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妖怪村の異類婚姻譚  作者: 鍵の番人
第三章 花と香りと、特別な約束
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43.


 あれからずっと、小姫は寝込んでいた。


 湖に落ちた上、夜気で体を冷やしたことと、極度の疲労とストレスが原因で、高熱を出してしまったのだ。ちなみに、体中に細かい傷や打撲があったが、そこから細菌が入ったりはしていなかったらしい。医者には、薬を飲んで安静にしているよう言われただけだった。


 最初の三日は熱で朦朧としていて、ひたすら眠っていた。やがて、少しずつ起きていられるようになると、早田が見舞いに来てくれた。


 当然、文化祭は終わっていた。クラスの出し物も含め、無事に終了したらしい。キンモクセイの丘の展示は予定通り中止にし、早田は他の展示のサポートで活躍したという。日浦さんが私を見つけてくれたおかげだよ、と彼女は笑った。


「本当に、ありがとうね。日浦さんには、感謝してもしきれないよ。まあ、頭を打ったせいか、あの時のこと、あんまり覚えてないんだけどさ。でも、罰が当たったのかもしれないよね。日浦さんがあんなに説明してくれたのに、勝手なことしたから……」


 肩を落とす早田に、小姫は首を横に振って答えた。


 早田はやはり、どうしても諦めきれなかったのだという。丘の様子を確認したくてこっそり見に行ったところ、突然意識が途切れて、気が付いた時には小姫の家で弥恵に介抱されていたらしい。


 なぜ意識を失ったのかは覚えていないようだが、おそらく、大鴉の姿に驚いて転倒し、その拍子に頭を打ったのだろうと思われた。しかし、事実をそのまま伝えるわけにはいかない。よって、第一発見者の弥恵がストーリーを考えた。


 それは、土砂崩れが起こり、転がっていた小石に足を取られて坂道で転倒したのだろうというものだ。ついでに、彼女を発見したのも、心配で探していた小姫だということにした。

 後ろめたさは残るが、弥恵の言う通り、嘘も方便だと思うことにする。早田はその後、念のため病院で検査を受けたが、たんこぶができたくらいだったので、文化祭には何事もなく参加することができたらしい。


 早田はクラスの出し物の様子を、生き生きと語ってくれた。クラスメイトたちの個性を詰め込んだ展示の評判は上々で、二日目は行列ができたほどだという。目の下にクマを作りながら、みんな満足げに笑っていたと早田は言った。


 小姫はそっと、早田に気づかれないようため息をついた。本当なら、小姫もそこにいたはずだった。あれほど熱意を持ってみんなと取り組んだ成果を、この目で見られなかったのは、返す返すも残念だったと思う。


 それにあの日は、彼らから反発を受けた日の翌日だった。文化祭の初日に休んだクラス委員は、クラスメイト達の目にはどう映ったのだろう。

 それとなく早田に聞いてみると、彼女の答えはあっさりとしたものだった。


「ああ、そのこと。それなら、全然、気にしなくて大丈夫だよ。日浦さん、実行委員でもないのに、すごく頑張ってくれたじゃん。準備の疲れがたまって、とうとう寝込んじゃったって知って、みんな反省してたよ。日浦さんにばかり、頼りすぎたんじゃないかって。って、それを言ったら私もなんだけど……、ほんと、ごめんね」


 早田に頭を下げられて、小姫は慌てた。ベッドから半身を乗り出し、彼女の目の前で大きく両手を振る。


「や、やめてよ早田さん。私、実は大して役に立ってなかったし。むしろ、早田さんの方が色々頑張ってくれて、部活との掛け持ちで大変だったんじゃないかって」

「ええっ? ちょ、日浦さんこそやめてよ! 謙遜し過ぎって良くないよ! 日浦さんがいてくれたから、みんなあれだけ自由にやれたんじゃん! 私もやりたい放題できたしさ。だから――、……あー、でも、あたしがキンモクセイの丘にこだわったせいで、日浦さんには、嫌な思いさせちゃったんだよね……。あの子も悪気があったわけじゃないと思うんだけど……、ごめんね。本人も反省してて、本当は今日、一緒に謝りたいって言ってたんだ」

「え……。そう、なんだ」


 早田を最初にかばったクラスメイトの顔が思い浮かぶ。


 彼女の態度には傷ついた。早田を思いやっての行動だと考えると、そう責める気にはなれないが、かといって、謝ってもらえればわだかまりがなくなるかというと、そんな単純なものでもなくて……。


 小姫の複雑な感情に気づいたのか、早田が明るく付け足した。


「あ、でも大丈夫! 大勢で押しかけるのも迷惑だからって止めといたから。……話はあとで、いくらでもできるしさ。今は、体を休めることだけ考えて?」

「……うん、ありがとう」


 早田は、彼女の話を聞いてやってとも、許してやってとも言わなかった。さりげない気遣いに、冷えかけた心に温度が戻ってくる。


「……それで、体調はどんな感じ? もうそろそろ、学校に来られそう? 今日はあたしが代表で来たんだけど、五月くんとか、実行委員の二人とかもすごく心配しててさ。明日報告しなくちゃいけないんだよね」


 困った表情を作ってみせる早田に、小姫も苦笑してみせた。


「心配させてごめんね。でも、もう熱は下がったんだ。体調もだいぶ良くなったの。ただ、体力が戻ってなくて。明日も休んで、あさってから、行けそうだったら行こうかなって」

「そっか。……良かった」


 早田は本当にうれしそうに微笑む。それから、時計を見て、もう行くね、と告げた。


「あんまり長居しちゃ悪いしさ。元気になったら、教室でいっぱい話しよ? 文化祭のこともまだまだ話し足りないし、他にもいろいろ、日浦さんと話したいんだ。五月くんたちも待ってるから」


 早田は最後ににこりと笑うと、手を振って部屋を出て行った。


 一週間も休んでいると、なんとなく登校しにくくなる。だが、早田のおかげで随分と心が軽くなった。彼女や五月たちが待っていてくれると思うと、むしろ早く登校しなければと気が急いてしまう。


 しかし、久しぶりに長く会話をしたせいか、小姫は疲れを感じていた。ほうと息をついていると、ノックがして、弥恵が顔をのぞかせた。


「――沙紀ちゃん、帰ったのね。具合はどう? 疲れてないかしら」

「うん……少しだけ。でも、体調はいいよ」


 それだけ聞くと、弥恵は無理せず休むように言って、静かにドアを閉めた。


 台所から、とんとんと包丁の音がする。それを心地よく思いながら、小姫はベッドに横になり、すぐにうとうとし始めた。


 あの日、弥恵と青峰が日無村に帰ってきたのは、夜中のことだったらしい。気を失った小姫を家に連れ帰ってくれたのは岩の神で、弥恵はそのときに詳しい事情を聞いたという。


 予想外のことばかりで驚いたが、学校への連絡や早田の世話など、やることがてんこもりで、呆然としている暇はなかったらしい。体調を崩していた小姫の看病も、弥恵が行ってくれた。おかげで小姫が起きた時にはすべて終わっていたが、とても大変だっただろう。それでも娘には疲れを見せないのが弥恵らしいところだ。


 青峰にも、だいぶ助けられたようだ。弥恵の手が回らない時は、彼が小姫の面倒をみてくれたのだという。セイの件を含め、随分と大学も休ませてしまったが、弥恵の役に立てるなら本望だと本人は述べていた。その気持ちが、弥恵には一向に伝わっていないようなのが憐れではあるが……、彼が満足気なのでそれはそれで良しとしよう。


 そんなことを思い出しながらまどろんでいると、いつの間にか寝入っていたらしい。弥恵に起こされ、部屋で軽く夕食をとった。その後、片付けを終えた弥恵が部屋で一日の出来事を報告してくれるのが、最近の日課である。


「今日もね、彼の様子を見て来たわ」


 彼、と聞いて思わずドキッとしてしまった小姫は、慌てて表情を取り繕った。弥恵がいう彼とは、セイのことだ。彼女はあの日から毎日、キンモクセイの丘を訪れているのである。


 結論から言えば、セイは再度封印されている。が、以前のような、深い眠りにつくような類のものではない。どちらかというと、封印が綻びかけていた十年前の時のような、不完全な状態だ。セイ自身は起きていて動き回れるが、それはキンモクセイの丘の範囲に限られている。以前と違うのは、物に触れたり食べたりできることだ。封印の囲いの中では実体があり、自由に行動できるのである。


 小姫がそれを聞いたのは、三日前、ようやく熱が下がったときのことだ。何度も夢にみてうなされていたので、最初はなかなか信じることができなかった。


 あの夜、岩の神に引き戻されて、失敗したと思っていた。セイは、人を食べた記憶を消すことに抵抗していたから。

 しかし、あの土壇場で、セイは考えを改めてくれたらしい。人を喰った記憶ではなく、人の味や、人を喰らうことで力がみなぎる感覚などを封じてほしいと岩の神に願った。突然の申し出に、彼女は困惑したようだ。当初の予定よりさらに複雑な作業になって、だいぶ力を消耗したと弥恵に愚痴って行ったらしい。だが、そのおかげで、セイは今のところ、人の血肉に飢えた気配は見せていないという。


 それでも、何の制約もなく野放しにできるわけではない。封じることができたのは、感覚というあやふやなものだ。一度でも人肉を食べれば、元に戻る可能性がある。それに、セイの落ち着いた様子は一時的なものかもしれないし、あるいは、そう見せかけているだけかもしれない。まだまだ警戒を解くわけにはいかなかった。


 さらに言えば、丘の封印が中途半端なのも、意図的にそうしたものではなかった。弥恵たちが運んできたひこばえは一メートルにも満たない若木で、聖木といえどもたいした力はない。その足りない分を岩の神が補うはずだったのだが、セイの記憶を封じるために多大な力を失ってしまい、不十分な力しか注げなかったのだという。


 そんなわけで弥恵は、監視の意味も含めて、セイの元に日参しているのである。


「特に昨日と変わりなく、元気そうだったわ。柿とか葡萄とか持って行ったんだけど、どれもおいしそうに食べてたし。最初の頃とは大違いよ」

「そう……、良かった」


 小姫は視線を落とし、唇を緩めた。


 セイは目が覚めた当初、弥恵が用意した食べ物に手を伸ばすのをためらったらしい。人の肉を食べて以来、好きだった木の実や果物の味がわからなくなったと嘆いていたから、そのせいだろう。記憶を封じた後もそれらの味を感じなかったらと思ったら、きっと、怖くなったのだ。


 しかし、長い逡巡の後、意を決して果物を口に入れたあとは、はやかった。あっという間にぺろりとたいらげ、しばらく泣いていたという。おいしいと言っていたから、以前の味覚を取り戻すことができたのだろうと、弥恵は言った。


 ちなみに、人の肉だけでなく、獣の肉や魚の身を口にしても思い出す危険性があるかもしれないと、セイに許されている食事は花や実、植物などに限られている。同じような意味で、人を喰った記憶を一番刺激しそうな小姫は、会うのを禁止されていた。しばらくは弥恵が食事の世話などをしながら様子を見、岩の神が観察と監督をする、とのことだった。


(……でも、それでも十分……)


 厳しい制約があり、楽観視できない状況だとしても、セイがいるのは暗くて冷たい水底ではない。みんなの協力のおかげで、セイはまた、未来を夢見ることができるようになった。


 そうして、このまま発作を抑えることができれば、いつか、本当に自由になれる日が来るかもしれない。小姫と再会できる日も、まったくの幻想ではない。……そのときは、もう一度、友達に……。


 今度こそ、本当の友達に。


(私も、全力でサポートするからね……)


 直接会うことはできなくても、セイのためにできることはあるはずだ。小姫には、セイにこの選択をさせた責任もある。それに、十年前に傷つけた罪を贖う機会でもあった。そしてそれ以上に、純粋に応援したい気持ちでいっぱいだった。


 今、彼は、人間のことや社会のことを勉強している最中なのだという。小姫と一緒に学校へ行く約束を叶えるために、高校生くらいの年齢に変化し直したらしい。

 もし二人で登校できる日が実現したら……、きっと、うるさく邪魔をされて、学校へ着く前に疲れてしまいそうだ。


「――っ」


 ふと、何かを思い出しそうになって、小姫は唇を引き結んだ。弥恵の視線に気づき、ううん、と笑顔を作って首を横に振る。


「なんでもない。それより、セイちゃんって学校に通えるの? 外見が高校生になったっていっても、妖怪には変わりないでしょ?」

「まあ。それはそれよ。昔は妖怪も当然のように人間社会に混じって暮らしていたわけだから、なんとかなるんじゃない?」


 いかにものんきな弥恵らしい言葉だが、彼女が何とかなると言うならなんとかしてくれるのだろう。セイと一緒に登校できる未来は、意外と近いのかもしれない。


「……でも、セイちゃんが高校生って、どんな感じなんだろ」


 小学生の小姫と同じくらいの外見だったセイ。それがいきなり高校生に成長したら、一体どんな姿になるのだろう。

 想像ができなくて首を傾げていると、弥恵の顔が複雑そうなものに変わった。ぎこちない動きでスマホを操作する。


「あのね、小姫……。実は、写真撮ってきたんだけど……見る?」

「――え!?」


 小姫は目を見開いた。

 そんなの、もちろん見たいに決まっている。なぜ早く見せてくれないのかと勢い込んで画面をのぞき込むと、そこには、キンモクセイの木の下で笑っている謎の男が映っていた。


 黒くつやつやした髪に、派手なガラシャツと穴あきジーパンを着こなした青年。オレンジ色のピアスをつけ、サングラスまでかけている。肌つやもよく小さな顔はアイドルのように整ってはいるが――、八重歯を見せてピースをしている彼が、あの可愛らしいセイと同一人物だとはとっさに理解できなかった。


「…………」


 弥恵の態度の謎が解けた。小姫は無言でスマホから視線を外し、ゆっくりと弥恵の顔を見やった。


「……これ、彼に頼まれて、青峰君が買って来たみたいなの。現代っ子には必要なんだ、とかなんとか言われて……。順応性の高さにはびっくりするわね。いつの時代に順応しているのかはわからないけど。……でも、社会勉強用ってことで、小姫の昔の教科書を渡していたのよね。いったい何でこうなったのかしら」

「……とりあえず、青峰さんには、セイちゃんの言いなりにならないよう注意しておいて……」


 小姫は呆れと憐みを抱きながらそう言った。


 おそらく青峰は、弥恵に世話を頼まれて張り切りすぎたのだ。彼のこういうズレたところが、弥恵の中で彼の株が一向に上がらない理由だろう。迷惑をかけたお詫びに、少しだけ協力してあげてもいいかもしれない。


「そうよねえ。もうちょっと、普通の格好をさせるように言っておくわ。――それで、体の調子はどう? 一応、明日まで休むことは学校に伝えてあるけど」

「うん、大丈夫そう。予定通り、あさってから行くことにする。あんまり休むと、授業にもついていけなくなっちゃうし」

「そう? もう少し休んでもいいと思うけど……。まあ、明日一日様子を見てから、また考えましょう。明日はどうしても外せない仕事があって、うちにはいられないけど、夕方前には戻るから」

「うん。わかった」

「……じゃあ、ゆっくり休んでね」


 弥恵はそう言うと、立ち上がってドアノブに手をかけた。その後姿をじっと見つめていた小姫は、思い切って口を開いた。しかし、「お母さん」と呼びかけただけで、次の言葉が出てこない。


「……ごめん。何でもない」


 結局それだけ言って、小姫は口を引き結んで下を向いた。それを、弥恵が痛ましそうな顔で見やる。


「小姫……」

「何でもないの。おやすみなさい」


 小姫は首を振ってそう言ったが、弥恵はなかなか扉を閉めなかった。


 無言の時間に耐えられなくなったのは小姫の方だった。もう一度同じ言葉を言おうとしたとき、先に弥恵が口を開いた。


「……ごめんなさい。あなたには、とてもつらい思いをさせたわね」

「……っ」


 否定しようと思ったが、なんて言ったらいいかわからず、小姫は黙る。弥恵は静かに扉を閉めて、ベッドの横で居住まいを正した。


「ずっと、謝りたいと思ってたの。あの時の私の判断は間違っていた。そのせいで、あなたにも、鴉の子にも、随分迷惑をかけてしまったわ。しかもあなたは、あれほど興味があった妖怪にも、全然関心を持たなくなったわね。まるで、見えなくなったのかのように、まったく目を向けなくなった。……そのとき、思ったのよ。記憶を失ったのも、妖怪に無関心になったのも、同じことが原因なんじゃないかって。無意識に、妖怪を自分の世界から締め出しているのかと思った。だから、私の跡を継がせるのはやめようと思ったの」


 弥恵は一度言葉を切り、再び続けた。


「妖怪とあなたの関わりは断った。でも、鴉の子の恨みは激しかったから、放っておくのは怖かったわ。岩の神様が村を離れられたのを機に、その思いは強くなった。突然、腕や足が消えたこともあったでしょう? 妖怪の仕業ってことは予想がついたけど、それでも、私にはどうすることもできなかった。私じゃ力が足りないと思ったわ。だから、鴉の子だけじゃなく、他のいろいろなことからも守ってくれる存在が欲しくなったのよ。――彼は、そのピースに、ぴったりだったのよね。ずっとあなたのことを気にかけていて、あの事件にも関係がありそうだった、彼が」

「――っ」


 彼、の一言に、思わず小姫は肩を揺らした。そんな彼女に、弥恵は気遣うような視線を注いだ。


「……私も、彼の行方を探しているの。結局、利用したようなものだから、ちゃんと謝りたくてね。まあ、すべてわかっていて引き受けてくれたような気もするけどね。――見つけたら、すぐにあなたに知らせるわ。大丈夫。きっとどこかにはいるはずよ。だから、まずは体を治すことを考えて」

「…………」


 小姫はしばらく黙っていたが、やがてこくりと頷いた。弥恵はうつむいたままの小姫にもう少し何か言いたげにしていたが、それ以上は何も言わずに部屋を出て行った。


 一人になった小姫は、カーテンの向こうに広がる夜空を思い浮かべた。


 早田も無事だった。セイも無事だった。

 なのに――、彼が、ここにいない。


 小姫はあの日から、一度も彼の名を口にしていない。誰かの前でも、一人の時でもそうだった。弥恵もそんな小姫の心情を慮って、今までは彼の話題を避けていた。それでも、口に出せない葛藤を感じ取り、今、思い切って言葉にしたのだろう。


 弥恵の気遣いには気づいている。彼女の言葉を信じたい。……だが、それが本当なら、なぜ――……。


「…………っ」


 小姫は目を瞑って大きく息を吐いた。それから、再度、窓の方をじっと見つめる。


 妖怪は、家人に招かれないと中には入れないという。なら、ノックの一つでもすればいい。玄関は遠いが、部屋の窓ならすぐに開けることができる。……今なら、何も言わずに中に入れてあげるのに。


 寝ている間もずっとつけているヘアピンに、おそるおそる触れてみる。


 これがまだ存在することは、彼が無事だという証明になるのだろうか。それとも、全く関係がないのだろうか。彼からは小姫の居場所がわかるのに、その逆はなぜできないのだろうか。


 小姫は震える唇を手で覆った。ふとした瞬間に襲ってくる激情をこらえるため、深呼吸を繰り返す。


 やがて衝動がおさまると、口元にあてていた手を頬に沿わせ、目元に触れた。


 ――涙はやはり、出ていなかった。


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