44.
次の日、だいぶ体調が良くなった小姫は、気温の上がる昼前に、少しだけ外に出てみることにした。ずっと寝ていたのだから、少なからず体力は落ちているだろう。明日から登校するためにも、散歩でもしようと思ったのである。
季節はすっかり秋らしくなっていた。街路樹は赤や黄色に紅葉し、空の色は薄く、低く広がっている。そろそろ、村唯一の野球場を囲む桜並木も、春とは違う赤い色で染まっていることだろう。
学校の裏にある森はどうなっているだろうか。文化祭の時、紅葉はしていたのだろうか。他のクラスの出し物は、どんなものがあったのだろう。時間がなくて昨日はそこまで聞けなかったが、登校したら早田に聞いてみよう。もし写真を撮っていたら、ぜひとも見せてほしいと思った。
小姫はゆっくりと歩を進めながら、とりとめのないことを考える。そうでもしていないと、どうしても彼のことを思い出してしまう。考えたくないのに、最悪なことが頭をよぎってしまう。
……彼は、あの後、どうなったのだろう。
最初は、どこかにいるのだろうと、何の気なしに名前を呼んだ。そのうち、怖くて呼べなくなった。妖怪にとって名前を呼ばれるのは特別なことで、すぐにわかるのだと言っていたからだ。それでも姿を現さないということは――……。そう考えたとたん、それ以上試すことはできなくなった。
何も告げずいなくなったことは以前もあった。洞窟の中で、彼が怪我をしていた時だ。気を失い、次に気が付いた時には彼の姿はなく、それからしばらく音沙汰はなかった。
あの時と同じであれば、きっとそのうち向こうから姿を現すのだろう。しかし、どこか胸騒ぎがするのだ。あの時とは、決定的に何かが違うのだと。見落としてはいけない何かを見すごしてしまったのだと。
今思えば、小姫を送り出した彼の様子は、やはりおかしかった。達観したような、全てを受け入れたかのようなまなざしをしていた。触れていないと消えてしまいそうで、手を離すのが怖かった。だが、聞いてはいけないような気がして、尋ねることはできなかった。
聞くべきだったのだろうか。何があったのか。何を考えているのか。小姫が怯えず聞くことができたら、彼は消えずにいてくれたのだろうか。
――また、間違えてしまったのだろうか。
ズキリ、と鋭い痛みが頭の中を刺激する。小姫は眉をしかめ、うなだれた。
頭が痛い。もう、彼のことは考えたくない。
だるくてふらふらする体をおして、学校とは反対方向に進んだ。軽い散歩のつもりだったのに、いつの間にか山を登っていた。どこへ向かうとも定めず歩き続ける小姫の前には、いつか見た景色が次々と再生されていく。次第に足取りが重く、気分が落ちていき、そのことに気づいた時には、前にも後ろにも進めなくなっていた。
(……ああ、そっか。ここも……、一緒に歩いた道だ……)
小姫の左腕と左足が消えてしまい、いやいや婚約したあの頃のこと。「婚約せずに手足を補う方法がある」と囁かれ、彼に連れられて登った山だ。
あの頃の彼は今とは全く違っていて、微笑んでも冷たい印象がぬぐえなかった。そのくせ、優しさを垣間見せるせいで、小姫は戸惑いながらも、彼を疑い切ることはできなかった。
それは小姫を陥れようとした罠だったのだが――、彼は結局、小姫の命を奪うことはできなかった。彼女をかばって大けがをし、そうして一人、洞窟の中で、傷が癒えるのを待っていたのだ。
その洞窟は、以前彼が住処にしていた場所だという。それが頭にあったのだろうか、小姫の足は、無意識にそこへ向かっていたようだ。
――だが、これ以上は進めない。
(……だって。もし……洞窟へ行っても、そこにいなかったら――?)
彼のいそうな場所。小姫には、他に心当たりなどない。洞窟に彼がいなかった場合、次に向かうべきあてはない。
いや、探せば見つかるのなら、どこへでも、何度だって探しに行く。村中だって、村の外にだって探しに行く。だが、その確証がない今、答えを突き付けられる恐怖の方が勝る。
このまま洞窟を目指し、そこが空っぽだったら。だが、ここで引き返して、これからもずっと音沙汰がなかったら。
体が動かない。足は地面に縫い付けられたかのように、固まってしまった。
……いつもなら、彼はこんなところで小姫を一人きりにしない。鬱陶しいくらい付きまとって、手をつないだり、抱えようとしたりして、小姫の安全を計ろうとするはずだ。
だがそれも、未だに影すらない。ということは――。
――いくら待っても、来ないということ。
(いくら……待っても……? やだ、そんなはずない……っ)
小姫は必死に頭に浮かんだ考えを振り払った。崩れそうになった足を叩き、歯を食いしばって前に踏み出す。
せめて、心当たりのある場所くらい、自分の目で確かめなくては。それから先のことは、後で考える――……。
とはいっても、病み上がりの身体は思い通りに動かなかった。山道は記憶にあったより過酷で、はるかにきつかった。ようやく頂上付近に着いたときには、すべての力を出し切って、もう一歩も動けないとさえ思った。
しかし、眼下を眺めた小姫は、自分の間違いに気づいて愕然とした。
「……ああ、そっか。私――……」
やっとのことでたどり着いたここは、彼が小姫を突き落とそうとした場所だ。夏祭りの際に隣村へ行くために弥恵たちが使ったのとは異なる、道とは言えない道である。彼の以前の住処は、はるか下に見える岩の中にある洞窟だが、ここから直接降りる道は見当たらない。
今更だが、小姫はこの崖に至る道程しか覚えていなかった。青峰に洞窟で助けられたときは朦朧としていたので、帰り道を覚えるどころではなかったのである。そのことに、ここまで来てようやく気が付いた。
「……なんでこんなに、うまくいかないんだろ……」
小姫はとうとう地面に座り込んだ。あの時は、ここから岩肌に咲いた白い花が、小姫を誘うように揺れていた。その白さを思い出しただけで、胸が痛む。
あれから、いろんなことがあった。最初は彼のことを疎ましく思っていたが、時が経つにつれ、心の中に変化が生まれた。彼の存在は小姫にとって、次第に大きくなっていき、隣にいるのが当たり前になった。彼が側にいない未来を想像することはできなくなった。
彼の方も、少しずつ変わっていったと思う。人間に複雑な気持ちを抱いていたようだが、やがて小姫を、人間の一人ではなく彼女自身として見てくれるようになった。恋愛について抱いていた理想の数々を、揶揄したり、馬鹿にすることが多かったが、尊重してくれるときもあった。左手の修復が終わって元通りになったら、指輪を贈るとも言ってくれた。
妖怪は嘘をつけない。口約束であっても、守られなければならない。
それなのに……どこへ行ってしまったのだろう。
(……、とにかく、いったん山を下りて……、それから、あの道を思い出して――)
そう思ったが、立ち上がる気力がわかない。小姫は、ぼうっと遠くの山並みを眺めながら、地面と風の冷たさにさらされ続けた。
……そうしてどのくらい経っただろうか。ふいに、背後から声をかけられた。
「――調停者の娘よ。こんなところで何をしておる」
「え……?」
聞き覚えのある声に振り向くと、そこには、一回りも二回りも小さくなった岩の神が、態度だけは尊大なままで浮かんでいた。