8.
次の日、約束通り昼すぎに乙彦が迎えに来た。ちょうど弥恵と青峰は不在だったが、乙彦はやはり中に入ろうとしない。
動きやすい服で来るように言われたので理由を尋ねると、これから山に登るらしい。
「山? 山って……、もしかして、この間、土砂崩れのあった?」
「今はもう安定しているから平気なのです」
そうはいっても危険なのではないかと思ったが、乙彦はさっさと歩き出した。おいて行かれそうになり、小姫は仕方なくあとを追う。
川の上流に位置するその山は、小姫の家からもほど近い場所にある。観光用にハイキングコースも設えられているのだが、乙彦は早々にその道を外れた。人の入らないけもの道を、変わらぬスピードで突き進んでいく。一応、小姫のことを考えて、なるべく藪のない、枯れ木や小さな岩の少ないところを選んで歩いているようだ。全体的に、思ったより荒れてはいなかった。崩れた場所も、もっと奥の方だと聞いている。
「私の家も、この山にあるのです。今回は無事だったのですが、そろそろ潮時かもしれない……。今後はおそらく、自然災害が頻繁に起きるようになるのです。この山を守っていた岩の神も、とうとういなくなったので」
「え? それって――」
「この地を捨てたということなのです」
「え……」
それだけ言うと、乙彦は背中を向け、問いかけを拒否するように足を速めた。
うっそうと樹木の茂る山の中を歩いていると、息が次第に上がっていく。急こう配の斜面では、見かねた乙彦が手を伸ばして引っ張り上げてくれた。しかし、そこをすぎると即座に、その手を離してしまう。
気のせいだろうか。昨日の午後から、乙彦に避けられているように感じる。
「……乙彦、私のこと嫌いでしょう?」
離された手を見つめながら問うと、乙彦は振り返らずに答えた。
「命の恩人を嫌うはずがないのです」
「それ、本当に私なの? 全然覚えてないんだけど」
「あの時は私だけでなく、ヒメも危ない目に遭ったのです。記憶がなくても仕方がないのです」
「危ない目って? 車に轢かれたこと?」
「――」
乙彦は探るように小姫の目を見つめたが、何も言わずにまた歩き出した。小姫はもやもやした気分のまま、ついていくしかない。
乙彦は確かな足取りで山道を進んでいく。草履なのに危なげなく歩けるのは、慣れているからか、はたまた妖怪だからなのか。
おかげで、時折、見失いそうになった。わざと置き去りにするつもりではないかと何度も疑った。しかし、諦めて帰ろうとするたびに、木々の間や岩の影で乙彦が待っているのを見つけてしまう。結局、小姫は足早に駆けよって、不安を募らせながらも、彼の歩みに合わせる努力をするより他はなかった。
やがて、辺りに差し込む光の量が多くなってきた。
(……そろそろ、頂上かな……?)
小姫の足はもう、限界だった。運動不足がたたって膝が笑っている。
少し先の岩場で待っていた乙彦が手を伸ばし、小姫の腕をつかんだ。力を入れて、一息に自分の隣に引き寄せる。
足下から突風が吹きつけてきた。小姫はとっさに髪の毛を抑える。
おそるおそる風の吹いてきた方角に目を向ければ、知らず口から歓声がもれた。
「うわあ……!」
眼下には幾重にも連なる山肌が一望できた。それほど高くはない山だが、だからこそ、眼前に迫る木々や斜面の一つ一つが、それぞれの質感も露にそこに在ると感じさせる。
迫力に圧倒されてふらつくと、乙彦が背中に腕を回して支えてくれた。
「あ、ありがと……」
「……こっちなのです」
親切なのかと思いきや、またもすぐに手を離して踵を返した。岩場の端に寄り、小姫が横に並ぶのを待つ。そこから、崖の下を扇子で指し示した。
「あそこに、白い花が見えるのです」
立ったまま真下に視線を向けるのはさすがに怖い。小姫はしゃがんで、そっと前に体を傾ける。
一メートルほど下だろうか。白く透き通る蓮に似た花が、そよ風に揺れていた。
「あれは、岩の神の置き土産なのです。十年蓄えた妖力で咲く、一輪しか存在しない花……。あの花を使えば、私の力を頼ることなく、ヒメは体を維持できるのです」
乙彦はそう告げて、小姫をじっと見降ろした。扇子の影に口元を隠し、彼女の様子を観察している。
「あれが……」
小姫は吸い寄せられるように、這いつくばって右手を伸ばした。しかし、どんなに腕を伸ばしても、花のあるところまでは距離がある。仕方なく、もう少し、もう少し、と徐々に身を乗り出していった。
ようやく、花弁に指先が触れた。岩を握る左手に力を込め、小姫はまた少し腕を伸ばす。そうやって、ガク伝いになんとか茎をつかもうとしたその時――。
小姫を眺めていた乙彦の目に、酷薄な光が宿った。
「――きゃっ!?」
次の瞬間、支えにしていた左腕が消え失せた。小姫はバランスを崩し、頭から空中に投げ出されてしまう。
(助けて……っ!)
崖から落下しながらも、小姫は一縷の望みをかけて、乙彦の方へ右手を伸ばした。が、彼は助けるそぶりを見せるどころか、身動き一つしない。
(乙彦――……?)
絶望が、小姫の視界を白黒に塗り替えた。モノクロ写真のように静止した世界の中で、乙彦が目を細め、崖に背を向けるのだけがスローモーションのように動いて見えた。
そうして、その映像を最後に、小姫は意識を手放した。