、引き寄せた小姫の肩に顔を押し付ける。それが、何かを願うような、許しを乞うような仕草に思えて、小姫も気持ちを受け止めるために、彼の背中に腕を回した。
隙間がないくらいしっかりと抱き締められた小姫は、何からも、誰からも守られているような、絶対的な安心感を抱いた。湖面を渡る冷たい風の一筋すら、小姫の身体には届かない。お互いの体温が交じりあう頃、乙彦がぽつりとつぶやいた。
「……ごまかすのも、限界なのです。もう、降参するのです」
「……え?」
「私も、ヒメと同じ気持ちなのです。たぶん、ですが」
「え?」
乙彦の言葉の意味が、とっさに理解できなかった。きょとんとして顔を上げると、同時に顔を上げた乙彦と至近距離で目が合い、息が止まる。
小姫を見つめる目はまっすぐで、奥底まで見透かされそうなほど透明で。
――こんなに透き通っているなら、乙彦の心の中も、見えるだろうか。
乙彦の真意が知りたくて、小姫もまっすぐ見つめ返した。すると、乙彦が一度、まばたきをして、そっと目を伏せた。睫毛の長さに見とれた瞬間に、唇に柔らかいものが触れる。
(……え……?)
その触れ合いは一瞬だったのに、唇にははっきりと、ひんやりとした冷たさが残っている。以前もこんなことがあったような……と、ぼうっとした頭で乙彦を見やる。
彼は目の中の光を揺らめかせ、微笑みながら見返してきた。
「ふふ……、これは、ただのキスなのです」
「――っ?」
真っ赤になった小姫は慌てて離れようとしたが、背中に回った腕はびくともしない。
妖力を吹き込むでもない、命をつなぐためでもない。ただの、純粋な、愛情を伝えるためのキス。いたずらっぽく笑う目に、隠しきれない熱がこもっていて、触れている部分を通して小姫の中に伝わってくる。
否が応でも期待が高まり、小姫は慌てて乙彦に尋ねた。これで勘違いだとか間違いだとか言われたら、ショックすぎて立ち直れない。
「う……、嘘、じゃないよね……?」
「何が、なのですか?」
「だ、だから……、さっき言ったこと」
表情を確かめようと恐る恐る見上げると、彼は目を細めて苦笑した。
「ヒメ。私は嘘はつけないと知っているでしょう?」
「で、でも、だって……、そんな、急に――」
ついこの間まで、恋なんてわからないし、しないと言っていたではないか。
素直に受け入れるには、あまりにも唐突すぎる。いつ、心変わりをしたのだろう。乙彦の態度にそんな急激な変化は見られなかった気がするのだが……。
「ほ、ほんと……? ほんとに、ほんと? れ、恋愛的な意味で、私のこと好き……?」
「……そうだと言ったつもりなのですが……」
なかなか信用しない小姫を前に、乙彦は不思議そうに首を傾げていたが、何かひらめいたかのように、にやりと笑んだ。
それを見て、小姫の背筋に戦慄が走った。何を思いついたのか知らないが、小姫にとって都合が悪いことに違いない。そういう種類の笑みだった。
もう一度乙彦の腕を外そうと試みたが、まるで鉄のようにがっちりと小姫を抱え込んでいて、身じろぐことさえできなかった。
「え、えっと? と、とりあえずわかった! 後でよく考えてみる! だからあの……、いったん保留で!」
せめて少しでも距離を取ろうと、着物の背中部分を引っ張って、乙彦を引きはがす努力をした。わずかでも隙間ができれば、しゃがんで下から逃げられるかも……なんて考えは甘かった。乙彦は左腕で小姫の身体をしっかと抱え直し、右手を頬に沿わせると、すっと持ち上げた。
「あとで考える? いったん保留? 今更、それはないのです。とりあえず、ではなく、ちゃんと信じてもらわないと」
「わわわ、わかったってば……! し、信じるから、もう――」
「キスとは恋人同士がするものなのでしょう? 一度では足りなかったのです? きちんとわかってもらうためには、あと何回必要なのですか?」
「――えっ? ちょ、乙ひ――」
小姫の狼狽したか細い声は、再び乙彦の唇に吸い込まれた。さっきとは違って予告された分、一気に頭に血が上る。
さっきの軽い触れ合いとも、夏祭りの時の口移しとも、全然違う。宣言通り、小姫に思い知らせるつもりなのだろう。じっくりと想いを伝え、同時に、小姫の想いを確かめるような、恋人のそれだった。
息継ぎをさせてくれるくらいには優しくて、抗議の声を無視するくらいには強引で。次第に深くなっていくくらいには熱烈で。
恥ずかしくてたまらないのに、愛おしくて、切なくて、胸がいっぱいになる。
「……っ」
ようやく唇を解放してくれた時には、小姫の心臓は早鐘のように鳴っていた。全身の血が集まってしまったのかと思うほど、顔が熱くてくらくらする。体に力が入らず倒れこんだ先は乙彦の胸の中で、小姫は抵抗する気力もなく、たやすくその中に収まった。
ひんやりとした乙彦の胸に頬を押し付けていると、「――ヒメ」と、乙彦に呼びかけられた。耳朶を打つ低い声音にびくりとし、そろそろと顔を上げた。すると、すぐそばに、今まで見たことのないほど甘い笑顔があって、小姫はまた息が止まりそうになる。
「……ここは、星空の見えるレストランではないのです。ですが、命を賭して、あなたを守るのです。全身全霊であなたを愛すると誓う――、ですから、私と結婚してくれませんか?」
「――っ、乙、彦……」
それは、初めて会った頃、小姫が語った理想のシチュエーション。乙彦には揶揄され、絶対に叶えさせないと宣言までされていたもの。
確かに、プロポーズの舞台は想定とは違っていた。だが、それをいうなら、乙彦自体、小姫の理想とは全然違う。そもそも、妖怪との結婚なんて、想像すらしていなかった。
(……でも、そんなの、どうでもいい……)
乙彦の言葉には間違いなく真心がこもっていて、それは小姫の心を震わせた。大好きなひとに誓いの言葉をもらうのに、ふさわしい場所も何もないだろう。それに、きっと、この先にある未来には、理想通り、幸せが待っていると思うから。
すぐに返事をしたいのに、また涙があふれて言葉が詰まった。それでもなんとか「うん」とつぶやく。
「……どうやってもヒメは泣くのです」
乙彦が苦笑して、唇で涙を吸い取ってくれる。優しくされればされるほど止まらなくなる涙を、小姫は乙彦の胸に押し付けた。
乙彦に会ってから、小姫は泣いてしまうことが増えた。この先もきっと、そうなのだろう。彼のせいで泣いて――そして、その涙を止められるのは、乙彦しかいないのだ。
「ごめん……乙彦。でも、命を懸けるなら……私を守るためじゃなく、二人で生きるためにして」
「……、それは――」
「じゃないと、私……また、泣くから。乙彦が止めてくれなかったら、泣きすぎて死んじゃうんだから……」
下手な脅しだったが、乙彦には効果があったようだ。苦虫をかみつぶしたかのような声で、しぶしぶ了承する。
「――、わ……わかったのです。なるべく、気を付けるのです……」
「99.999%くらい、気を付けて」
「~~~っ、努力するのです……!」
「……うん……。私も、頑張って乙彦を守るから……」
「――……」
「信じてるから」
何があっても、彼を信じる。自分だけは、乙彦の味方でいる。
絶対に、乙彦を一人にしない。どんなに苦しくても、彼の側を離れない。彼を苦しめるものから、傷つけようとするものから、彼を守ってみせる。守って、側にいてみせる。
誓いを込めて、また、乙彦の背中に腕を回した。乙彦もそれに応えるように、小姫を強く抱きしめた。
「――約束なのです。ずっと、いつまでも……」
「……うん。ずっと……」
――ずっと、乙彦と、一緒に。
風がやみ、凪いだ湖の表面が、鏡のように澄んでいく。
湖のほとりで抱き合う二人を祝福するように、光をたたえた自然の鏡は、いつまでもその姿を映していた。